第144話『僕から僕へのバトンパス』

 ――ガレージ・ドックに向かおうと思い、ビルの形をした建造物を降りた瞬間、ギルの視界は真っ暗になった。遅れて、意識もふつと途切れた。


 彼が目覚めたのは、それから10分が経った頃だった。


「あ……ァ……?」


 頬に当たる石板の冷たい感覚に、ギルはゆっくりと目を覚ます。そして、自分の額が濡れていることに気づき、ギルは額に手を当てた。ぬる、とした感触。嫌な予感がしてふと見ると、額につけた手のひらは真っ赤に染まっていた。血だ。


 しかも、どくどくと流れ続けている。


「は……?」


 傷口を探して手を動かしていると、不意に走るズキリとした感覚。普段ならば感じるはずのない痛みに、ギルは更に困惑した。


「……どこに行った?」


 思わず漏れ出た言葉が指すのは、『神の寵愛』のことである。

 今まであらゆる痛みを遮断し、あらゆる怪我を瞬時に癒し、ギルに死ぬことを許さなかった特殊能力。その存在が今、全く感じられない。

 実際その能力がその役目を果たしていたのかはわからないが、不思議と自分の中の支柱も失われたような気分だった。


「つか、やべえ……今、何時だ……脱獄はまだ、終わってねェ、だろうな……?」


 落ちた時にクッション代わりにしてしまったのか、全く動かず、下げている感覚すらしない片腕をぶら下げ、もう片方の腕だけで身体を起こすギル。

 散らばっていた手記を掻き集めると、彼はふらふらと立ち上がる。またズキリと頭が悲鳴を上げて、しゃがみ込みそうになったが、持ち前の気力だけで耐えた。


「いぃぃーっでェ……超いってェ。ゔぁー、最悪だ、マジでいてェ」


 意識があることを悔やみたくなるほどの痛みの何割かを、大声で口にする事でごまかしながらギルは歩き始める。

 なお、射出器は使えなかった。射出器を器用に操れるほど今のギルは平静ではなかったし、そも、落下の衝撃で見てわかるくらいには壊れていた。


「なんっで……急に気絶したんだ……?」


 あの時周囲には誰も居なかったはず。


 可能性としては『サード』から脱獄したギルとレムが、自分が塔を降りたタイミングで近くを通り抜けたことも考えられるが、視認した限りノートン達が通り過ぎてから周辺を通り抜けようとする者は居なかった。


「地下通路があるってんなら、もう俺には対処できねーが……だんだん、まずくなってきたかもな……」


 ずっとわからなかった、過去に世界を越えたギル達の『結末』。それがなんとなく分かったような気がして、ギルは意識を途切れさせないよう歯を食いしばった。





 エリア『ファースト』に移動して、ギルは幸い、自分がそれほど長くは気絶していなかったことを知った。

 戦いの中心地が『ファースト』に移動していることを知ったためである。


「今のうちに手記を……船に積んでおかねェと……」


 ガレージ・ドック。ヴァスティハス収容監獄に滞在する看守や、白装束たちが使う帆船が停泊する倉庫エリアに来たギルは、石の通路のなか足を引きずって歩く。


 ここに来る途中にも、爆発に巻き込まれて足に火傷を負ってしまったのだ。おかげで普段のように動かそうとすると、下半身に激痛が走るようになっていた。

 通常ならば感じない痛みを、よりによって何故この切迫した今、まとめて抱え込まされたのだろう。ギルは恨むような気持ちだった。


「はぁ……っ、あ?」


 前の世界と同じ4番ドックに入ったところ、そこに停泊していた船に、既に誰かが乗っていることに気づき、ギルは顔を上げた。

 同時にそいつもギルの存在に気づいたようで、意図せず2人は目を合わせた。


「……レム」


「あァ? おめぇ……血まみれじゃあねェか」


 出会った熊のような巨躯を持つ大男は、どうやらこちらを『サード』で時間を共にしていた方のギルと間違えているらしく、小さな目を驚いたように見開いた。


「おめぇ、怪我はしないんじゃあなかったのかぃ?」


「それがちーっと事情が変わってな。……あぁ、悪ィけど時間がねェ。これを乗せてってくんねーか、フィオネってやつに渡して欲しい」


「あぁ?」


 レムの返事を聞くよりも先に、船の甲板に手記を投げ込むギル。うちいくつかは自分の血が染み込み始めていたが、気にしている余裕はなかった。彼の頭の中を占めていたのは、一刻でも早くやるべきことを完遂しなければ、という意識だった。


