第141話『矛盾と微笑まない神様』

 翌日の27日、朝5時ごろ。空色的にはまだ夜に近い環境の中、ギルは波の音を聞いてうっすらと目覚める。冷たい海風と背中の砂の感覚に、そういえば昨夜はあのまま野宿をしていたのだ、とぼんやり思い出したところで、


「いった!? はァ!? いった、いった、てめェ!」


 いつの間に近づいていたのか、小さな蟹に鼻をつままれてギルは飛び起きた。


 それから2分後。砂だらけでぐちゃぐちゃになった髪を結び直し、腕時計をもう一方の腕につけ替えて、あるべき位置に射出器をつけ直す。

 両腕に腕時計状のものを巻いている様はどうにも不恰好だったが、どちらも効率よく動くための必需品だ。許容しなければならない。


 腕時計で時間を確かめて、ギルは海を見ながら砂浜を歩いた。


 いま向かっているのは、昨夜言われた『護送船』が見えるという海岸だ。

 その船がどんなサイズなのか、どこを通るのかをギルは知らない。だが、話によると朝から昼の間に見えるそうなので、射出器を使って乗り込むつもりでいる。


「とはいえ、朝から昼って広すぎンだろ。その間どーやって時間潰そうかねェ」


 そう呟きながら、明るくなり始めた曇天を見上げて――ギルは、ふと気づいた。

 周囲に霧がかかっている。


「え、うっそだろ……」


 ただでさえ情報が少なく、船を見つけにくい状況にあるのに、まさか霧までかかるとは。濃くならないことを祈るばかりだが、それにしてもタイミングが悪い。


「常に目ェ凝らしてねーと、簡単に見失いそうだな……」


 言いながら砂浜に腰を据え、ギルは海を眺める。

 霧が漂っているだけの海を見つめているのは退屈で気が狂いそうだったが、時折盗んだ食べ物で腹を満たしながらも彼は目を離さなかった。


 ――一隻のシルエットが見えたのは、捜索開始から約2時間後のことだった。


 何故かずっと消えない霧のせいで、大体の形しかわからなかったのだが、ためらって船を逃してしまうことだけはしたくなかった。

 全く違う船でも乗り過ごすよりは、と思い立ち上がったギルは、シーツで作ったバッグを斜め掛けにして、射出器をつけた腕を大きく振り払う。

 ギル的には見張り台に着地するつもりで、船のマストに糸をかけたはずだった。


 が、ギルが今いる状況には、致命的な問題があった。


 まず、船が遠すぎて糸が思うように飛んでいかない。挙句、霧がかかっているせいで遠近感覚が微妙にわからないのである。

 そして何より問題なのが、ギルがそれらの問題を理解していないことであった。故に何かを捉えた感覚に『成功した』と青年は思い込み、


「……あ?」


 射出器のからくりが糸を巻き戻し始めた瞬間、ギルは吹っ飛んだ身体の軌道が随分と下向きなことに焦った。しかし気づいてももう遅い。ギルの身体は船の脇腹に吸い込まれていき、思いきり叩きつけられた。


「いっ……!」


 ぐらりと揺れる船。直後、身体が海に向かって落ちそうになるが、落下途中で射出器の糸が止まり、辛うじて船と繋がった状態でギルはぶら下がった。


「あっぶね……」


 冷や汗を拭いながら、宙吊りのギルは上を見上げる。

 1列に並んだ大砲の内1つが覗いた小窓のような枠組みに、射出器の糸が引っ掛かっているのがわかった。どうやら、砲門に糸を掛けてしまったらしい。


 ギルは下げた方の腕をどうにか伸ばし、糸に吊り上げられた腕の射出器に触れ、中のからくりを操作して手動で糸を巻き戻す。チチチチチ、という歯車の音と共に上昇していくギルの身体。そうして、ギルは砲門に手をかけた。


