第75話『シスター・アズノア』

 つまりは、こういうことだ。


 彼女――【シスター・アズノア】は、この監獄の最高最悪の収監エリア・『サード』を形作る管理人で、身体改造により不死身に似た身体に変えられた半ゾンビ人間。そして、定期的に徘徊しては囚人を殺す、狂人。


 と、それに狙われているのだが一向に本体へ回収されない、分身のフラム。


 他の囚人達の様子では彼女は普段以上に興奮をしているようで、何か原因があるとすればそれは当然分身フラムに他ならない。ただし当人が、自分の何がいけなかったのかを理解していないということが現状の問題で、


「どうして……耳がなんとかって言ってた気がするけど……」


 それに『可愛い』『欲しい』とも言っていた。だから彼女の言葉をそのまま繋げて考えれば、フラムの耳が可愛いから欲しい――という意味になり、


「いやいやいや……!? 欲しいからってそんな鉄球ぶちかまします? まあ、確かに耳は僕からちぎれると思いますけど、そんな狩りみたいな……いや、そもそも僕分身だから遺体は残らな」


「――おいっ、お前!!」


「ひっ!? はい!?」


 疾走中に大声をかけられて、思わず反射でぴたりと足を止めてしまうフラム。


 アズノアが来ていないことを確認しつつ声の発生源を向けば、そこには鉄格子を挟んでこちらを見ている中年くらいの男がおり、


「お前か、シスターから逃げてるってのは! 何をどうして外に出てんだか知らねーが、ンな見た目でこんな日に出歩くんじゃねえ! 格好の的だろうが!」


「へっ、格好の的……?」


 呆気にとられた表情で聞き返せば、不意に頭上で鎖の鳴る音がして、


「ユルサナイ」


「ッーー!」


 見上げれば、黒衣の女が鎖を振り回して、高所から飛び降りながらこちらへ鉄球を放り投げていた。そして脳天を一直線に狙ってきた鉄塊を、すんでのところで跳ねて避ければ、犠牲になった床材が粉々に割れて周囲へ飛ばされる。


 その鋭い石の欠片に身を打たれながら、フラムは地面に埋まった鉄球を引っこ抜こうとしているアズノアを前に引き下がり、身を返して逆方向へと走った。


「ズルイ、ズルイ、ワタシモホシイ」


 遠ざかる分身フラムを見送りながら、鎖を引いて鉄球を引っこ抜くアズノア。彼女は黒いベールの下ですすり泣き、青白い頬に涙を滑らせる。しかしその血色の悪い唇は、依然として綺麗な弧を描いており、


「ンフ、フフフフフ、ヒヒヒ!!」


 持ち手と鎖を握り締め直すと、気狂いの修道女は奇妙な笑い声を上げながら再び鉄球を振り回す。


 ただ彼女は憎かった。羨ましかった。逃げる度に揺れる分身フラムの耳と尻尾が。自分を嘲笑うかのように綺麗な、若々しいその肌が。


 今まで俯きがちだったアズノアは顔を上げて、血走った目でターゲットを真っ直ぐ視界に入れる。顔を起こしたことでウォールランプに照らされたその肌には、


「ユルサナイ、ユルサナイ、ユルサナイ!!」


 細かい縫い目のようなものが、縦横無尽に出来ていた。


「アァ、アァァ、アァァァァァアア!!」


 この行動に意味があるのかとか、そんなことははなはだどうでも良い。

 アズノアにとっては、鬱陶しい羽虫を叩いて潰すような程度のことなのだ。理念だとか意思だとかは考えたこともない。


 邪魔だから殺す、ただそれだけであった。


 けれど、


「ユルサナイ、ユルサナイ……」


 もう誰に向けて紡いでいるのかもわからない、呪うような声音で吐き出される簡単な言葉。舌に染み付いたその言葉の言霊を鉄球に宿して、彼女はどこに力があるのかもわからない細腕で鎖を弄び、引きずっていた鉄球を宙へ浮かべる。


 そのまま振り回して、ただ執拗に分身フラムの背中を見据えて、確実に避けようのない速度で一撃を遥か遠方へ送り込む。


 それは、確実に避けようのない一投であった。


 はずだった。


 分身フラムの後頭部に直撃するかと思われた瞬間、鉄球とアズノアの間で天から赤い閃光が突き落ちた。何かに踏みつけられて鎖が屈折し、鉄球が真上へ跳ね上がり、思いもよらぬ方向へ弧を描いて落下する。


「……ァ」


 絶望したように、掠れた声を上げるアズノア。


 彼女の前に立っていたのは、鉄球の鎖を上から踏みつけにして、きりりと整った表情と背筋で視線を返してくる、赤髪の女看守――マルトリッドであった。


「無駄なことをするな、アズノア」


 よもぎ色を宿した瞳は研いだ刃のように鋭く、薄い唇は結ばれて笑むことはないのがもはやデフォルトだ。閃光の色と見間違えた燃えるような赤い髪は、質が良いのか天から地上に舞い落ちてきてもなお乱れることなく綺麗に下がっている。


