第36話『眠れぬ夜にはぬいぐるみを抱いて』

 ――薬湯の入ったポットを持って、ジュリオットは廊下を渡る。


 彼は窓から差す月明かりだけを頼りに、ほぼ真っ暗な廊下を静かに革靴で踏んで歩いた。向かう先は、フィオネ専用の部屋。今頃微熱にうなされながら眠っているであろう、彼の寝室であった。


 ドアノブを引いた途端、中から橙色の光が漏れ、フィオネが起きていることに気づくジュリオット。室内に恐る恐る入ると、ネグリジェ姿の彼がベッド上で読書しているのを目にした。


「……はぁ。体調はどうしたんです? 平気そうに読書されてますが」


「少し頭が痛いくらい。咳もたまに出るけれど、3日前ほどじゃないわ」


 ジュリオットには目もくれず、彼の紫紺の視線は本の中身にばかり集中して、少しも逸らす気配はない。あぁ、彼もそういえば本の虫だったと思いながら、ジュリオットは本のタイトルに注目した。


「……何語です、これ?」


「それがアタシにもわからないのよ。一応これ、『処理班』がウェーデンの地下から押収したものらしくて、『処理班』とフラムを通じてもらったんだけど」


「物品没収を謳った、タダの書籍集めですね。知ってますよ」


 ジュリオットは呆れながら彼の作業机に歩み寄り、空のマグカップにポットで薬湯を注ぐ。すると薬の苦々しい匂いと共に、真っ白な湯気が空間に広がった。


「それで、なんです。北東語と南西語と、他にも色々マイナーな言語もマスターしているフィオネさんが読めない本が、何故ウェーデンなんかに……」


「わからないわ……全く、アタシを煩わせるだなんて本当に良い度胸してるわよ。これでゴミだったらアタシ、貴方のこと殴っちゃうかもしれない」


 完全にとばっちりでしかない発言を交えるフィオネに『はあ?』と言いながらも、薬湯の入ったマグカップをベッド上のフィオネへ手渡すジュリオット。同時、湯に溶かした薬の匂いがフィオネの鼻腔を貫き、


「あら、読書中の人間に飲み物を渡すなんて無粋ね」


「貴方には早く治ってもらわないと、私が困りますから。知ってます? 書類仕事が出来る人間が私だけになってしまうんですよ?」


「はいはいわかったわ。でも、葉の味がして少し苦手なのよね……」


 フィオネは読書を中断してマグカップを受け取ると、まずそうな色をした薬湯を一息に飲み干す。そして片手で顔面を押さえてしばらく苦味に悶えると、何事もなかったかのようにきりりとした表情でマグカップを返した。


「もう少し美味しく出来ないのかしら、薬湯って」


「メンバーで最年長の癖して何気に子供舌ですよね、フィオネさん」


 薬湯をマグカップに少し出して、『そんなに苦いですかね』と呟きながらフィオネの反対方向に口をつけるジュリオット。趣味の調合で薬慣れした自分の舌では、あまり苦味は感じられなかった。


「あぁ、それで話を変えたいのだけれど……女の子を連れ込んだんですって?」


「おや、話が聞こえていましたか?」


 そう聞くとフィオネは本を閉じて枕元に置き、下半身までかけていた布団をズイッと引っ張って仰向けに寝て、


「貴方達ほんと騒がしいから、大体の話は聞こえていたわよ」


「あぁ、それは失礼しました。取り乱してしまって、つい大声を」


「まあ取り乱すのもわかるし、アタシも体調が良ければ食堂に飛び出して『何事よ!!』って怒鳴り込みたかったけれど……丁度、奇妙なくらい偶然に、次の遠征の予定がないから判断は貴方に任せたわ。ただ、アタシから忠告が1つ――」


 ちらっ、と紫紺の視線をジュリオットへ向けるフィオネ。その動作だけでなんとなく嫌な予感がして、目が合ったインテリ眼鏡野郎は渋い顔つきで身構える。


「シャロがその場に居れば、殴って止めてくれるから大丈夫だと思うけれど、絶対その女の子に手は出さないように。間違ってはダメよ。そういうことがしたければ、そういうお店に行ってきなさい」


