第121話『少しだけ素直になった日』

 それはあまりにも突然で、一瞬の出来事だった。故に、バーシーの目の前にいたシャロでさえ、この刹那の間に何が起こったのか、すぐには理解が出来なかった。


 ――目の前に居たバーシーの姿が、突然大きく横にぶれた。


 あまりのぶれの速さに彼の残像が置き去りにされ、突然姿が歪んだ青年に驚いたシャロは、防衛本能から反射的に顔を横へ背ける。すると、背けた方向とは反対の方向にバーシーが吹き飛び、ボールのように跳ねて氷の絨毯にスライド。


 シャロが現状得ている情報を整理すると、大体こんな感じであった。


 次いでシャロは、バーシーの身体が吹き飛ぶ寸前に聞こえた、『何かの骨が粉砕されるような未知の音』と、やけにみやびな笑い声を思い出す。


 あの声には聞き馴染みがあった。あれは、シャロのよく知る小柄な少年の声だ。それに、謎の粉砕音とあの少年を並べれば、音の正体もなんとなくわかってくる。あれはきっと、頭蓋骨にヒビが入る音だろう。


 そして、それらの仮定をもとに物事を順番に考えると、〈彼〉がバーシーを頭を跳ね飛ばした、と考えればピースがすんなりはまる。故に、彼が――マオラオが助けに来てくれたのでは、と直感し、シャロは期待に満ちた目でぱっと顔を上げた。


 しかし、琥珀の瞳に浮かんだ光は、すぐに打ち消されてしまった。


「……マオ?」


 震えるシャロの声。

 それを聞き、予想通りここに現れた1人の少年がこちらを振り向く。


「……!」


 それによって明確になった、額に生える双角の存在にシャロは言葉を失った。


 ――シャロが名前を呼ぶ寸前。こちらに背を向けていた少年の後ろから、少年の頭頂の奥にちらりと赤く尖ったものが覗いているのを視認した時は、何かと見間違えたのかと思ったが。

 少年とシャロが高いに向かい合い、正面からその角の全身を見てしまえば、もはや見間違いだと拒絶することは不可能になる。


 額に覗く美しい双角。それを目にしたシャロが連想したのは、今は伝説のように扱われている第3の種族――鬼族のことだった。


「……マオ、なの?」


 見る者の頭を混乱させるには十分すぎる双角の存在に、シャロは確証が得られずつい問いかける。すると、目の前の少年は困ったように目を細めてから、


「あー……せやで、まぁ」


 と、酷く曖昧に肯定した。


 その味気のない答え1つで、シャロの心は大きく揺さぶられる。事実をすんなり呑み込むことが出来ず、脳を動かす為に息を求めた口がわなわなと震えた。


 ――明言しておくと、シャロは角を生やした目の前の少年がマオラオであることを、つまりマオラオが鬼族であることを、受け入れたくないわけではない。


 世の中には鬼族という存在を嫌悪したり、恐怖したりする人々もいるようだが、そういった感情はシャロにはないのだ。今更鬼族だからといって排他的な思考になることはなかったし、それがマオラオ相手であるならば尚更だった。


 だが、2年も共に過ごしてきた仲間が、今では伝説上の存在同然の鬼族だったと知った時の動揺は、そう簡単には収まるものではなく。


「そっ……かぁ」


 一聴、間抜けにも聞こえる相槌を打ちながら、シャロは考える。


 彼が鬼族だと判明したことで、いくつか浮上する疑問があるのだ。


 まず、前提として。鬼族が美しい角を持った種族だという話は、大層な学校でなくてもある程度の規模を持った教育機関であればほぼ義務的に教えられる。今や、5、6歳の子供でも半数以上が知っていることだろう。


 けれど、マオラオは今まで角を生やした姿を1度足りとも見せてこなかった。

 それが一体何故なのか。それから、どうして今更角を生やしたのか。そもそも、鬼族は『角を生やさない』ということが出来たのか、という疑問。


 そして、疑問は大きく括るともう1つ。

 どうしてマオラオは、定期的に筋力が落ちるのか、である。


 鬼族は戦闘民族とも言われ、鬼族1人に対して人族や獣人族が1000人でようやく力の吊り合いがとれる、という話があるくらい圧倒的な武力を持つ。


 実際、1000人も必要なのかはわからないが、1人2人では全くステータスが吊り合わないのは確かで、ちょっとやそっとで他種族よりも弱くなる、なんてことはありえないはずなのだ。


