*memory 2
初めて彼に会ったのは、今から八年前——私はまだ大学生だった。
その頃の私はモデルの仕事に追われていて、講義中はいつも寝てばかり。この生活は何かが間違っていると思っていたものの、具体的に何がいけないのか考えるのは面倒で、時計が無感情に一日を回り続けているように、私も同じような日々をただ機械的に繰り返していた。
その日は花が散り終わった季節。どこにその色を隠していたのか不思議なほどに青々と繁った桜の葉を見上げながら、私は木の根元に敷かれたレジャーシートの上にぼんやりと座っていた。
次の季節に発売される特別号のための撮影だった。テーマは「今季トレンドをまとめて先取り! 最新コーデで夏を楽しもう!」やら何とやら。元々、ファッションに興味がある方ではない。提示された金額が普通のアルバイトより割が良かったという理由だけでそこに居る私は、どうも周りの温度感についていくことが出来ずにいた。
隣に座っているモデル仲間二人が撮影用の衣装を手に取っては「これ可愛い」とか「でもこれはちょっとないよね」とか言い合っているのを聞き流しながら、私は今日という一日が早く終わってくれることを願っていた。
この日は女性モデルと男性モデルが各四人、それぞれカップルとしてデートを楽しんでいる様子を撮る予定だったのだが、当日になって私の相手役の男性が体調不良で来れなくなったという連絡があった。似た背格好の代役を急遽探しているとのことだったが、果たしてそんな人は都合良く見つかるものなのか。四組中二組は既に撮影を終えている中、もはや自分ではどうにもならない状況の私は、ただ膝を抱えて小さくなっていることしかできなかった。
一つ先の季節をイメージして撮る以上、服は気候に全く合っていない。上着を羽織って膝にブランケットを掛けてはいるが、薄手の半袖シャツとふくらはぎの途中で切れているデニムという出で立ちは何をどう考えても間違っている。さっさと帰りたい、と無意識に腕をさすったところで遠くから車の音がして、それは私たちのすぐ後ろで停まった。
——すみません、お待たせしました!
ワゴン車から慌てて飛び出してきたのは、小一時間ほど前に代役を探しに行った雑誌の撮影マネージャー。その後ろから続いてきた男は、何やら周囲をきょろきょろとしながらぺこりと頭を下げた。
後ろの人が代役だろうか、と思わず不躾な視線を送ってしまう。隣の二人が「あんな人いたっけ?」「いや、初めて見る」とひそひそしているのに同調しながら、私も首を傾げる。広くない世界なので、同じような雑誌に載る大体のモデルは面識があるとまではいかなくとも知っているが、それでも彼は見たことのない顔だった。
身長は高いし、スタイルも悪くない。顔だって並みのモデルよりしっかりしているが、しかし何だろう。場慣れしている感じが全くしなくて、それは例えるなら初めてドッグランに来たシェパードのようだった。
マネージャーが私を見つけて手招きするので、それに応じる。
——ごめんごめん、遅くなっちゃったね。彼、モデルじゃないけど今日空いてるってことで連れて来たんだけど。
「モデルじゃない」って、それは大丈夫なのだろうか。そんな私の内心など気にするでもなく、男は私を見下ろした。
——
——
休日に急に呼び出されたからだろうか、何となく不機嫌な声。でも、だからといってここまで露骨に態度に出さなくても良いだろうに。プライベートでは絶対仲良くしたくないタイプだと思った。
彼が車の中で衣装に着替えている間、マネージャーにどんな人なのか聞いてみた。曰く、役者の卵なので撮影にはそこそこ慣れていて、この日のヘルプにも二つ返事でOKをくれたとのこと。あの口調で「二つ返事で」って……。本当は無理矢理連れ出して来たんじゃないだろうか、という疑念は出さずにおいた。
やがて着替えを終えた彼が出てきて、私たちの撮影は始まった。
しかし、出来はいまいち。カメラマンから「澪奈ちゃん、もっと自然にー」と言われたが、それは私の範疇じゃないだろう、と内心で思っていた。
何しろ、隣の男との息が合わな過ぎるのだ。くっついて歩いたり手を繋いだりしているにも関わらず、最初の挨拶以降まともに目も合わない。はっきり言って、この男とこの状態で普通に撮影をこなせと言う方が無理だった。
このまま続行しても良い画は撮れないだろうという判断とスタッフの厚意で、一旦休憩になった。ここは何か話をしてコミュニケーションでも取るべきだろうかと考えていたのに、彼は私を置いてそそくさとどこかへ行ってしまう。
——やっぱり、やりづらい?
代わりに来たのはマネージャー。彼は苦笑しながら、件の代役が去っていった方を眺めた。
——まあ、彼もモデルとしての撮影は初めてだからね。あれはあれで結構緊張してるんだと思うよ。
そうなのだろうか。ほとんど横顔しか見ていないが、そこからは何の感情も窺い取ることはできなかった。もはや完全に自分の世界に入り込んでいて、他の何者も眼中にない感じ。それがどこか怖い訳なのだが。
半分くらいは終わっているからあとちょっとファイトねー、とマネージャーが去って行くのと入れ替わりに、今度は例の男が何かを片手に戻ってくるのが見えた。相変わらず何を考えているか分からない顔だが、せめて今日の礼くらいは伝えておかないとな、と思った。何だかんだと言いつつ、彼が来ていなかったら別日程での撮影になってしまっていた訳なのだから。
——あの。
思い切って声をかけると、男は横目で私を見下ろした。こうして見るとかなり迫力があった。
——あの、……今日はごめんなさい。
何となく気圧されて、礼を言うつもりが無意識のうちに詫びになってしまっていた。それに対し、彼は「?」が頭の上に見えるような首の傾げ方をした。
——せっかくのお休みだったのに、迷惑だったですよね……?
しばしそのままの姿勢で固まっていた後、私の問いをようやく意味として理解したのか、彼は顔の横で手をぶんぶんと振った。
——え? いや、全然そんなことないですよ。
その後、小学生が先生に怒られる時のように首をすくめてみせる。
——謝るのは俺の方です。こういう撮影って初めてで、勝手が分からなくて。
それに、と彼は私に軽く頭を下げた。
——俺こそ、もっと早く来れなくてごめんなさい。
——え?
——いや、その……こんな寒い中を、薄着で待たせてしまって。
良かったらこれ、と彼が何かを差し出すので受け取ってみると、じんと掌に温かい感覚。渡された缶をじっと眺めていると、その様子を勘違いしたのだろう、コーヒー大丈夫でしたか、という遠慮がちな声が降ってきたので私は頷いた。
——さっき、すごく手が冷たかったので。
思わず見上げると、彼は頭を掻きながらどこか遠くを仰いで言った。
——俺、人見知りだし無愛想だから、やりづらいとは思いますけど……
ふとこちらを見つめた瞳は果てなく澄んでいて、それはどこか遠い国の空の色を彷彿とさせた。
——あとちょっと、頑張りましょう。
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