第122話『来世はきっと幸せに』
眠りから覚めるように、ふっとノエルは意識を覚醒させた。
陽が完全に遮られた曇天が目に入り、彼女は自分が気を失っていたことと、気絶してからまだそれほど時間が経っていないことを理解。
この因縁の戦いを、気絶した状態でやり過ごさなくてよかった、という安堵と、まだ身体を酷使しなくてはならないのか、という絶望をいっぺんに抱きながら、少女は霧がかったようにぼんやりとした記憶を1つ1つ辿っていく。
まず、記憶が曖昧な辺りよりも少し前、ノエルはシャロとレムに遭遇した。
そして彼らと共に移動し、その道中。次第に悪化していく天気を見て、戦争が継続されるのかどうかについて話していると突然、風を切る鋭い音が3つ。直後、後頭部や背中を何かに強打されたのだ。
そこまでは明確に覚えている。ただ、それ以降の記憶がない。
ぜえぜえと苦しみ喘ぐ誰かの声を聞きながら、等速で揺すられていたような記憶はあるのだが、あまりにも不明瞭なので気絶中に見た夢か何かな気もしている。
――さておき。
気絶した瞬間は確実にその、殴られるような痛みを感じた時だろう。となると、ストレートに殴られたのか、何かそこそこ質量のあるものをぶつけられたのか、何にせよ痛みを感じた原因の跡が多少なりとも残っているはずだ。
それを確かめようと、身体を起こそうとして、ノエルはふと気づく。
――全身の傷が、消えている。
顔を起こした時に見えた自分の身体。その内の露出した部分――腕や膝下といった部位についていたはずの赤い傷が、綺麗さっぱりなくなっていたのである。
それらの傷の1つ1つは大したものではなかったが、無傷であると見間違うには無理があるほど多くの傷が刻まれていたはずだ、それなのに。
幻覚でも見ているのだろうか。
それとも、あの無数の傷の方が幻覚だったのだろうか。
せっかく明瞭になりつつあった脳を、混乱させるノエル。と、意識が覚醒したことにより身体の方の感覚も戻り始めた彼女の頬を、底冷えした風が殴りつけ、
「……!?」
芯まで凍るような異次元の寒さに、ノエルは反射的に縮こまり驚く。
なんだ、この気温の低さは。
確かに今日は
だから、もしかするとこれは――人為的に作られた環境なんじゃないだろうか。
そんな推理をしながら、ノエルは手で拳を作ったり解いたりを反復。身体が動くことを確認すると、仰向けの状態から起き上がる。
冷たい一陣の風が、頭を上げたノエルの灰銀の髪をさらった。
乾燥する目を何度か瞬かせ、彼女は周囲を確認。
そして少女は3つのことに気づく。1つ目は辺り一帯が氷に覆われていること、2つ目はここから少し離れたところに見知らぬ男が倒れていること。3つ目は、
「――おいてか、ないで……やだ、やだぁ……!」
「……シャロさん?」
まるで、幼い子供のように。手の甲で腫れた目元を隠して、何かへの拒絶を叫びながらしゃくりを上げる、亜麻色の髪の少年の存在であった。
*
ほぼ同時、バーシーはノエル達の会話を聞きながら、ふぅと息を漏らした。
冷たい空気に息が触れて、水蒸気となって流れていく。
先程までは吹雪いていたのに、今はもうぽつぽつとしか降らない雪。しかも、その数すらゆっくりと減っている。そのことから、バーシーの残りの命が長くないことは歴然だった。バーシーは、初めて明確な『死』の予感を味わう。
「――」
生業としてきたものがものだ。それだけに、これまでにも寒気立つような死の輪郭に触れたと感じることは、何度も何度もあった。
だが、実際に死ぬとなった時に知る『死』の予感というものは、なんというか、
「悪くない、感覚だね」
自分にしか聞こえない、掠れた声で呟く。
そう、なんというか、睡魔に引き寄せられるような心地がするのだ。
遊び疲れて眠るような、というのだろうか。好きなように生きて、必ず来る次の日に怯えることもなく眠ることが出来た、そんな遠い少年時代が追憶される感覚。このまま死んで楽になれるのなら、最高だと思った。
