第32話 大統領拉致

 私とポールは、昼の間に大統領官邸のあるマラカニアン宮殿へ入り、夕方までそこへ潜んだ。

 宮殿侵入は、宮殿の一般公開を利用し、観光者を装った。入場者と退場者の札合わせをしているようだが、少々合わなくても、担当が何かの手違いと決めつけて適当に処理するのだろう。敷地内に隠れて夕刻を待っても、特別な騒ぎにはならなかった。

 大統領の執務室は、パシッグ川沿い、マラカニアン宮殿の一画にある。そして公邸は川を挟んだ対岸にあり、大統領は公務の開始と終了時、専用ボートで官邸と公邸の行き来をする。

 公邸はPSGと呼ばれる大統領警護隊によって守られ、外から公邸に忍び込むのは厄介だった。警護隊は軍隊張りの装備で、結構な数の兵隊を揃えているからだ。しかも公邸は広い敷地の一番奥、川沿いにある。表から公邸に近付くのはハードルが高い。

 よって私たちは、大統領を乗せるボートの底にへばりつき、大統領と共にマラカニアン宮殿から公邸側へ渡る作戦を取った。

 公邸は敷地内や敷地出入り口を厳重に警護する代り、大統領のプライベートへの配慮なのか、家の入り口には二人の歩哨がつくのみである。よって、官邸で事を起こすよりも、公邸の方が大統領へ近付くには都合が良い。

 実行前の数日間、私たちは望遠で、公邸や官邸の警備状況と大統領の行動を観察した。

 それは朝の九時に公邸を出て、夕方五時に公邸へ戻るという、規則正しいものだった。朝夕、大統領は前後にそれぞれニ台の警護艇を伴い、約百メートル幅の川を渡る。官邸と公邸は、川を挟んでほぼ真向かいにあった。

 川へ潜る際の潜水用具は、予めポールの部下が、ボート乗り場の近くへ隠していた。ボートが停まる桟橋付近には、官邸側と公邸側の両方に水中ゲートがあり、ネットが張られている。川底から桟橋の根元へ、直接侵入できないようになっているのだ。大統領を乗せるボートは、水中ゲートの外側へ停まる。

 午後四時半になると私とポールは、定期巡回の目をかわし、水中ゲートの外側から川の中へ潜った。そしてボート付近へ移動する。

 濁った水の中は、見通しが殆ど利かない。これは、ボートの上や陸から、水中にいる私たちの姿を確認できない事を意味する。

 ボートの脇へ到着後、川の中から潜望鏡を水面に出し様子を伺った。夕方五時を少し過ぎたあたりで、六名のSPに囲まれた大統領が、官邸の方から歩いてくる。全て予定通りだ。

 ボートの底へ、取っ手の付いた大型マグネットを取り付け済みだった。あとは大統領と一緒に、公邸へと案内してもらうだけだ。

 ボートが公邸の桟橋へ到着後、私たちはボートの陰に隠れ、夜が更けるのを待った。待つ間、水中ゲートの網を全て除去し、桟橋の根本に移動して待機する。

 定期巡回は、十分毎にやってきた。桟橋へやってくるのは常に一人だが、敷地内を複数名で絶えず見回っている事は分かっていた。見回りがくると私たちは、桟橋の下に身を隠す事を繰り返す。腐臭の漂う水の中で、辛抱の強いられる作業だった。