「あぁ、あとそれから、俺の仲間が来るまでもう少しここで待っててくれ。まだ出港はしないで欲しい……頼む」


「頼むったって、俺ぁおめぇさんの仲間に何の義理もねぇだろぃ」


「――ジャック」


「あぁ?」


 よく知っているであろう男の名前を耳にして、出港作業の傍らに聞いていた話をレムがようやく身体をこちらに向ける。


「おっさんのとこで傭兵やってた、底抜けに明るい馬鹿、忘れちゃァいねえだろ。ソイツが監獄の中に居るんだ。もうすぐ出てくると思うが」


「……本気で言ってんのかぃ」


「んな血まみれになってまで嘘つきに来ねぇって。あ、あとそれから、ジャックによろしく言っといてくれ」


 そう言ってギルは身を翻す。だが、


「おめぇさんはどうするんでぃ」


 レムの声が背にかかり、ギルは顔だけで振り返った。


「俺は血を落としてからまた来るよ。そんときゃ、今ここで話したことは全部忘れてるだろうけどな。おっさんは忘れないでくれよ。じゃあ、元気でな」


 視界がだんだんと不明瞭になり、ぶつけた衝撃で脳の信号が上手く出ないのか、すくめようとした肩の代わりに指先が痙攣。

 磁力で床と引かれ合っているかのように身体を重く感じ、タイムリミットが刻々と近づいているのを理解して、半ば投げやりに会話を終わらせるギル。

 自分の血を撒いた通路を逆戻りすると、彼は『ファースト』の中を鈍く駆ける。


 あとは最後に、遠目からでも彼らの顔が見れれば、何も言うことはない。


 ギルは2つの牢屋に挟まれ、路地のように細くなっている道に身を隠した。複数の足音と話し声、総じて騒音が聞こえてきたのは、それからすぐのことだった。


「ノートン、本当にウチら道合ってる!?」


「あぁ、間違いない。まっすぐ進んでくれ。ノエル、大丈夫か?」


「はい……なんとか、でもボク……そろそろ足が……」


 最初に聞こえてきたのは、集団の前方を走って逃走経路を切り拓いているらしいシャロ・ノートン・ノエルの声だった。


「ねぇ、誰かしら! さっきから私のかかとにぶつかってくるの!」


「シャロさんのお兄さんっスね」


「え、オレじゃないヨ、ワン公じゃないノ?」


「すみませんが、ハァ、僕でもないです、ハァ」


 続いてやってきたのは集団の中心におり、割とすることもなく騒ぎ立てているだけらしいセレーネ・ペレット・ジャック・フラムの4人だった。なお、セレーネのかかとを蹴っているのはジャックのようだった。