 けれどマオラオは、時々シャロよりもフラムよりも弱くなる時がある。

 本人曰く、監視課としての連勤明けなど『運動不足中』に弱くなるらしいが、あの鬼族が運動不足程度でヒトより弱くなるだろうか。


 以前から、筋力の増減が激しい彼の特異な体質には疑問があったのだが、彼が鬼族と知ってからは尚更気にかかっていた。


「……」


 シャロは、ちらり、とバーシーの方に目をやる。


 彼は、氷のフィールド上に仰向けになって沈黙していた。死んでいるのか、生きているのかはここからではわからない。ただ、頭から大量の血が流れ出しており、先程聞こえた破裂音から考えても、生きている可能性は低いと見えた。


 ――沈黙が流れる。


 あまりにも重たい空気に、シャロの中で1つの説が生まれ始めていた。


 そもそもマオラオは、この状況下で黙り込むような男ではないはずなのだ。

 満身創痍になったノエルと、ノエルを抱えての全力疾走でボロボロになっているシャロを見て、『なんでこないなるまで無理したんや』系の小言、あるいは純粋に心配の言葉をかけてくれるのがシャロの中の『マオラオ』の認識である。


 でも、目の前の少年は先程からずっと黙り込んでいる。まるで、こちらの出方を伺っているかのように。


 それだけで偽物と決めつけるのも気が引けたが、共に2年間過ごしてきて、それなりにマオラオのことを知っている脳が、しきりに違和感を訴えていた。

 こういう時、自分の勘はよく当たると、シャロは密かに自負していた。


 ただ、何にせよ今は憶測の域を出ないので、ひとまずノエルの身体を少年から守るように抱きしめつつ、シャロは少年との対話を試みる。


「……助けてくれて、ありがとう。マオは? 大丈夫? 凄い血だらけだし……それに、その頭の角って」


「あぁ、これ全部返り血やから。傷は負ってないで。角のことは……まぁ、後で説明させてくれ。それよか、そっちの……なんやっけ、酷い怪我やな」


「? ノエルのこと?」


「あー、せやったせやった」


 悠長な口ぶりで頬を掻くマオラオ。既に様子がおかしい。ノエルの名前を忘れていることも、かなり怪しく思える。ただ、実のところマオラオは全くノエルとの絡みがないので、本物のマオラオが素で忘れている可能性も捨てきれない。


 と、


「そろそろ、手当てせんとまずいんちゃう?」


 言いながら突然、マオラオが歩み寄った。血染めの手がノエルの頬に伸び、


「――!? 待っ……!」


 シャロは、反射的に引き抜いた大鎌の峰をマオラオの喉に差し向ける。

 常人の目には止まることのない、俊速の展開だった。そのはずなのだが、どうやら見えているらしい少年は、峰が当たる寸前で立ち止まって、


「はぁ〜〜〜ッ、そない怖がらんでもええやんかぁ」


「……え?」


「中身は確かにちゃうけど、俺はあんたらに危害を加えるつもりはあらへんし、っちゅーか偽モンやってわかっとるなら試すようなことせんと言えばええやんか。思わずノってクサい演技してもーたやないか、なあ」


 大鎌の峰を掴んで、明後日の方向に向けながら文句をつけるマオラオ。対して、言われたことの意味がわからず、シャロはぽかんと口を開ける。


「な……中身『は』違うって……? どういうコト……?」


「まんまの意味や。身体はあんたの知るマオラオのもので、中身は俺……俺って言ってもわからんか、俺は【アカツキ】。本名はもっと長いんやけどな。……あ、二重人格とかそんなんちゃうから。俺はこいつに憑いとる神様や」


「――は??」


 理解の許容を超え、シャロの口から低い声が飛び出した。





 身体はマオラオで、中身は別人で、その別人の正体は神様。

 簡潔にまとめても意味がわからない。本物のマオラオがそういう痛々しい病気を発症したか、それとも神をかたる狂人が能力か何かで取り憑いたのだろうか。


 出来れば、この2択のうちの後者であって欲しいと思う。でないと、鬼族だとか鬼族じゃないとかそんな話よりも先に、彼と距離を置いてしまいそうだった。


 しかし、呆然とするシャロの隙を突き、


「これで、信じてもらえると思うねんけど……」


 そう言って、しゃがみ込んだマオラオがノエルに触れる。我に返り、あっと声を上げるシャロ。その直後――不思議な現象が起こった。


 ノエルの頬についていた擦り傷が、すっと消えたのである。


 しかも、頬だけではなかった。腕の切り傷が消え、バーシーの針を受けた頭と、背中と、脚の出血が止まった。虫のようだった呼吸が少しずつだが安定し始め、大量出血と凍りつくような寒さに、真っ白になっていた肌が赤みを取り戻し、


