3.2

 両の足が砂浜をとらえる頃には、すっかりへとへとになっていた。風と波に逆らって進むことがこれほどまでに大変だとは、正直思っていなかった。


 ボードとパドルを返却した後、浜辺の木陰にへたり込んだ。運動なんてものはここ最近全くしていなかったので、たまにこんなことをすると自身の体力のなさに驚かされる。明日は筋肉痛だろうか、と二の腕を揉みながらぼんやりと考える。


 昨夜の静寂から打って変わって、ビーチは人で賑わっていた。私が腰を落としたのは遊泳エリアとマリンアクティビティができるエリアのちょうど境目あたりで、それ故に様々な人が目についた。家族連れを始めとして、よく日に焼けたサーファー、シュノーケルを手にぶら下げた人。さらにはどこから持ってきたのか、軽自動車ほどの大きさのボートを引きずっている人までいる。


 誰もがどことなくはしゃいでいて、華やいだ空気に満ちていた。それは例えるなら、皆が心待ちにしていた祭りの最中に満ちる喧騒のよう。


 無意識のうちに目を閉じて、世界に耳を傾けていた。仄かに光を透かす瞼の裏側に包まれながら、英語、日本語、あるいはそれ以外の知らない言葉の数々を、意味を持たないただの音として私の中に取り込んでいく。それら言葉の端々には内容を読み取らずとも人々の笑顔が見え隠れしていて、この空間全てが鮮やかで純粋な感情の色で埋め尽くされていることが感じられた。


 凪いだ水面のように穏やかな気持ちになりながらも、私は知らず身を縮める。


 誰かにとっての幸せな空気の中に、私が居る資格などというものは果たしてあるのだろうかと、訳もなくそんなことを考えてしまって。


 無数に交わされる言葉を追うでもなく聴き流していく中でふと、一際大きく聞こえる一人の声が現れた。最初はただの音として聴いていたが、それはしばらくしても止むことがない。不思議だなと考えるうち、それは私に向けられた言葉ではないのか、ということにようやく思い至った。


 目を開くと、男が屈みこんで私の顔を覗き込んでいる。それは大樹——ではなく、ブロンドのショートヘアがよく似合う、ハリウッド映画に出てきそうな外国人だった。一言で言うなれば、イケメン。

 彼はスタイルの良い引き締まった身体の脇にサーフボードを携え、何かを私に話しかけていた。おそらくは英語なのだが、しかし何と言っているか全く分からない。


 うーん、と私は首を傾げる。

 最初に思い浮かんだのは「ナンパ」という三文字。しかし私はこんなイケメンにナンパされると思うほどの自惚れもない。どう言葉を返そうかと悩んでいると、男は肩を竦めて一つ息をつき、私の隣に座り込んでしまった。

「は?」

 唖然としながら横を見やると、男はニコリと笑いかける。


 今までの経験と勘が、やはりこれはナンパではないのかと声を上げる。東京で人と待ち合わせしている時に幾度もそういう奴らに絡まれたことを思い出し、知らず眉間に皺が寄る。日本と若干毛色が異なるとはいえ、観光地にはそういう輩がつきものなのか。


 すすす、と横に逃げ、少し離れたところに座り直す。しかし彼はその場から動かず、ただ私に視線を寄越して微笑むだけだった。


 ……何だ、これ。

 いざとなったら全力で逃げようと思っていたところにそんな反応をされ、少し拍子抜けしてしまう。もっとしつこく纏わりついてくるのかと思っていたが、そういうものでもないらしい。というより、そもそもこの男はナンパ目的なのだろうか。その爽やかな微笑からは何も読み取ることができない。

 何となく害がなさそうな感じはしてきたが、しかし私の隣に座る意図が分からない。今更ながらに自分が海外に来ていることを思い出し、言葉というもののありがたみを感じてしまう。行動だけだと、男のそれは大樹より遥かに謎だった。せめて、問いただすとかそういうことができればまだ良いのだが。


 どうしたものかと再度隣を窺うと、男の視線は既に水平線の向こうに行ってしまっている。もはや私のことなどどうでも良さそうな横顔だ。


 変な奴、と思った。

 だが、特に邪魔になる訳でもない。ならば、そもそも気にしなければいいだけだ。


 私は膝を抱えなおし、男が見ているであろう水平線の先に視線を共にする。


 それにしても、妙な時間だ。

 初対面どころか、言葉すら伝わらない人と二人で海を眺めている。仲の良い友人、あるいは恋人とであればこれほどに親密な時間はないだろうが、そうでない場合のこれには何という名をつければ良いのだろう。

 強いて言うならば、他人同士の時間の共有、だろうか。

 しかし考えてみれば、そんなことはいつも、いくらでもやっている訳だ。例えば朝の電車の中、あるいはちょっと寄り道して入った喫茶店。隣には見ず知らずの誰かが居て、その存在は意識しなくとも当然のものとして認められている。だがすぐそこに居て、触れればすぐに交わるはずの人に対して、私たちは関わりを持つどころか基本的には互いを避け続けている。他人は、よほどのきっかけがない限り他人のままだ。


 ならば。

 そんな世界にありながら関わりができ、そして続いていく人とは一体何なのだろう。


 光の粒を纏って眩い青に目を細めながら、私はそんなことを思ってみる。


 何となく馬が合うとか、言葉にはし難い曖昧なものを糸として、いつも私の世界に居てくれる人たち。それは昔からの友人であり、感情を共にする同僚であり、それから恋人でもある。しかし、彼らとの出逢いを思い出しても、そこに特別を見出すのは存外に難しく、それ故私にはその繋がりの意味が余計に分からなくなってしまうのだ。


 潮の香りとともに光を反射して揺らめく青と、白をまばらに乗せて焦点を合わせてくれない青。

 目の前に広がるその二つは、同じ青の中にあってもやはり違う色だった。他人と友人の差のように、同じ括りの中に入れることはできても、そこには確かな線引きがされている。

 果たして、より私に近しいのはどちらだろうか。


 ふと、隣に座っていた男が身動ぎする気配を感じた。さすがに飽きてどこかへ行くのだろうか。特に気にするでもなく耳でそれを追っていると、彼は誰かに向かって声を上げた。どうやら待ち合わせをしていたらしい。それに呼応するように、遠く後ろの方から女性の声がする。


 おいおい、と私は心の中で突っ込みを入れる。女性と待ち合わせしていたのにも関わらず、私の隣にずっと居続けていたのか君は。


 揉めごとに巻き込まれるのはごめんだ。近づいてくる女性の声から逃げるようにして、私はそっとその場を離れる準備をする。


 それにしても、と私は首を傾げる。

 この声、どこかで聞いたような……


「——あれ、澪奈さん?」


 立ち上がる前に声を掛けられ振り返ると、そこに居たのは自分の背丈より遥かに長いサーフボードを抱える、日焼けした細身の女性。


「こんなところで会うなんて奇遇ですね」

 ボードを砂の上に立て、その女性——有紗さんは笑顔を咲かせた。

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