 夜の九時、私たちはいよいよ行動を開始した。

 巡回兵がやってきたときに、私が不穏な水音を立てた。案の定、巡回兵が懐中電灯で水面を照らしながら寄ってくる。

 彼は、カエルが水に飛び込んだくらいにしか思っていないのだろう。特別警戒しているようではなかった。マニュアル通り、一応確認しておこうという体だ。

 油断している彼が水面を覗き込んだとき、ポールが桟橋の反対側で水音を立てる。

 そこで巡回兵が振り返った。

 その隙を付いて、私が彼の足すくい、素早く川の方へ引きずり込む。

 転倒する際、彼は驚きの声を上げた。しかし、それ以上の叫びは、彼の口から出てこなかった。

 普通の人間はこうした場合、状況を理解するまで、反射行動を除いた次の行動を取れないものだ。

 私は彼の背後から手を回し、その口を塞いだ。ポールが素早く寄ってきて、二人がかりで彼を水中へ引っ張る。そして水の中で、もがく彼の首を締め上げた。

 彼はものの一分で落ちた。あとは彼を素っ裸にして縛り上げ、重油を抜いたボートに乗せて川の下流へ流した。

 その後は何事もなかったように、辺りが静まり返る。誰も一瞬の叫びや水音に気付いていないようだ。

 通常、巡回兵は、定期的に本部と連絡を取り合っている。連絡が途絶えれば、直ちに異常が察知されるのだ。

 警護本部は公邸と百メートルも離れない、桟橋の近くにある。巡回兵はたった今、異常なしを本部へ伝えたばかりだ。次の連絡まで、三十分の猶予がある。

 公邸は平屋で、ベッドルームが一つしかないという小規模な家だ。その家で大統領は、九時を過ぎたらベッドルームで一人になるはずだった。

 そして予定通り、九時を少し過ぎてから、リビングの明かりが何かの合図のようにふっと落ちた。

 普段彼の家族は、大統領の地元に住んでいる。二人のメイドは大統領の食事が終われば、片付けをして帰宅する。家の中にいるのは、大統領一人だ。

 潜水器具と一緒に用意された防水用ビニール袋から、拳銃を取り出し腰に挿す。

 私たちは、家の勝手口に当たるキッチンの扉から、公邸内に忍び込んだ。鍵はポールが手際よく外す。屋敷の中へ入るのに、何の苦労も要らなかった。

 家の中は暗くてよく見えないが、勝手口に続いているのは生活感のないキッチンだった。湿り気も匂いも何もない。床はタイル張りで、歩くたびにきしみ音が出る心配はなかった。

 勿論明かりはつけなかった。暗視カメラも持参していない。

 暗闇に目が慣れるのを待ち、私とポールはハンドサインで会話をする。大統領の寝室へ向かう事の確認だ。

 片手にナイフを握った。腰に挿す拳銃は、銃声で兵隊が集まるのを避けるため極力使わない。

 キッチンからリビングまで、扉なしで繋がっている。リビングも明かりは落ちているが、整然として生活感がないのはキッチンと同じだった。家の中は余りに静かで、本当に大統領がここで生活しているのか、疑いたくなるほどだ。建物は古く、無人の廃屋のようでもあったのだ。

 短い廊下を奥に進んだ突き当りが、大統領の寝室となっている。本人は夕食を終え、寝室でくつろいでいるはずだ。

 ゆっくり寝室のドアを開け、素早く身体を部屋の中へ入れた。ソファーに座りテレビを観ていた大統領が、こちらを振り向く。肘掛けに置いた腕を突っ張り、その顔が一瞬で凍りついた。

「誰だ、お前たちは」

 ポールが大統領に拳銃を向ける。

「動くな。騒ぐと殺す。大人しく付き合うなら、危害は加えない」

 私はナイフを持ったまま、ソファーに座る大統領の前に立った。

 最初に狼狽した彼は、直ぐに落ち着きを取り戻した。普段数々の暴言を吐き、信念のためなら人殺しもいとわない強硬派として知られている人物なだけに、いざというときの肝は座っているようだ。