「あのなんで私をそんな目で見るんです? 私そんなに欲望のバケモノに見えますか? 貴方までそういうことを言う……」


 フィオネの作業机の椅子をガッと引いて、重力任せに腰を下ろすジュリオット。それから彼は腕を組み、怒りの感情を吐き出すように思い切り溜息を吐いて、


「……第一、貴方が1番知ってるでしょう。私は『あの人』しか愛していないと。今までもこれからも、私は彼女を想って生きるんです」


「彼女、ねえ。あぁ、そういえば貴方がアタシに親身になってくれるのって、アタシに『あの人』を重ねているからよね?」


 そうジュリオットに問う彼の姿は、身体の大きさと硬さを除いて『あの人』にとてもよく似ていた。


 凛とした意思を感じさせる紫紺の瞳に輝かんばかりの金髪、触れたくなるような白い頬、美しく整った鼻筋――あぁ、目の前にしていたのが彼女なら。


「――いいえ、そんなことはありませんよ。貴方は貴方で、尊敬しているんです。決して彼女に似ているからだなんて、そんな半端な理由で命を賭したりはしません。私の知識と経験と命を費やすに相応しい人間だと、認めているから貴方についてきているんです。全員、口にしないだけでそうですよ」


「あら、嬉しいこと言ってくれるじゃない。でも、命の削り過ぎはよくないわね。知ってる? 目の下に隈を作る奴は無能なの。本物の有能な人間は、賢く時間を分配出来るはずよ」


「……一応これでも、毎日5時間睡眠は取るようにしてるんですよ? お陰で隈もなくなりました。フラムさんの協力も得て、一緒に睡眠効果増進のハーブティーも開発しましたし……」


「駄目よ、8時間は睡眠を取りなさい。貴方も貴方で顔は悪くないんだから、もっとそれを綺麗に健康的に保つべき」


「8時間睡眠……!? そんな長時間の睡眠なんて、取り方すら忘れてしまったんですけど、あぁいや、睡眠薬を作れば良いのか……」


 ヤク中感覚が染み付いている為、どういう思考をしようと最終的に薬に頼ることに行きついてしまうジュリオット。そんな彼の破滅的な思考回路を目の当たりにすると、フィオネは『はぁ』と溜息を吐いて、


「……自分で自分の身体を弄るのは良いけれど、あまり薬には頼らない方が良いわよ。身体の内から壊れていくんだから、自滅なんてダサい真似は許さないわ」


「……それでも、これ以上にまともな生き方が出来る方法を知りません。これが私の限界です」


「あら、1歳年下の癖に貴方もまだまだ子供みたいね。今日はぬいぐるみを抱いて寝ると良いわ、シャロから借りなさい。フラムに後日作ってもらうのも良いわね」


「はぁ? ぬいぐるみなんて子供でも女性でもないのに……ましてや私のような人間が? 合いませんよ」


「自分に似合う似合わないなんてどうでも良いのよ、貴方がそれで救われるなら、救われる方法を選びなさい。アタシは不恰好でも否定したりしないわ」


 そうフィオネが柔らかく微笑むと、ジュリオットの中でその顔が『彼女』と重なって見えて、彼は静かに息を呑む。


 ――やはりこの姉弟は似ている。彼女は紛うことなき光の人間で、フィオネは闇の世界で生きる人間だが、こういうところがよく似ている。『似合わない』ことをする人間のことを、彼らは否定しないのだ。


 そりゃあきっと、ジュリオットがぬいぐるみを抱き締めれば当然『似合わない』とは思うだろう。勢いで吹き出すこともあるかもしれない。だが、『似合わないからやめろ』とはならないのである。


 意思の自由さ。選ぶことの自由さ。きっと彼らはそれを、ジュリオットがこんな大人になる前から知っているのだ。


「……貴方には到底敵う気がしませんね。わかりました、大人しくぬいぐるみを抱いて寝るとしましょう」


 妥協したようにそう答えると、ジュリオットが選択したことを面白そうに聞き入れながら、フィオネは布団の中へと身体を沈めて、


「――貴方は、兎のぬいぐるみが1番良いわ。おやすみなさい」


 と、静かに瞑目した。





 その後ジュリオットはフィオネの寝室を離れて、皆の居る食堂へと戻った。


 深夜1時を過ぎているというのに、未だに悪ガキ共とフラムの大声と、ちょっぴりミレーユの声がする。フラム以外は壮絶な事件からの帰りだというのに、どれだけ体力が有り余っているんだろうか。


