1.8
勢いで飛び出してきてしまったが、明確な行き先というものがある訳でもない。とりあえずと、道の反対側に黒く広がるビーチに足を向けてみた。
砂地の前で靴を脱いで、爪先からそっと降り立つ。初めて触れる異国の砂はさらさらと柔らかく、仄かに昼間の熱を残していた。
顔を上げると、目の前には深い夜の色に沈んだ海が輝きを湛えている。それはあまりにも暗く静かで、背後で営まれている明るさと喧騒から世界もろとも切り離されているような気分になる。
ビーチにはヤシの木が点々と根を下ろしていて、その幹は星が散りばめられた空の裾まで伸びている。私は裸足のまま砂の上を歩いていき、やがてその内の一本の根元で腰を下ろした。
膝を抱え、目を閉じ、その景色の邪魔にならないようにそっと呼吸をする。
遠く聞こえる音楽と人の声、それよりもさらに小さくさざめく波の音、もしくは語らう恋人たちの密やかな言葉。その雑音に加わることなく、私はただ一人傍に居る。
世界の音を聞くこと。
それは私にとって、ある種の趣味とも言えるものであった。
思い出すのは、モデル時代通った撮影スタジオの、機材と機材の間にできた暗い隙間。私は毎回、自分の番が来るまでそこに収まって、波のように寄せては返す雑音の数々を感じていた。その場で動いている時には気にもならないような、コードを引き摺る音や資料を捲る音、それから誰かの息遣い。どのような事象にも音というものは例外なく付随していて、それらが無秩序に重なることでこの世界は形作られていく。その構成要素の存在に気付けている時にだけ、世界は私に身近なものであった。
つまり私にとって耳を澄ませることとは、この世界の形に触れるための儀式であり、心許ない私という存在がここに居ることの確認手段に他ならなかった。
……そういうことでもしなければ、自分が生きているという事実すら忘れてしまいそうで。
僅かに目を開いて、世界を視野の中に入れる。
瞬く星だけが光源のビーチは、目が慣れてもその全容を把握することはできない。地上で認識できるものといえば、波打ち際で寄り添う恋人たちのシルエットくらいのものだ。
どこまでも黒く澄んだ星空を見上げ、息を吐いてみる。
私の雑音が、世界に組み込まれていく。
何でもない音一つが、私という存在の主張になる。
どんな状況かは置いておくとしても、私はここに居て、そして生きている。それを感じながら、ふと思い出す。
そういえば、大樹が私を探しに来ることはなかったな、と。
その事実はしかし、私の感情に色を付けるには至らない。
膝を抱えなおし、顔を埋めて考えてみる。それに答えを見出すことは今の私には困難だということに気付いていながらなお、考えずにはいられなかった。
私にとって、彼という存在は一体何か。
そして彼にとっても、私という存在は一体何なのだろうか、ということを。
《Day2へ続く》
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