「ふぅ……」


 懸垂の体勢で、息を吐く。さて、ここからどうしようか。

 このまま島に着くまで船からぶら下がっているわけにもいかず、かと言って船の中に乗り込むわけにもいかない。ただ、先程ものすごい音を立てて陸から船に突撃してしまった以上、いぶかしんだ誰かが見に来る可能性もある。


 やはりこうしてはいられない。


 ギルは砲門から片腕を下ろし、もう1度天に向かって振り上げた。

 飛んでいった糸の先端が、今度は船の縁に掛かる。

 そのまま、ギルは人の気配がないことを確認しつつ、糸を戻して上昇していき、ようやく船の縁に手をかけようとして、


「――っ!?」


 ようやく気づいた。潮の匂いに混じって、強い血の匂いがする。


 発生源はこの船の甲板だ。匂いの強さからして、1人や2人分の血ではない。10人以上は死んでいる。腐った感じはない。死んでから日は経っていないようだ。

 顔を出すのは危険だと判断したため、ギルは匂いでわかる情報を集め分析する。


 だが、何故この船の上で大量に死んだのだろう。それがわからない。

 仲間割れが起きたのか、それとも襲撃に遭ったのか――と、考えていると、


「――にも、何人か人が居るんだろう?」


 ふと、聞いたことのある声がした。ギルはその声に、電流が走ったような衝撃を覚える。


「……ノートン?」


「――ことを君に話そう。まず俺の目的は、この移送船を乗っ取ることだ。だから中に居る者は全員、戦闘不能の状態にしないといけない」


 聞き間違いかと思ったが、やはりこれはノートンの声だ。もしや、この船を襲撃したのはノートンなのか。ならば好都合だ、今すぐ前の世界の話をして戦争を防止するために動いてもらおう、とギルは甲板に身を乗り出そうとし、


「っ!?」


 突然、海に落下した。気づけばきんきんと冷えた海水が全身を包み、衣服の縫い目をすり抜けて中に侵入。代わりに装束のあらゆる隙間からたくさんのあぶくが出て、ふわふわと海面に上昇していくのが視界いっぱいに見えた。


「――」


 突然のことで息を吐き切ってしまったギルは、波の動きで歪んで見える船底を見ながら眉をひそめる。


 泳げない。身体に力が入らなくなっている。それに、何故だか息苦しい。『神の寵愛』に守られているはずなのに、どうしても息ができない。


 頭が真っ白になった。


 ――あれ、これ、死ぬのか?


 どんどんと遠ざかる海面を見ながら、ギルはぼんやりと考える。

 わからない。何もわからない。ただ冷たい水の感覚に、普段ろくに意識もしない心臓が強く拍動するのがわかった。何かを訴えているようだった。

 しかしギルは何も出来ず、ただ沈んでいく。意識をゆっくりと手放して、暗い海底に吸い込まれていき、背中がついた瞬間――はっと、視界が明瞭になった。


 呼吸が出来ていないのに、胸が苦しくない。頭も痛くない。

 『神の寵愛』が発動している時の感覚が戻って、意識を失いかけていたギルはめたように目を見開き、水を蹴って海面に戻った。


「ぷはぁっ!」


 海から顔を出すと同時、頭を振って水気を払い、ギルは頭上を見上げる。


 一体、今のは何だったのだろう。

 手の力が抜けたことはどうとでも説明がつきそうだが、『神の寵愛』が発動しなかった理由が見当もつかない。


 射出器に引っ張られて船に体当たりした時点では、発動していたはずだ。そうでなければ、今頃ギルは射出器をつけた腕の骨にヒビが入っていただろう。

 でも、何ともない。ということは、海に落ちる寸前までは発動していたのだ。


 混乱する頭で、ギルは状況を分析していく。だが、その最中。ギルの目の前にあった護送船――と思しき船が、ぐらりと横に揺れた。


「――ッ!?」


 大砲でも食らったのかというほどの振動。驚いて移送船の下に潜ってみると、海底にはもう一隻分の陰が広がっていた。海面を見上げる。ギルが突撃したのとは反対側の船の脇腹に、違う船が衝突していた。

