第94話『グッド・ブレックファースト』
波の音は好きだ。
どんな時でも心を洗い流してくれるような気がするから。仲間が死んだ日も海を眺めては呆けていたものである。そうして日が暮れるまでぼーっとして、ぽっかりと空いた心の穴に、燃える空と金色に輝く海の光景をしまい込んで埋め合わせる。
そうして崩れてしまいそうな自分を、何度も何度も立て直してきた。
ベタつくような潮の風も、爽やかなブルーソーダの空も、眩しく輝く太陽に灼かれた白い砂の温かさとざらつきも、それを踏みしめた足を洗いさっていく透き通った冷たい水の感覚も全て、自分にとっては等しく愛おしい思い出だ。
だからだろうか。
ジャックは波の音を聴きながら、穏やかな気持ちで目を覚ました。
「ぅ……あ?」
感じるのはしばらく味わっていなかった柔らかなベッドの心地。それから布団の温かさ。曲線的な揺れを自覚して、自分が今船の中に居るのだと理解する。
ジャックの目覚めは意外にも良い方で、すぐに起き上がろうとすれば激痛が全身に走り、ジャックは自らの脱力によって後頭部を枕に叩きつけた。
「ッぅ……」
「よーぉ、起きたかぃ? ジャック」
「あー、今なん、じ……うん!? あっ、い゛っ」
ひょい、とベッドの横から顔を覗かせてきた熊男の顔に絶叫すれば、腹のあたりの大きな傷口が開きかけてジャックは2度目の悲鳴を上げる。恐る恐る布団の中に手を差し込めば、包帯が巻かれた腹がずきずきと痛みを主張していた。
「なんで、おっさんが、ここに……つか、ここはどこなのサ」
激痛に顔を歪めながらジャックが尋ねると、ベッドの真横の小さな椅子に座った大柄の熊男――いつの間にか血塗れの囚人服から処理班員のスーツに着替えていたレムは、薄く生えた顎髭を撫でながら『んー』と獣のような低い声を喉で温めて、
「まァ、おめえのダチだっつー『ギル』ってあんちゃんと一緒に、ヴァスティハス収容監獄のサードから脱獄してきたんでい。ここはそのあんちゃんの仲間の船。おめぇには何がなんだかって感じだろーがなァ」
そう説明されて、訳がわからないというような顔をするジャック。
「え……じゃあ傭兵団から突然消えたのって」
「1人で居たところを運悪く監獄のヤロー共に捕まって、牢屋ン中ぶち込まれたからでい。まァ、そのおかげでおめぇらには随分迷惑をかけたと思うが……さておきおめぇはなんで捕まってたんだ? 他の団員どもはどうした?」
「それは……」
ジャックは少し口籠もってから、恐る恐ることの全てを説明する。
レムが突然居なくなってから傭兵団は騒然とし、とりあえずジャックをレムが見つかるまでのリーダーとしたこと。しかし仕事がどんどん上手くいかなくなって、依頼も激減し、資金が底を尽きそうになったこと。
やけになって依頼内容をよく考慮せず、手当たり次第に金の良い仕事を受けていたら、ヘヴンズゲートのイツメ=カンナギという女に雇われたこと。
その時のジャックはセレーネという少女に忘却の能力をかけられており、ギルのことを忘れた状態で、偶然ロイデンハーツ帝国に来ていた彼を殺せという命令をイツメから(遊ばれて)受け、実行しようとして上手くいかずに撤退したこと。
すると次の依頼先、カジノ『グラン・ノアール』にて突然記憶を取り戻し、そこで弟であるシャロやその仲間の戦争屋と出会い、彼らに協力しようとしたところオーナーにまとめて気絶させられて、移送船送りにされていたこと――。
「はーん、なるほどねぇ」
ひとしきり聞いたレムは眠たげに呟く。
「まァ、随分と楽しそうに話してっけどよぉ……おめぇ、結局どうすんでい?」
「え? どうする、って……?」
激痛が動くたびに走る上半身をどうにか起こして、背中を枕に預けながら不思議そうに問い返すジャック。どうする、と聞いて何のことだかわかっていない辺りが彼らしいが、レムは『あー……』と口にすることをしばらく躊躇い、
「傭兵団に戻るのか、それとも戦争屋のヤローどもにつくのか、でい」
「……!!」
全く考えていなかったらしく、しまった、とジャックは目を見開く。そんな彼の反応にレムは、ぺらぺらと手を振って否定の意を表し、
「別に俺ァどっちでも構わねえ。おめえさんが帰るところを見つけたってんなら、送り出してやらなくちゃならねぇしな。ただおめえの話を聞いてっと、他の傭兵ども今頃おめえを探してんじゃねーのかぃ? 帰ってこねえ、って」
「う……全く考えてなかったぜ……ど、どうしよう」
真っ青な顔をして両頬を押さえ、レムに助けを乞うジャック。だが彼を
「まァ、おめえさんが決めるこった」
「じゃあ、わかった。おっさんオレ……戦争屋になるヨ」