バーシーは安堵する。きっと、あの少年に蹴り飛ばされる寸前に、頭に氷の膜を張っていなければ、自覚すら出来ずに今頃死んでいたことだろう。
生き物の気配を察知する力も、鍛えておくものだな、と今更ながらに思った。
「……」
――悔いが、ないわけではなかった。
目にかけていた後輩が居る。初めて心から好きになった人が居る。
彼らの行く末を見届けることだけが、この腐り切った醜悪な世界でバーシーが見つけた楽しみだった。だから、それが見届けられないというのは少し寂しかった。
彼らは今、何をしているのだろうか。後輩の方はロイデンハーツで会って以来、連絡も取っていないからわからないが、後者はなんとなく想像ができる。
彼女は今頃、思いのままに敵を蹂躙しながら戦場を血染めにしているのだろう。
自分は彼らにとって、どのくらいの存在であれたのだろうか。
――あまり、期待は出来なそうだ。そう思いながら、青年は細い目を閉じる。
なんだかんだ多くの人間に愛され、面倒を見られている後輩。他人に縛られず、自由に生きている彼女。期待するにはあまりにも相手が悪い。
「……ふふ」
誰にも想ってもらえないことを、悲しく思う日が来るとは。思いのほか人間らしい自分の一面に驚きつつ、バーシーは己の心音に耳を傾けた。
持ち主の意向とは関係なく、身体というものはとにかく生きようとするらしい。割れた頭から出ていく血の分を補おうと、心臓がしきりに脈を打って頭部に血液を送っている。でも、割れたところに血液を送ろうが、ただただ溢れていくだけだ。
自滅していく自分の身体に親近感を覚えつつ、バーシーは柔らかな微笑を刻む。
――あぁ、来世は幸せになれますように。
*
ふと、彼は頬骨の痛みで目を覚ました。
やけに硬い瞼をこじ開けて、木製の床に伏せる青年は入った覚えのない場所に自分が居ることに驚く。が、すぐに冷静になって、青年は状況の把握に努めた。
――少しして。彼は、ここが船の一室であることを理解した。
物置用にされているのだろうか、木箱が沢山置かれた小部屋である。船は海に浮かんでいるようで、全体がゆったりと一定のリズムで揺れていた。小窓からは弱い日の光が差し込んでおり、外が曇りかつ日中であることがわかった。
ただ、どうしてこんなところに居るのかが全くわからない。
そもそもこれは、味方の船なのか敵の船なのか。これは死活問題である。今1度、この状況が何なのかがわかりそうな出来事がなかったかを思い出そうとして、
「……?」
ふいに青年は、自分の手足の感覚がないことに気づいた。
否、手足は確かにあるのだ。なのに、手足の感覚がなかった。動かそうと思えば動かせはするのだが、感覚がないのでとても不気味であった。
それに、おかしな箇所はまだまだあった。
まず、顔の筋肉が凍りついたように動かない。比喩や誇張表現ではなく、恐らく本当に凍っている。しかして唇には痺れるような痛みがあり、全身は滝でも浴びてきたかのようにぐっしょりと濡れていて、衣服が肌に張り付く感覚が不快だった。
これは一体何なのか。全身の違和感に顔をしかめ――否、顔が動かないのでしかめたつもりでいると、その時。
「……!」
青年は、どこかから近づいてくる足音に思わず息を止めた。果たしてこれは敵のものか味方のものか。敵だった場合、自分が意識を取り戻したと知られたらどうなるかわからない。今はまだ、気を失っているふりをするべきか。
青年は目を閉じる。彼は眼鏡をかけていたので、そのままうつ伏せ続けるのには抵抗があったが、仕方がないと割り切った。その直後、
「ジュリオットきゅん!?」
「ごへッッッ!?」
名前を叫ぶ若い女性の声と共に部屋の扉が開け放たれ、それと同時に青年の――ジュリオットの頭が衝撃を受けて跳ね除けられる。
衝撃に朦朧とする頭を抱えてうずくまり、何事だと丸めた腕と身体の間から視線をやって犯人の顔を確認するジュリオット。すると、そこに居たのは、