 硬派な印象を与えるデザインの制服はまるで彼女の為に作られたかのようで、冷淡な彼女の印象をより強いものとしていた。


「……ァ、ァ、ァァァアアアア!!」


「貴様は楽だな、暴れ回るばかりで。後処理に追われる我々の身を考えたことはあるのか? 監獄の修繕も、殺された囚人の埋葬も、全てこちら側がやるのだぞ。恨みの精算しか考えていないお前の代わりに」


 アズノアの心境を知ってか知らずか、冷淡に、残酷に、薄情に告げて呆れ混じりの吐息を溢すマルトリッド。


 やけに『ファースト』が騒がしいので来てみれば、エリアの一部が崩壊しており貴重な監視カメラは数台が破壊されていたというこの有様。これらを完全修復するまでに、膨大な労力と費用を要するのが目に見えている。


 それが囚人ではなく同僚の犯行であり、しかも重要な役割を背負わせているため謹慎処分やクビにすることも出来ないということが何よりも歯痒く、


「貴様は、貴様の役目を全うしろ。私から伝えるのはただそれだけだ。――さて、私は貴様が追っていた囚人に聞くことがあるのでな。失礼する」


 鎖の上から足を退けると、マルトリッドは身を翻してどこかに消えた分身フラムの後を追う。


 その圧倒的な身軽さで風のように駆けていく彼女の背は、鉄球を操る狂人を背後に回しているとは思えないほど無防備だ。それが、彼女がアズノアに対して『警戒するまでもない』と考えていることを歴然とさせており、


「アァ……ァ……ァァアア!!」


 持ち手を握り締めるも、不意に足から力が抜けていって膝をつく。


 憎い、憎い、憎い。美しい女が憎い。美しさに欠片の興味も持っていないような態度をしながら、最初から整った顔に生まれたのだろうマルトリッドが憎い。


 けれど、どうしても彼女にだけは手が出せない。

 彼女に手を出すことだけはどうしても、どれだけ彼女が憎くても、その凛々しく気高い姿を前にしては鉄球を振るう意思も霧散してしまう。


「アァ、アァァァァァ……」


 言葉にならない声を上げながら、アズノアは黒くベタ塗りしたような両眼から涙の粒を落としていた。





 ――アズノアから逃げた先で、分身フラムは膝に手をついていた。


「はァッ、はぁ……何か、物凄い音がしたような、気がしましたけど……それでも、もう追っては来ない……流石に、撒きましたかね……」


 などとフラグじみた台詞を吐くも、事実としてアズノアから放たれる独特の埃っぽい匂いはもうしない。どれほど耳を澄ませても鎖同士が擦れ合う音はしないし、彼女から距離を取れたのは事実なのだろう。


 さて、問題はここからどうやって行動するかだが――


「……は?」


 ふと、自らの身体が淡く水色に輝き、心臓から離れた部位から次第に霧散しているのを目にして、ようやく本体が回収しようとしていることを知る。


「え、今更過ぎませんか……?」


 消えていく自分の腕を見つめながら、どこに居るとも知れない本体の自分へ悪態を吐く。回収するべきシーンは今より前に何度もあっただろう。


 あの時に回収してくれていれば、自分はこうしてエリア中を走り回って、その代償として肺に切り裂かれそうな痛みを感じる必要もなく、鉄球に頭を潰されるかもしれないという可能性にも怯えずに済んでいたのだが。


「……いや、違う? 回収できないような状況に置かれていた……?」


 アズノアからどう逃げようかとフル回転させていた脳を一旦冷まし、落ち着いて思考すると浮かんだその可能性。


 あの気狂いの修道女に追われてから随分と、監視カメラや罠への警戒が適当になってしまっていたし、その最中で自分が映っていたのだとしたら。


 実際は分身とはいえ、看守達からすれば自分も『10014』番のフラムに変わりない。


 それで何が起きているのか確かめる為に10014番の牢屋に行き、本体のフラムと出会い、事情聴取をするためにフラムのみがどこかへ連行。そのごたごたで分身を回収することを忘れていたのだとすれば、納得は行く。


 が、正味――それだけで収まる事態ではない気がする。


 何か恐ろしいことが現状の裏に隠されているのではないかと、分身フラムは身を震わせる。


「……わからない。何が起きているんです……?」


 身体が消えゆくのに合わせて意識が吸い込まれていくのを感じながら、分身フラムは脳髄に走る痛みに瞑目して呟いた。


「――どうか、僕の労力が無駄になりませんように」


 やがて淡い水色の光は心臓部にまで及び、そのままじわじわと、じわじわと蝕むように侵食して、いずれ分身フラムの身体は儚くも完全にその場から消え去った。ただ、塵のような光の粒が僅かばかり風を泳ぎ、穏やかに空間を揺蕩たゆたう。