「判断が早えなおい!?」
真剣な面持ちで即答されて、立ち上がりかけていた身体が前にふらつく。倒れそうになっていた身体は片足を即座に前に出すことで支えるが、拍子抜けというか全身から力が抜けたような気分だ。
レムは『何があって即答したんでい』と尋ねながら椅子に腰を戻す。
すると、
「だってオレ、監獄で草むしりしてっ時にシャロと約束したんだ」
「約束? シャロってえのは……あぁ、おめぇさんのいも……弟だったか」
「ウン。一緒に自由に生きようって約束した。だからオレはその約束を守らなきゃならねー……それにオレ単身じゃあ、傭兵団の奴らに会うのは不可能だ。戦争屋になって騒ぎを起こした方が、オレを見つけてもらえる可能性が高くなるダロ?」
「まァ、それは確かだが……」
短期間でも息子のように育ててきたジャックだ。それなりに愛着があったのに、本人からこうしてバッサリと縁切りを申し出られるとレムの立場が悲惨である。
既に『本人に選ばせる』と強気で提案した身なので余計に。
「……まァ、おめぇがそれを選ぶってんならそれが良いんだろうけどよ」
ただし引き止める訳にも行かないので、レムは静かにそう呟いた。
あれほど自分によく懐いていたジャックが、それほどの固い意志で戦争屋になることを決めるとは思わなかったが……かつての親友も生き別れた弟もそこに居るのならば、彼がその選択をするのは当然の話なのかもしれない。
「んじゃあ、俺ァ傭兵団の奴らに再会するための旅にでも出るかなァ……」
「……え?」
「ここからオルレアスに向かうってんなら、大北大陸への航路が港町から繋がってるはずだしねィ。最後におめぇさんが居たのがロイデンハーツなら、あ、でも路銀持ってねえ……その辺は戦争屋さんに融通してもらうかぃ」
「えっ、なんで?」
「……なんでって、どういうことでぃ」
先程からレムの言葉に対して、受け入れ難そうな表情を浮かべて問いかけてくるジャックに、逆に意味がわからず困惑するレム。
するとジャックは依然、疑問に思うような顔で首を傾げて、
「おっさんは戦争屋にならねーノ?」
「……へっ?」
思わず自分でも聞いたことのない変な声が喉から飛び出る。ただし呆気に取られているレムの手前、ジャックは当然とでも言いたげな顔つきで、
「だってジャック君は、傭兵団の皆に見つけてもらうためにここに残るんだぜ? おっさんが逆に探しに行ったら、すれ違いになるとオレ思うんだケド」
「確かにそれはそうだが……若え奴らの中におっさんが居たら邪魔だろぃ」
「そこまで言うなら直接、戦争屋の偉い人に聞いてみよーぜ? 誰だっけ、シャロが言ってたんだよナ、フィオ……フィオネ……だったカナ?」
全身に走る激痛すら無視して、無理やりベッドから降りて医務室を出ようとするジャックを『待て待て待て』と慌てて押さえつければ、レムは綺麗な琥珀色をした不思議そうな目に見上げられる。
これは説得が難しい奴だ、とレムが頭痛を予期していれば、
「失礼しまーす……あっ、ジャック兄ぃ!!」
「あっ、シャロ!?」
医務室の扉ががらがらと開いて、廊下からひょこっと薄茶髪の少年が顔を出す。
少年もレム同様に、囚人服から処理班員の制服であるスーツに着替えていた。班員から貸し出されたのだろうか。ともかくジャックは、少年を視界に入れるなり嬉々とした声を上げ、己の兄の起床姿を見たシャロの表情もパッと明るくなって、
「ジャック兄ぃ!! ……と、怪我してるから抱きついちゃいけないんだよね」
勢いでベッドに飛び乗ろうとするも、寸前で踏みとどまって1歩後ろへ引く。遠慮がちな距離が兄弟の間に生まれて、ジャックは悲しそうに目を伏せ、
「ウン、ごめんなぁ……すぐに治すから、その時いっぱいハグしようナ!」
「わかった! それで兄ぃ……と、あの、どなたでしたっけ? ごめんなさい、シャロちゃん名前お聞きしてないんですよネ」
「え? あ、あぁ……レム=グリズリーでぃ。敬語は外してくんなァ」
完全に空気だったのに突然話を振られて、レムは驚きながら『堅苦しいから』と手を振り、タメ口で接するように言う。
しかし実際に会話しているところを見ると、本当によく似た兄弟である。見た目は当然のことながら、会話のテンションや喋り方までそっくりだ。熊男がぼーっと見ていると、シャロは『おっけー、レムね!』と臨機応変に要望に対応し、
「――朝ご飯の準備が出来たから、2人とも食堂に来てくれない?」
*
シャロに案内されて訪れた船内の食堂は、なんというか喧騒の塊であった。
一応扉で廊下と食堂の空間は分け隔てられていたはずなのだが、薄い扉では簡単に突き破れてしまうような騒音が廊下に響いており、覚悟しながら扉を開ければそれ以上の音の波が押し寄せてきた。
