第120話『かみさまのいうとおり』

 一体、いつからだっただろうか。

 ヒトの血肉を見て、激しい空腹感を覚えるようになったのは。


 明確に自覚したのは今日だったが、よく考えるとそれ以前から、その前兆のようなものはあった気がする。そう、あれは確か、ヴァスティハス収容監獄から脱獄しようとしていた時のことだ。

 あの時マオラオは、追っ手を皆殺しにした後無意識に肉塊へ手を伸ばした。腹が減ったからパンを食べるように、ごくごく自然な動作と思考で手を伸ばし――。

 タイミングよくかけられた、ノートンの声に意識を取り戻して、自制した。


 でも、今回は――自制できなかった。


 白装束の集団と相まみえ、暴虐の限りを尽くしたその終盤。

 恐怖に涙し、声を枯らしてき叫ぶ男の手を『うるさいねんお前ェ』などと悠長に語りかけながらねじ切った、その時。ヴァスティハス収容監獄で感じた空腹感とは比べ物にならない、狂うような飢餓感がマオラオを襲ったのだ。


 だから、手近にあった白装束の肉体を食らった。


 食べなければ死ぬ、と思った。倫理的じゃないとか、道徳的じゃないとか、そんなことを考えている余裕は一切なかった。

 食べて、食べて、食べまくった。そして、ひとまず腹6分目までをヒトの血肉で満たした時――マオラオは、自分の中の何かの糸が、ぷつりと切れる音を聞いた。


 きっと、ヒトに混じってヒトのふりをしていた自分が、とうとう本物の鬼になってしまった音だったのだろう。意識が混濁しており、自分の犯した過ちにもまだ気づいていなかったマオラオは、緩やかな思考の中で本能的に理解をした。


 そう、マオラオがニンゲンを食べたのは、今日が初めてだったのだ。


 というのも、今ではもはや信憑性に欠ける話だが――元々のマオラオは、鬼族の中でもごく少数の、ニンゲンの捕食に否定的な鬼だったのである。

 食人をして生きる鬼族の生まれでありながら、マオラオがヒトを食わずに16年もの間生きてこられたその理由――挙げられるのは、大きく分けて2つだ。


 まず1つ目は単純に、マオラオが自分たちと似た姿形をしているニンゲンたちを食べることに、生理的な嫌悪感を持っていた為である。


 ちなみにこれ自体はさして珍しい思想というわけではなく、鬼族の中でも同じように感じている者はそこそこいる。ただしそんな彼らも鬼である以上、人肉を食べないと色々と不都合があるため、やむを得ず食べてしまう場合がほとんどだ。


 ならば何故――というと、ここで2つ目の理由が重要になってくるのだが、


《――まぇ》


「――!」


 不意に脳内で誰かの声が聞こえて、マオラオは意識を覚醒させた。


 数瞬の後。ゆっくりと、自分への恐怖が喉をり上がって、薄く開いた口の隙間から弱々しく、しかしはっきりと、拒絶の色を伴った息が零される。


「は……?」


 水っぽい謎の体液と鮮血に染まった自分の両手。歯の隙間に引っかかる、筋肉の繊維の感覚。舌に残る鉄の味。眼下に転がる不自然に欠けた死体、死体、死体。

 自分が何をしたかは、一目瞭然だった。


 どくん、と心臓が跳ねるように高鳴る。ぼんやりしていた意識が冴え、全方位に広がる目を背けても背けきれない自らの罪を自覚した。けれど、この時マオラオの胸中を埋め尽くしていたのは、恐怖でも、焦燥でも、困惑でもなかった。


 ただ、自分の居場所を失ってしまうかもしれない、という不安が、漠然と心に巣食っていた。――もし、これを仲間に知られたら。


「ッ……!」


 下唇を薄く噛む。


 今のマオラオは、仲間たちからすれば火を見るよりも明らかな危険分子だ。

 ヒトを食う男を、一体誰が同じ屋根の下に置いておけようか。普通に考えれば殺して処分されるか、よくても戦争屋からの脱退を命じられるのが道理だろう。

 何にせよ、このまま戦争屋インフェルノに残れる可能性は希薄だ。


 それに、仮に残れたとして。

 あの空腹感に再び襲われたとき、自分は仲間を食わずにいられるのだろうか。


 そう、深い深い思考の海に沈んでいた、その時だった。


《……ぉい、聞こえとんのか? なぁ》


 再び、しかし今度は明確に、聞き覚えのある誰かの声がふわんと脳内に響いて、マオラオは熟考するあまり自然と垂れていたこうべを上げた。


「こん声は……」


《おぅ、久しぶりやな。覚えとってくれたみたいでよかったわ》


「――なんで今更出てきたんや、あんさん」


 脳内に響く、親しげで少しガラガラしている男の声に、眉根を寄せるマオラオ。彼にはどうやら多少の『慣れ』があるようで、自分の頭の中で他人の声がすること自体については、驚く素振りを一切取らない。