「リッ……」
「ジュリオットきゅん起きてるーーーー!!」
人の頭を跳ね飛ばす野蛮人の名を口にしようとした声が、掻き消す意図なく上げられた大声にて抹消される。その、通りの良い声に耳をつんざかれながら、ジュリオットはじとりとした半目になって野蛮人を見上げ、
「……これは、どういう状況ですか。リリアさん」
――同じくびしょ濡れになっている、自分と同世代でありながら幼女のような体型をした人物、リリア=メイヘイヴに問いを投げかけた。
「うぅ〜ん」
人の頭に扉をぶつけたことへの謝罪は特にせず、顎を摘みながら首を捻って何をどこから説明すべきか思考するリリア。扉のすぐ傍で倒れていたジュリオットにも非があるとはいえ、なかなか良識に欠けた奴である。
そんなことを考える青年の手前、濡れてぺしゃんこになった桃色の団子髪のゴムをほどきながら、彼女は『わかんね!』と考えることを放棄し、
「けど、ジュリオットきゅんも自分が凍ってたことは覚えてんだろ?」
「――あぁ、思い出し……待ってください、『も』?」
「あ、ジュリオットきゅんは知らねーよな。あたしも最近凍らされて、この船に運び込まれてたんだよ。でも、今さっき急に氷が溶けたみたいで、今のジュリオットきゅんと同じように床にぶっ倒れててさ」
曰く、彼女も意識が戻ってからしばらくは動けなかったようだが、時間経過である程度体温が戻ると顔も身体も動かせるようになったらしい。
「そんで、ここが処理班の船ってのはすぐわかったから、誰かに助けてもらおうと思って部屋から這いずり出たわけ。したら、すぐに班員ちゃんを見つけてさ。色々話を聞いたついでに、ジュリきゅんの居場所も教えてもらったんだ」
「はぁ、なるほど……」
相槌を打ちながら、ジュリオットは安堵。ここが処理班の船であると断定された今、命の心配をする必要はない。青年は、心の中で胸を撫で下ろした。
「――あいつ、死人が生き返ったみたいな顔しててマジ面白かったぜ。ジュリオットきゅんにも見せてやりたかったよ」
うつ伏せるジュリオットの傍、壁にもたれかかりながらけらけらと笑うリリア。濡れた背中を押しつけているので、しっかりと部屋の壁に水が染み込んでしまっているのだが、本人はそれに気づいていないのだろうか。
というか、そろそろ自分も身体を拭きたい。欲を言えば温かい風呂に入りたい。そんな風に思っていると、そこへどたどたと慌て気味の足音が響いて、
「リ、リリアさぁーん! どこですか!」
「ぐへェッッッッ!!??」
扉が再び開け放たれ、ジュリオットの後頭部が2度目の強打を喰らう。
その、潰れたカエルのような悲鳴が聞こえたのだろう。扉を開け放った犯人は足元を見て『え?』と間抜けな声を漏らした後、
「きゃあぁぁぁぁぁぁっ!?」
殺人現場にでも遭遇してしまったかのような、甲高い悲鳴を上げた。
「あっ、えっ!? ジュリオットさん!? ごごごごご、ごめんなさい!?」
「……いえ、もう2回目なんで慣れてきました」
身体がまだ上手く動かず、首と視線だけ動かして声の主を見るジュリオット。
目に映ったのは、処理班の制服を着た純朴そうな少女だった。
その細腕には白いバスタオルが抱えられており、1枚だけしかないのを見るに、恐らく彼女は先程リリアが出会ったという班員なのだろう。
自分の非に気づいたら咄嗟に謝罪が出来る辺り、処理班の副リーダーであるはずのリリアよりもずっと出来た人間である。そう思っていると、少女は『あっ、リリアさん』と言いながら、バスタオルと一緒に何かをリリアに手渡した。
どうやら、手の内に収まるサイズのもののようだが、一体何だろう。
下から眺めるジュリオットが、譲渡されたものの正体について考えていると、
「フィオネさんと繋がっている無線機です。――リリアさんに、お話があると」
――【バーシー=バールエル】死亡。
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