しかし、
「あら、来たわね」
当然のように食堂の最奥、いわゆる誕生日席に座っていた金髪の美丈夫が食堂に入ってきたジャックとレムに反応をしたが故に、騒然としていた空間がぴたりと止まって20近い数の目玉が視線を彼らに向けた。
「あ、皆さんちーっすジャックくん無事起床しましたァ! つか、おっさんとシャロもそうだけどヨォ、みんないつの間に着替えたんだ? いいなァー、俺も
そう露骨に羨ましがり、『後で兄ぃも着替えようネ』とシャロにひそひそ囁かれているジャックを横目に、
「……あー、俺はどういう反応をすりゃいいんでぃ」
場違い感に苛まれているレムは、困ったように眉を掻く。
数人とまとめて収監されていたジャックはともかく、レムはここに居るほぼ全ての人間との面識がない状態だ。
故に長い青髪の少女からは『誰?』という困惑の目を向けられており、脱獄を共にした他大多数には話の切り出し方を伺っているような素振りが見られた。皆顔には出さないものの、レムの存在はかなり邪魔になっているだろう。
そうネガティブな想像を広げながらも、それを表情に出すことはせず、
「レム=グリズリーでぃ。こいつと同じ傭兵団に属してたモンで、ヴァスティハス収容監獄ではサードに居たんでギルのあんちゃんくれぇしか俺のこたァよくわからねェと思うが……そう厄介なことはしねぇんで、何卒よろしく頼まァ」
そう言って軽い自己紹介をすると、ホットドッグにケチャップをかけようとしていたマオラオが『あーっほんなら』と声を上げる。
「グリズリーさん……いや、レムさんってお呼びしてもええですか?」
「んゃ、さんも敬語も要らねえ。普通にレムって呼んでくれりゃあ幸いだ」
シャロの時と同じようにぴらぴらと手を振って、無礼講スタイルを示す。すれば足を組んで椅子の背もたれに背を預け、完全にリラックスした状態のギルが『この人ならおっさんって呼んでも許してくれるぜ』と要らない補足をつけた。
「それで、レム……とりあえずその席に座りなさい。ジャックは……その隣で良いかしら。悪いんだけれどフラム、彼らにも食事を運んでくれる?」
美丈夫が指名付きで指示を出したことにより、ホットドッグを咀嚼中だったフラムが犬耳を震わせ、もごもごと口を動かしながら『もァ、あい(あっ、はい)』と起立して食堂と隣接する厨房の方へと向かっていく。
「随分使い慣れてやがんなァ……」
当たり前のようにされた命令とその受諾にレムが呆然と呟けば、命令を下した当人は誇らしげに『良い子でしょう』と胸を張った。
着席してから少しすると、フラムによって手慣れたようにホットドッグとフルーツサラダが配置されていき、最後に置かれた透明なグラスにはマンゴーの香りがするジュースがこぽこぽとボトルから注がれた。
「ワーッめっちゃ美味そう!! 食べていいの!? いっただっきまーっす!!」
ジャックは嬉しそうに食事に飛びつき、怪我のことなど忘れて料理を貪る。
それを横目に見ながらレムも『頂きます』と太い両手の指を組んでから唱えるように言って、マスタードを入れた小瓶に着手した。スプーンで掬い上げて、ホットドッグの上でたっぷりと垂らして波形を描く。
齧り付くと、
「……ん、これなんか好きな味すんなァ」
「あ、本当ですか!?」
独り言のように呟けば、青い犬耳を持った青年が勢いよく席から立ち上がった。
「あっ、失礼しました……マスタードは初めて手作りしたので、嬉しくて」
「おーん、もしかしてこのソース作ったのも全部あんちゃんか?」
「あっ、はい! とはいえ、そんなに凝ったものじゃないので誇れないですが……マスタードには白ワインビネガーを、そっちのマヨネーズはたらこの塩辛煮を混ぜてあります。そっちのケチャップは醤油や玉ねぎをみじん切りにしたものを」
そう尻尾をぶんぶんと振り回しているフラムの喜色満面な解説を聞いていると、口の周りをケチャップで汚したジャックがそれを手の甲で拭いながら、
「あー、ワン公。おっさんにンなプロフェッショナルな説明してもわかんねーぜ、ジャック君と同じで美味いか不味いかの違いしかわかんねーモン」
「おいコラ」
そうしてしばらく朝食の時間が続き、会話も増え、レムと周囲との交流も温まり始めたところでフィオネがよく通る声を上げた。
「――さて、全員揃ったところで聞くけれど……ノエル、ミレーユ、ジャック、レム。貴方達はこれからどうするのかしら?」
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