 ただ、周囲に人がいなかったからよかったものの、周りからは聞こえない声に応じているその姿は、側から見れば狂ったとしか思えない光景であった。


《あぁん? なんで出てきたか、って?》


「せや。……いつのまに、北東語まで覚えよって」


 親交的な声の主の声音とは裏腹に、マオラオの紡ぐ声は低く冷たかった。

 どれだけ掘り起こしても、声の主にいい思い出がないのである。声を聞いているだけで引き起こされる、過去の嫌な記憶の数々に自然、少年の口元は渋く歪んだ。


 相対して、声の主にはコミュニケーションへの遠慮が全くなく、


《北東語覚えたんはお前のせいやでマオラオ。お前がよう喋るから、染み付いてもーたんや。ちなみに、お前の言葉そっくり覚えたから、俺が喋っとんのは細かく言うと北東語じゃないで。お前の北東語、たぶん所々おかしいからな》


「やかましいわ。あと、喋ろうと思えば北東語はちゃぁんと喋れんねんで? ……気い抜くとあれやけど」


《へいへい》


 マオラオの言葉を見栄張りと捉えたのか、気怠そうに話を流す声の主。

 実際には集中さえしていれば、鉛りなく喋れる程度には既に北東語をマスターしつつあるのだが、いちいち説明していると本題に戻れない。見栄張り野郎と勘違いされたままなのは癪だったが、どうにか説明したい欲を断ち切って、


「ほんで、なんで出てきたんや。そもそも、あんたはやしろから出られへんって――」


《なんで出てきたか、ちゅうのは、言わんでももうわかっとるんとちゃうん? あんた、そんなに地頭は悪くないやろ?》


 ――逆に問いかけられ、マオラオは閉口。


「……」


 声の主が、このタイミングで出てきた理由。


 それは恐らく、マオラオがヒトを食べてしまったからだろう。

 ヒトを食べたせいなのか、ヒトを食べたことで何かしらが連動的に引き起こされたせいなのかがわからない、というのが少し問題なのだが、概ね正解のはずだ。


《あーぁ、ヒト、食ってしもたなぁ》


 わざとらしい口調で、マオラオの行いを言葉に置き換える声の主。無駄に強調されたその抑揚にはつい腹が立つが、少年は奥歯をぐっと噛んで苛立ちを鎮める。


《あんだけ食わん食わん言うて、食人処女たもっとったのに……どや? 自分で自分を鬼にした気分は》


「……なんもあらへんよ。ちょっと、気がかりなことはあるけどな……それより。あんたは相変わらず、神様とは思えん無遠慮さやね。正直言ったら腹立つわ」


《はっ! そうかいそうかい、そっちこそ相ッ変わらず恐れ知らずな奴やなあ! 武力の神にそこまで言えんのもお前くらいのもんやで? ……いや、メイユイと、ユンファのやつもかなり横柄やったな》


 懐かしむような声音で、とある人名を2つほど挙げる声の主。

 長らく聞くことのなかったその名に――主に後者に、マオラオは嫌なものを思い出したかのように眉を下げた。


「はよ、要件を言えや。あんさんがなんか企んどるのはわかってんねん」


《おん? 機嫌悪いな〜随分。けど、こっちはあれやで、久しぶりに自分以外の奴と喋ったんやぞ。ちょっとの世間話くらい許してやったらどうや? ……あぁ、それともあれか? 久しぶりに嫌いな男の名前聞いて、気分悪くなったんか?》


「うるさい。はよ言え」


《図星みたいやね、わかりやすく》


 けらけらと笑う声の主。実際のところ、図星だった。一刻も早く嫌いな奴の話を終えたくて急かしたのだ。しかし、声の主の言うことを認めるのは癪だったので、マオラオは無言を貫いていた。


《じゃあ、言うけどな? 率直に――お前の身体を貰おー思ってる》


「――は?」


《やから、お前の身体を貰おー思てんねん》


 一文字で不理解を示すマオラオに、同じ言葉を繰り返すガラガラ声。

 声の主が気を遣ったのか、2度目は一字一句はっきりと発音されるが、依然言われた事の意味が分からず、マオラオは唇を震わせる。


「ちょ……まってや……」


 頑張って意味を理解しようと、マオラオはもう1度言葉を咀嚼。だが、言葉そのものの意味は分かれど、それ自体を呑み込むことがどうしても出来ない。


「オレの身体を、も……もらうって、もっと順序立てて言えや。一言だけ言われても意味が……意味が、わからん……」


《んー、説明が難しいんやけど……》


 とにかく、と声の主は言葉を区切り、


《俺は今すぐジブンのやしろに帰らなあかんねん。けど、社が遠すぎてな? 魂だけの俺は1人じゃ帰られへんのや。せやからお前の身体を乗っ取って、中央大陸と大西大陸の間にある海を渡って帰りたい》