 恐らく、移送船よりも1回りは大きな船だ。あまりにも綺麗な垂直を作って衝突しているので、故意にぶつかったと予想される。


 移送船の護衛をしていた船だろうか。いや、ノートンが甲板に居たとなると、可能性として高いのは――処理班の船か。


 そういえば、前の世界では脱獄してすぐフィオネ達と再会した覚えがある。

 あまりに早い再会で驚いたものだが、この頃から既にヴァスティハス近海に居たのならあの用意周到さも納得だ。

 とすると、この場に居るのはフィオネにノートン、それと確かミレーユか。特に前2人は相談をするには絶好のメンツである。


 ――だが、なんなのだろう。この、胸に巣食う嫌な感覚は。


 『神の寵愛』の不発を自覚した時から続く、漠然とした不安感に、船底を見上げるギルは拳を固く握るのであった。





 結局ギルは、ノートン達と会おうとはしなかった。


 ひとまず彼らとは場を改めてから接触しようと考え、ギルは進む護送船にしがみつきながら監獄に向かった。なお、途中まで並走していた処理班の船は、いつのまにか航路を変えてノートン達と別れたようだった。


 監獄が近づくと、移送船の甲板からノートンが飛び出していった。


 圧倒的な脚力で水面を蹴り、海の上を走っていくノートン。切り立った崖が侵入を阻むヴァスティハスの孤島に触れると、彼はすいすいと崖を登っていった。


 彼が辿り着いたのは船着き場だった。

 囚人ノエルの受け渡し人だったのだろう、看守と思しき2人がノートンを迎える。予定と違う人物が船から現れ、警戒している様子だ。が、三者が向き合ったと思えば、不意にノートンが奇怪な動きを披露。あっという間に看守らは捕縛された。


 遅れて到着した移送船から、フィオネやノエル、他数名の処理班がやってくる。


 そこからのやりとりは、船にへばりついていたギルにはわからなかった。

 切り立った崖のせいで、視線が阻まれてしまったのである。

 ただ、どうやら監獄の中に入って行ったのはノートンとノエル、他数名の処理班だけのようだった。フィオネはすぐに船へと戻り、船ごとどこかに消えて行った。


 ギルは船が完全に去ってから、射出器を使って孤島へひとっ飛び。崖をものともせずに到着し、広がる鬱蒼とした森と、その中央にそびえ立つ黒の城を見上げた。


 巨大な城を再建して出来た、400年もの歴史を誇る世界最悪の大監獄――『ヴァスティハス収容監獄』。大犯罪者を捕らえる正義の象徴でありながら、何故か前の世界では『天国の番人ヘヴンズゲート』と協力関係にあった場所。