「……え?」


「ほな、マオラオの奴はこないなこと出来ひんかったやろ?」


 間抜けな声を落とすシャロの顔を覗き込み、マオラオが不敵に笑った。


「信じてくれるか?」


「……た、ぶん。貴方がマオじゃないってことは、信じるよ」


 ノエルの呼吸がたちまち穏やかなものになり、驚きに目を見開くシャロは、恐る恐る彼女の目にかかった前髪を払いながら返答。


 恐らくノエルは、少年の能力によって回復したのだろう。が、そうなると能力者1人につき1つしかない特殊能力の枠を、先程の見せられた回復能力で使ってしまうので、彼が変身系の能力者で、マオラオに化けているという説が消えるのだ。


 それに、本物のマオラオの能力は回復系ではなく『監視者』なので、マオラオの頭が狂ったという説も同時に消えるのである。故にシャロは、中身が別人である、という少年の主張を半ば強制的に受け入れさせられていたのだが、


「アカツキさん……だっけ。今、マオの身体の中にいる貴方が神様、っていうのはまだ信じられない。それに……どうしてこんなことになったの? マオは――本物のマオは戻ってこれないの?」


 最後の問いを紡ぐシャロの声は、怯えるように震えていた。その弱々しい音だけで、彼の中の『マオラオ』という存在がどれだけ大きいのかは一目瞭然だった。


 マオラオ――もといアカツキは、一瞬言葉に詰まってから睫毛の影を落とし、


「それは、あんたには教えられへんな。……教えても意味がない、って言うた方が正しいかもしれんけど」


 そう言って、立ち上がる。小柄なマオラオの身体とはいえ、地面に尻餅をついたシャロと立ち上がった彼では目線にそれなりの高低差が出来る。

 自然、シャロは彼の顔を見上げる形に、彼はシャロを見下ろす形になって、


「なん、で……!」


「信じられへんと思うけど。あんたはもうじき、生まれてから今までに起こったことをぜーんぶ忘れてまうんや」


「……?? どういう――」


 こと、と言いかけて、シャロは口を止める。否、止めさせられた。

 ふいに彼が見せた、酷く寂しげな表情に。それを見たその一瞬、一瞬だけ、マオラオの本心が見えた気がして、意識を丸ごと奪われたのである。


「すまんけど、もう時間がなさそうや」


 言いながら、マオラオはシャロに背を向ける。


 小さいけれど丈夫で、どこか安心できる彼の背中。物理的な距離はそれほど遠くないはずなのに、じっと見ていると何故かとても遠くにあるような気がして、思わずシャロは手を伸ばそうと握っていた大鎌を捨てた。


 氷の地面にぶつかって、大鎌はかん、と無機質な音を立てる。


「俺は……オレは、はよ自分の生まれた国に帰らなあかん」


「……待って」


 ――今のマオラオの中身は、アカツキだけじゃない。


 確実に、マオラオの意思が混じり始めている。その確信があった。

 ないまぜになっているから、『マオラオ』としてはかなり歪だったが、それでもその口調には、その後ろ姿には、確かに彼独特の温かさがあった。


「やから、これ以上あんさんとは話されへん。……あんさんも、オレらのことは忘れて仲間のもとに戻ったらええ」


「……まってよ。マオも、ウチの大事な……仲間、だよ……」


 声が震える。涙混じりで、情けない声が震える。


 彼を止めなければいけないと、そう思った。だから、抱えていたノエルを大地に寝かせて、立ち上がろうとした。けれど、足に力が入らなかった。


「ッ……!」


「ありがと。仲間やって言ってもらえてほんまに嬉しい。けど、オレがこん世界の記憶を引き継がんといかんみたいやから」


「――――」


「最初は、オレも理解が出来んかってん。でも、さっきアカツキや言うた男がさ、オレの中におった間――ちょっとだけ、理解してん。オレがやらんと、あんさんらの運命が固定されてしまうって。……シャロには、意味がわからんと思うけど」


「――――」


「まぁ、やから……シャロは、アイツらと一緒に居たってくれ」


 這うような体勢から顔を上げると同時、マオラオがこちらを振り向いた。

 その、使命感のようなものを抱えた笑みを見た瞬間、シャロはもう自分の声が彼には届かないのだと理解する。理解、させられる。


 彼が居なくなる理由も、彼がしきりに『最後』だの『終わり』だのを主張する理由も分からない。何もかもわからないのに、それだけは。


「なぁ、シャロ」


「――――」


「ごめんな。けど、最後やから言わせてほしい。……ほんまに、言い逃げして情けない奴やって、自分でも思うねんけど」


 悲壮な表情で言葉に詰まるシャロの前、マオラオはふわりと柔らかく笑う。

 それは、今までシャロが何度も見てきた彼の、どんな笑顔よりも綺麗で、晴れやかな微笑だった。


「オレ、ずーっと前から、シャロのことが好きやった」

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