「喧嘩しとんとっ、走れやあんさんらー! オレらもうっ、ス……スレッスレやねんぞ!」


「マジで走ったそばから地面が削れてくんだけど、あの女っ、しつけェなァ!」


 前走の彼らを追いかけてやってくるのは、追っ手の対応を担っているらしく1番忙しそうなマオラオ・ギルの2人だ。

 走り抜けていった計9人は、どうやらアズノアの鉄球によるもの思しき破壊音に追い立てられているらしかった。


 見たところ、彼らが目指すのはガレージ・ドックのようだ。しかし中々近くまでアズノアが迫ってきているようで、全員が船に乗り込む時間はなさそうだった。


「あー……しゃあねェ」


 様子を伺っていたギルは、太腿にくくりつけて携帯していたナイフを抜き、牢屋街の路地から大通りに向かって投げる。

 すると、タイミングよく振り払われた鉄球の鎖が、ナイフをピンと跳ね除けた。


 予想外の方向からナイフが飛んできたことに、アズノアも気づいたようだ。大通りから覗いていた鎖が地に落ち、鉄球が石の建造物を叩き割る音が止まった。


「……どなたでしょうか」


 アズノアは、路地に居るギルには姿を見せないまま問う。


「ん〜……。アレだ、さっきお前から鍵を取ったヤツだ」


 そう答えると鎖の音がして、刹那、ギルを挟んでいた両隣の牢屋が崩壊した。鉄球を真一文字に振り払ったようだ。間一髪、頭を低くして攻撃を回避していたギルの喉から『うわぁ』という声が漏れ出た。


「よくも先程は……!」


 互いの視線の障壁となっていた牢屋が壊れたことで、姿を露わにしたアズノアは恥辱と怒りにその青白い肌に微かな朱を差し、憎々しそうにギルを睨みつける。

 だが、彼が満身創痍であると知ると、すぐに顔色を変えた。


「貴方、どうしてそんな状態に……いえ、待って、貴方ギル=クラインじゃ……じゃあ、私が追っていたギル=クラインは一体……?」


「まァ、難しいから気にしなくていーよ」


 そう言って、その場に腰を下ろすギル。

 ギルに戦う気がないからか、ギルが重症の怪我人だからか、アズノアは寸前までのような敵意を見せなかった。すっかり毒気が抜かれてしまったらしい。


 ギルは額から溢れてくる血を拭い、目に入らないようにしながら、


「それじゃ、俺もうじき寝るから。おやすみ」


「は……?」


「あ、あとちったぁマシな男選べよ。特にアから始まる男はやめた方がいい」


 困惑するアズノアを置き去りにし、パタッと充電が切れたように眠るギル。そのまま寝息を立て始めたのが聞こえて、アズノアの困惑は最高潮に達する。そこへ、


「アズノアせんぱ〜い……アイツらはぁ……どっちに行ったんですかぁ〜?」


「……チャーリーさん」


 見上げるほどある身長を持った後輩がへとへとになってやってきて、アズノアは僅かに口をムッとさせてギルを指さした。


「見てください、この人。突然『寝る』と言って動かなくなったんです」


「ほぇ〜?」


「訳がわかりません。お陰でだいぶ気を取られましたが……逃げた他の仲間達は、増援の天使が向かったのでひとまず任せましょう。私達でこの男の捕縛を……」


「え? どうしてですかぁ?」


「えっ? どうしてと言われましても……」


 チャーリーからの予想外の返事に動揺し、あわあわと手を動かしながら続きの言葉を考えるアズノア。彼女は『こ、ここに来る以上、』と言葉を続け、


「極悪人であることは確かですし、実際彼のプロフィール・リストは罪状で埋め尽くされていたではないですか。放置するわけにはいきません。それに胸……」


「でも、死んでる人を捕まえても意味がないんじゃないですかぁ?」


「――え?」


 反射的にギルを見やるアズノア。その手前、ギルの正面でしゃがみ込んだチャーリーは『よいしょ』とギルの手首を持ち上げて射出器をずらし、脈を測る。


「……うん、死んでますぅ。けど、そうなるとおかしいですねぇ〜『神の寵愛』のギル=クラインが死ぬなんて、普通じゃありえない話です」


「そうです、ですから彼は生きて、」


偽物ダミーと考えた方が良さそうですね〜。死人に変装させるなんて悪趣味極まりない奴らですよぉホント。まぁ、先輩の方でお祈りして埋葬してあげたら、この人も多少は報われると思いますから、扱いは先輩に任せますよぉ」


「いえ、でもさっきまで喋って……」


 アズノアは言いかけるが、立ち上がったチャーリーが『じゃあ、おれは戦争屋を追いますねぇ』とこの場を去っていったことで、続きの言葉は飲み干された。


 彼女は、恐れと困惑を若草色の瞳に映して、もう1度ギルの顔を見る。


 もう、寝息は聞こえない。


「じゃあ、貴方は一体、何者なのですか……?」











――『神の寵愛』【ギル=クライン】、死亡。

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