 思えば最初に訪れた時は、ジャックとマオラオの2人と一緒だった。


 でも、今のギルは1人だ。1人で行動しなければならない。


 上手く立ち回ることが出来ればいつか、この世界の仲間たちを味方にすることは出来るだろうが――果たして彼らはこんな突飛な話を信じてくれるのだろうか。

 どんなに怪しく思われようと、この『ギル=クライン』の容姿があれば、話くらいなら聞いてくれるだろうが。


「――ん?」


 ふと引っかかって、顎に触れる。そういえば、この容姿があればと言ったが、そもそも戦争屋の面々は【ギル=クライン】を認知しているのだろうか。


 アドは魂を世界に還元することで、生まれ変わりが起きるのだと言っていた。世界だの還元だのよくわからないが、とりあえずそうらしい。

 だが、ギルは魂を世界に奪われては――つまり、死んではいない。何故か、皆のように黒い塊に変化せず、世界線を越えてしまった。

 ということは、この世界のギルはまだ、生まれてすらいないのではなかろうか。


「……いや、違う」


 この世界に到着して最初に出会った白装束は、ギルのことを見て『収監されていたはず』と言った。だから、この世界にもギルが存在していることは確実だ。


 それに同一人物が同じ世界に存在できないのなら、自分はシャロが見たというドッペルギルのせいで生まれなかったはずである。

 ジュリオットもそうだ。監獄のエリア『サード』にいた偽ジュリオットのせいで生まれなくなるはず。でも、こうして2人は無事に生まれている。


 だから、『生まれ変わり』は魂の還元に関係なく――。


「……?」


 これだと、何かが大きく矛盾しているような気がする。

 それに、同じ魂が同じ世界に存在していていいのだろうか。ギルにはよくわからないが、どこかで何かが狂って、その影響がどこかに出ることはないのだろうか。


 たとえばアドの能力の影響を受けなかったギルであれば、アドが繰り返した世界の分だけギルがこの世に居るはずだ。少なくとも10人は居るだろう。こういう気持ち悪い現象は起きたりしないのだろうか。


「いや……」


 自分がわかっている情報から推察するならば、きっと『ギルの大量同時発生』は起きていないのだろう。


 繰り返した世界の分だけ存在するギル、そのうちの何割が戦争屋になっているのかはわからないが、3連続でギルが戦争屋に関わっている辺り、彼がフィオネと出会うことはかなり固く約束された事項のように思える。


 だからもし大量にギルが居るのであれば、彼らがそれぞれの体験を元に、今の戦争屋にアドバイスをくれるはずだ。


 でも、前の世界で確認できたドッペルギルは1人だけ。そう考えるときっと、2人のギルが同時に存在することはあっても、大量に存在することはないのだろう。


「あれ、でも、そうすると……他の俺は……」


 そこまで考えて、頭が熱でぼうっとし始めたのを自覚して、ギルは頭を振る。


 考え事は得意ではない。

 脳が焼けそうになるまで悩むのは、ジュリオットやフィオネに任せよう。ギルはとにかく、もう1度彼らと接触する機会を見つけなければ。


 ギルは白装束を一旦脱いで固く絞り、海で吸った分の水を落とす。当然、着直してもまだ湿っていたが、綺麗な服に着替える暇はない。

 ギルは羽織を被り直すと、監獄がそびえ立つ森の中へと入っていった。


 監獄に辿り着くまでの間、ギルは自分のすべきことをまとめ直す。


 脱獄までの期間は今日を入れても4日。前回はこの時期だと既に、ギル以外の戦争屋はエリア『セカンド』に居た気がする。ノエルの記憶はあまりないが、脱獄の時に彼女と会ったのは確か1階――エリア『ファースト』だったはずだ。

 きっと、この点に関しては今回も変わらないだろう。


「問題は、俺とレムのおっさんか……」


 前回ギル達はエリア『サード』に捕まっていた。が、今回『サード』の管理人であるアズノアは、ギルの推察通りであればまだ、ヴァスティハス収容監獄ともアドとも関わっていないはずなのだ。


 もしそうならそうで、前の世界では出来た『ギル・アズノア・レムによる監獄の撹乱かくらん』が出来ないので、ノートン達の隠密行動が邪魔される可能性があり、ジャック達の解放が出来なくなることが考えられ、


「つか、そもそも俺とおっさんが出れねェかもな」


 となると前の世界で脱獄のため、何かの切り札を切ろうとしたアバシィナが、今度こそ動く可能性がある。だが、当時のレムの反応を思い出すに切り札それは、かなり危険性が高いものだろうし、何より彼には頼りたくない。

 彼に対しては少なからず恨みがあるのだ。


 アズノアにもアバシィナにも頼らずに、ギル達を解放する――それならば、やはり監獄側の協力者が必要になってくるだろう。


「……決まりだな」


 ギルは濡れた前髪を横に寄せて、目の前に現れた孤城をすがめて見た。


 脱獄の日まで、あと4日。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る