 自分の身体も実年齢に合わず随分と歳をとったものだと思いながら、ジュリオットは食堂の扉を引いて、騒がしかった皆からの注目を一身に集めた。


 静まる食堂内。注がれる視線。明らかに全員が彼の発言を待っている。


「――」


 彼は、観念したように口を開いた。


「先程話した通り、『ヘロライカ』には私怨がありますから、ヴァレンタインさんの弟さんの診察はしましょう。この病気ばかりはどうしても、見過ごせないので」


「えっ、ありがとうござ――」


「……ただし、治療薬を煎じるのに最低でも2日はかかります。精度を気にするなら更に半日以上の時間がかかる」


 つまり、診察もすぐには出来ないということである。それを理解したミレーユは、複雑な感情を抱いて絵に描いたように戸惑っていた。


 彼女が『診察が遅いと困る』と言うなら、別に先程言ったように2日で簡単に仕上げたって良い。ただ実際にそうしたとして、効能が半端なようなら尚更時間や材料費、ありとあらゆる概念の無駄遣いだ。


 ならば時間のかかる方を選んででも、確実に着実に事を進める方が楽であり、弟が助かる確率もぐんと上がるだろう。――ということを手短に伝えると、青髪の彼女はキリリと目つきを整えた。


「期間は計3日間。それだけは了承ください」


「はっ、はい! ありがとうございます!!」


 ミレーユは己の長髪が舞わないよう、髪きのように五指を通して肩に流し、綺麗な一礼をして感謝の気持ちを示した。


「そしてロイデンハーツに行くまで、私の護衛が必要です。ので、平等に全員来てください。何事も起きなければ……そうですね、観光でもしましょうか。丁度遠征も控えていないようでしたから」


「――えっ、観光!? 行く! めっちゃ行く! 護衛やるよシャロちゃん!! ロイデンハーツかぁ、どういう国なのかなぁ〜〜!!」


「と、はしゃいでいるシャロさんはさておき、私が治療薬作りに専念している間、ペレット君は先日受けたダメージを完治し切ってください。こちらで回復効果を増進する薬を処方します」


 そう宣言すると、今まで『我関せず、菓子と茶葉キメるなり』と呑気に紅茶を啜っていたペレットが、ぴたりと全身の動きを止めた。


「え、あ、あの苦い奴っスか……?」


「当然です、あれが1番効きますから」


「――」


 声帯と表情筋が死んだように無言・無表情になるペレット。彼は空になったティーカップをかたんと受け皿に落とすや否や、『空間操作』を発動させてその場から掻き消えた。相当飲みたくないらしい。


 まぁどうせ無理やり飲ませるのだが、とペレットの捜索を今するのはハナから度外視して、残った悪ガキ3人に向き直った。


「他3人も同様にしっかりとした休息をとること。監視においては今日の夜明けから、しばらく『処理班』の監視課の方々にやってもらう予定ですので、マオラオ君もちゃんと睡眠をとってくださいね」


「あぁ……やっと交代かぁ、もうしばらくは監視したないな……」


「……まぁ、お疲れだとは思っていましたから、寝具に睡眠促進効果のあるハーブの香りも染み込ませておきましたので、ぜひ堪能してください。あ、貴方は多分好きな匂いですからご安心を」


「え、なんでそない手際ええん?」


「アンラヴェルで宗教集団のテロがあったと速報が入った時から、なんとなく大事になるだろうなという気はしていましたから。あ、それからフラムさん、次の夕食には『鶏がら』と『ネギ』と『にんにく』を使って頂けると助かります」


「えっ、あっ、はい!」


 ジュリオットの指示にフラムが犬耳をピンと立てて応えると、彼は冷蔵庫の残り物の確認をしに急いでキッチンへと帰っていった。


「それから明日の昼、オルレアス王都で国王と会談を簡単にした後、夕方ウェーデン王国へ色々と仕事をしに行きます。そっちの移動でも護衛が欲しいので、ついてきてくださると助かるんですが」


「「「報酬は???」」」


「……オルレアス王都で今有名な『デラックスバケツプリン』の食べ放題にでも行きましょうか」


「「「よし乗った」」」


 こうして誰も文句なしの交渉が成立。翼を生やして彼方へ飛ぶ札束達の幻影を見送りながら、ジュリオットはふぅと肩の力を抜いた。

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