 『これでわかるか?』と小さな子供に教えるように、極限まで声色を優しくするガラガラ声。

 困惑するマオラオへの気遣い、というよりはむしろ煽っている節があった。急かした癖に、後から丁寧な説明を求める矛盾した行動をとるマオラオへの煽りだ。

 ただし、煽られた当人はそれに気づく余裕もないほど混乱しており、


「……もっと、わからんくなった。なんで、なんでオレがあんたの都合に合わせなあかんのや? オレ……まだやること沢山あんねんぞ。あんたの『社に帰りたい』なんて唐突な願いに、付き合ってやる暇なんか……」


《――暇があるとか、暇がないとかじゃないねん》


 そう言葉が響いた次の瞬間、マオラオは全身からドッと汗を吹き出す。

 次いで心臓が強く握り締められ、絞られたように痛みを訴え、身体が瞼から指の先まで固まってしまったのを自覚して、


「ッ――!?」


 それと同時に感じた、何かがぬるりと自分の中に入り込むような、得体の知れない感覚に、マオラオは息を詰まらせた。


 声の主の魂が、マオラオの身体を乗っ取ろうとしている。少年は状況を本能的に理解するも、入り込むものが形のある物質でない以上抗うことも出来ず、じっとりとした魂の侵食を息を殺して受け入れる。受け入れざるを得なかった。


 身体の主のものは違う、別の魂が肢体の中枢に入り込む感覚というのは、とても気持ちの悪いものだった。


 異様な感覚への抵抗からか、全身が震え、身体を丸ごと濡らすほど発汗し、マオラオは病熱に冒されたようにはくはくと息を繰り返す。弱々しく甲高い音で繰り返される呼吸は、どうしてか妙な艶っぽさがあった。


 ただし苦しみに喘いでいる本人は、そんなことを言っている場合ではない。

 マオラオは、頭蓋が割れるような激しい痛みに歯を食い縛りながら、ひたひたと涙で頬を濡らした。その一方で、


《もうじき、こン世界は消滅するんや。ここに居たら、みんな消し飛んでまう》


 マオラオの身体を狂わせている張本人でありながら、傍目に見る側にもショックを与えるほど苦しむ少年には一切触れず、ただ淡々と説明をする声の主。


 その淡々さによって彼の発言が真剣みを帯びてきており、ジョークではないか、というマオラオの懐疑心をしぼませることには成功していたが、狂いそうになるのを必死で我慢しているマオラオは、逆に声の主への不信感を倍増させていた。


 しかし、


《あぁ、詳しい話はおいおいしたるわ、理由はちゃぁんとあるから安心しぃ。今はまだ言われへんけどな……ただ、消滅するんはほんまにほんまのことや――って言っても多分、信じてもらえへんやろからな》


「何を……ッ、ぐ……あ!?」


 突然、目の前で白い閃光が弾け、マオラオは脳が痺れるような感覚を得る。直後、今まで明確に存在を区別できていたはずの『魂の境界』が酷く曖昧になった。

 身体を乗っ取られた。瞬間的にそれを理解した時、急速に意識が失われ、


《すまん、借りるで。安心せえ、あんたの仲間には手ェ出したりせえへんから》


「おま……ふざけん、なや……」


 その発言を最後に、マオラオは意識を失った。

 既に身体の主導権が交代していたため身体が崩れ落ちることはなかったが、その瞼のみ眠るようにゆっくりと下ろされる。そして、


「心配はいらん。あんたの好きな女くらいは、守りにいってやるからな」


 次にそれが開かれた時、その赤い双眸は闘志にぎらついていた。

 飢える獣の目、とは少し違う。その眼光は狩る者のそれであったが、そこに獣のような卑しさはなかった。ただ、あらゆる生物を淘汰する、圧倒的なまでの強者の威光が宿っており、


「けど、まずは……血が足りん。もう少し食べへんと動かれへんな。ほな、あんたの殺したニンゲンの肉、満足するまで食らったろーやないか」


 そう言って、額の両端に1本ずつ赤い角を生やした鬼は、愉悦の表情で笑った。


 ――これらは、イヴがマオラオと再会する5分前に起きた出来事である。

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