 そこへ、10秒ほど遅れて赤髪の女看守が到達し、


「風は確かに、ここに流れていたはずだが……どこへ消えた?」


 周囲を睨み回し、消えた分身フラムの行き先を探ろうとするマルトリッド。しかしそこへ運悪く、気を散らす邪魔者が入り込み、


「あっ、マルトリッドせんぱぁい……!」


「……チャールズ」


 やけに目の下に隈の残った後輩を視界に入れて、マルトリッドは呆れたように額に手を当てて首を振る。だが後輩はそれに気づいているのかいないのか、無理やり作ったいつもより貼り付けの甘い柔らかな笑みを向けてきて、


「せんぱぁい、脱走してたって囚人は見つけましたかぁ〜?」


「1度視界には入れたんだが、シスター・アズノアといくつか話しているうちに見失った。しかし、アズノアの方は恐らく気が鎮まったはずだ。もうエリア内を移動しても、しばらく彼女とは遭遇しないだろう」


「あぁ、お疲れ様です〜……」


「……お前も、やたらと疲弊した顔をしているな」


「まぁ、今日の処刑人に関しての取材の対応で忙しかったですしねぇ……流石『アンラヴェル教皇』と言いますか」


 斬首刑の前からずっと、処刑場中に撮影用カメラのフラッシュが瞬いていたのを思い出し、チャーリーは未だにちかちかとする目を瞑ったり開けたりを繰り返す。


 死刑囚も、死刑囚が関わる『アクネ教』自体も世界的に有名とあって、今日押しかけて来た記者の人数はそれはそれはとんでもない多さだった。


 それだけ、その男が世に与えたものは大きかったのだろう。


 が、そんな偉人である彼の最期がまさか、親族に買収された聖騎士団に裏切られて収監され、『ヘヴンズゲート』という組織が引き起こした大規模テロの元凶であるとして処刑されるというものだなんて、一体誰が思っただろうか。


「しかしまぁ、我々も悪役のように騒がれているのは面倒だな。だからセレーネにはやり方を変えるように言い聞かせたというのに……私でさえもアンラヴェルの件は酷い話のように思える。もう少し無駄を抑えた方法があったろうに」


「あぁ、その辺に関しては『とある教団』に表記を変えてもらうようお願いしましたよぉ。濡れ衣でおれらにわる〜いイメージがつくのは嫌でしたしね〜」


 偉いでしょう、と言わんばかりに口角をニッと吊り上げるチャーリー。やけに腹が立つので、それを視界に入れぬようマルトリッドはツンと別の方向を向いて、


「まぁ、そうだな。へっぽこのお前にしては優秀だ。――そういえば、神子ノエルは近いうちに運ばれてくるんだったか?」


「えぇ、本当は教皇さえ処刑できれば、って放置されてたらしいんですけどねぇ。やっぱり洗脳の能力は脅威って考えられたんでしょうねえ、聖騎士団の方から大体4日後くらいに収監の手筈を整えるよう連絡を受けましたよ〜」


「ということは、もう今日の時点で神子ノエルは捕らえて、こちらへの移送船をアンラヴェルから出しているんだな」


 そうなると――。と、脳内のスケジュールと予定を見合わせるマルトリッド。


 しかし最近、何かと大物ばかり収容しているような気がする。


 大東大陸を中心に活動する『戦争屋インフェルノ』。大南大陸の国民10万人を自らの知識欲のために殺した気狂いの王子【アバシィナ=クァーン】。洗脳の能力を秘めた神聖国の神子『ノエル=アンラヴェル』。


 こうも手のかかりそうな囚人が増えると、今後こちらにかかる負担はどれほどまで膨れ上がってしまうのだろうか。


「――そうだ。話は変わるがたった今、私はお前に聞きたいことがあってな」


「……? はい、なんですぅ?」


 油断していたのか、無表情になっていた顔に慌てて笑みを貼り付け、むせかえるほど甘ったるい媚び声を紡ぐチャーリー。相変わらずの態度に一瞬女看守は言葉を止めるが、どうしようもないと知っているので仕方なく口を開き、


「私が逃してしまった、シスター・アズノアから逃走していた囚人……青い髪をした獣人の男だったんだが、チャールズ、貴様の方で覚えはないか?」


 そう尋ねるとチャーリーは、顎に手を添えて女看守の言葉を噛み砕いた後、ふと唇を震わせ、汗粒をこめかみから垂らしながら顔をすーっと青色に染め上げた。

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