1.6
本人が行くことを宣言した水族館に来ても、特に大樹がはしゃぐ様子を見せることはなかった。日本語の音声ガイドが流れるイヤホンを耳に突っ込んで、ただのんびりと水槽を見て回るだけ。時折彼の視線が魚でなく私を向いていることには気付いていたが、一体何なのか。もし私の反応を窺っているのだとしたら、それはあまりにも遅すぎる。人の意見も聞かず、勝手に連れて来たくせに。
よもや、自分が勝手な決定をしていたことにようやく気付いたのだろうか。ふと気になって振り返ると、彼は「美味そうだなお前」とガラスに張り付いたタコに話しかけていた。
ほんの少しでも期待した私が馬鹿だった。彼の思考はいつも読めないが、そんな殊勝なことは一切考えていないというそれだけは、十分すぎるほどに分かった。
それにしても、と私は辺りを見渡す。
ハワイという観光地にありながら、日本人すらまばらな客の入り。そして、回るだけなら三十分とかからなそうな小ぢんまりとした建物のつくり。こんな水族館なら、日本のどんなところにでもありそうだ。大樹が何に惹かれてここを訪れようなどと思ったのか、来てみれば何かしら分かるかもと考えていたが、結局のところ全くもって意味不明なままだった。
おそらく建物の中心付近に位置しているであろう大水槽に近付くと、熱帯魚だろうか、赤く光沢を放つ掌ほどの大きさの魚が二匹、私の前を悠々と通り過ぎる。それを何となく目で追っていると、やがて彼らは大きな岩の前で二手に別れ、そのまま別々の方向へ泳ぎ去っていった。
そんな様子を眺めているうち、ふと疑問が頭をかすめる。
——そういえば私、何で大樹と結婚しようと思ったんだっけ?
つかず、語らず。
私たちにとって当たり前であり、悪くないと思っていた互いの在り方だが、言ってしまえばそこに強固な結び付きと呼べる何かはない。つまり、いつでも更地に戻せる程度の関係に過ぎないはずなのだ。
それにも関わらず私たちは、わざわざ自らの意思で一つにまとまろうとしている。その結論に至るまでの道筋は果たして何だろうか。付き合っている時間? 世間の目? あるいは惰性……。思い浮かぶそれらの中に、私自らが選び取った何かは見当たらないように思えてしまうのだ。
考えるには遅すぎるとしか言いようのない疑問は、頭の中に一粒落ちたと思うと、たちまち広がって暗い霧のように充満していく。
その霧とはつまり、この選択に間違いはないのだろうかという、私自身への問いだった。
そんな心の内を知ってか知らずか、先ほど目で追っていたうちの一匹がいつの間にか目の前まで戻ってきて、ぱくぱくと丸い泡を吐いている。
私は顔を近づけ、心の中で問いかけてみた。
——ねえ、一人でいるのは幸せかい?
当然ながら回答を得られるはずもなく、魚はふいと顔を背けると再びどこかに泳いでいってしまう。それを見送っていると、後ろから「なあ、こっち来てみろよ」と声がかけられた。
振り返ると、大樹が妙に嬉しそうに通路の先を指差している。私は渋々大水槽から離れ、彼の後ろをついていく。
「ほらこれ、クラゲ」
大樹が足を止めた水槽は、先ほどの魚たちが泳いでいたものよりは小さいが、それでもこの水族館では大きな部類に入るであろうサイズだった。その中を、無数の透明な生き物が傘を伸縮させてほわほわと浮遊している。人工的に作られた水流の中をゆっくりと回るその様は涼しげで、時折仲間や壁にぶつかっては各々進路を変えていく。
「お前、クラゲ好きだろ」
どこか誇らしげな口調で大樹が訊いてくる。
確かにクラゲは好きだ。周囲の時間など我関せずと言いたげな雰囲気や、存在していることそれ自体に不安感を覚えるような透明さが。
しかし私は、彼の問いかけに素直に頷くことができなかった。
以前読んだ本の一文が頭をよぎったから。
——クラゲは、水流がなければ沈んでしまう。
彼らの生き方に自分の意思はなく、ただひたすら何かに流されて漂うだけ。
それはつまり、今の私と同じだ。
「……ん?」
返事が無いことを訝しんだのか、大樹が私の顔を覗き込む。しかし私は、クラゲの水槽から目を離すことができなかった。
少し探していれば、その中に私がいるような、そんな気がして。
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