「どうやってここに来た? 警備されているはずだが」

 失礼ながら、私は思わず笑ってしまった。

「侵入は簡単だった。セキュリティには、もっと力を入れた方がいい」

 彼は失望感を顔に浮かべ、頭を左右に振る。

「それで、お前たちは一体誰なんだ。何のためにここへ来た?」

 私は単刀直入に答えた。

「目的は、ダークブルーだ」

 彼は眉根を寄せて、如何にも不愉快だという顔で言った。

「なるほど、セブでプロフェッショナルが暗躍しているという話を聞いていたが、お前たちか。とっくに海外へ逃亡したと思っていた」

「残念ながら、これが現実だ。俺たちは、執念深いんでね」

 彼は納得したように、頷いてみせる。

 既に彼は、観念しているようだ。一国を預かる大統領ともなれば、如何なる覚悟もできているのかもしれない。

「我々の軍にも、見習わせたいものだ。さて、詳しい用件を聞こうか」

「大人しく、ダークブルーを渡してもらいたい。そうすれば、手荒な真似をしなくても済む」

 彼はソファーに深く背を預けたまま、こちらをじっと見つめる。政治家というより、軍人のような鋭い眼光だ。

「それは無理だ。私には、国益を優先する義務がある。私の命に替えてもだ」

「なるほど、国益のためなら、一部国民の人権や命は、どうでもいいと考えるだけはある」

「どういう意味だ」

「お前たちはダークブルーを手に入れるため、所有者とその恋人をさらった。拷問をして、最後は殺そうと思っていたはずだ」

「軍が勝手にやった事だ」

「ある将校が、大統領命令だと明言した。証拠として、録音もしている」

「組織が大きくなれば、命令が曲解されたり忖度が働いたりするものだ。私はそんな命令を出した覚えはない」

「そうだとしても、そういった事が実際に起こった。だから我々が、二人を救出した。これが事実だ」

「だったら、お前たちのした事には目をつぶる。ダークブルーを諦めて、大人しくここを去れ」

「残念だが、そうもいかなくなった。二人の救出に関わった人間は、もはやフィリピンに住めない。ダークブルーを手土産に、他国へ亡命しなくてはならない」

「そうなら私を殺して、頑張ってみたらいい」

 彼の投げた視線に、異様な迫力がこもっている。

「殺すかどうかは、後で考える。焦る必要はないんでね」

 ポールが大統領の脇へ寄り、彼の首筋に素早く睡眠薬を注入した。

 驚いた大統領は「何の真似だ」と叫んだが、一分も経たずに酩酊を始め、「何をしたんだ」と言いながら、彼はずるりとソファーに身を沈めた。

 ベッドルームの中で、テレビの音声が響いている。彼が観ていたのは、ニュース番組だった。

「ユーゴ、時間がない。急ごう」

 テレビを消し、彼の財布を探す。携帯はテーブルの上にあったが、財布はクローゼットの上着の中に入っていた。彼の上着もバッグに詰める。全てを持ち出すのは、彼が自ら密かに外出した可能性を残すためである。初動捜査の撹乱目的だ。それで相手の初動が、十分遅れる。

 大統領を黒い死体バッグに入れ、ポールと二人で担いだ。勝手口から外へ出て、鍵も外からきちんと掛け直す。

 一旦プールのある庭の方へ回り、公邸入り口の警備兵の目をかわしながら川辺りへ出た。

 敷地内は静まり返り、誰も大統領拉致に気付いていない。

 時計を見ると、九時二十分だった。あと十分で、警備担当の定期連絡時間となる。

 私たちは桟橋付近に隠した潜水器具を装着し、大統領を担いで静かに水の中へ入った。暫くは大統領を引きながら、汚れた川を自力で泳がなければならないが、足にフィンを付けて二人で下流に引っ張るのだから、大して苦にならない。

 五分も泳ぐと、大統領公邸はかなり後方になった。既に公邸から四百メートル下流となり、公邸の敷地からも外れた。川岸には、政府下部組織の建物が並び、川辺りに多くの貨物用ボートが並んでいる。

 ここで支援部隊のボートと合流し、私たちはまんまと大統領拉致に成功した。

 公邸から持ち出した大統領の私物は上着も含め、全て川へ流した。何処かにGPS発信機等が仕込まれていると困るからだ。

 大統領警備隊も、そろそろ隊員の一人がいなくなった事に気付くだろう。先ずは隊員や周囲の状況を確かめ、それから大統領の安全確認に十分は掛かるはずだ。大統領が消えた事に対し、状況把握に更に十分掛かるとすれば、緊急配備迄に三十分は必要だろう。

 マニラ市街に非常線が張られる事になるが、その頃に我々は確保した民家へ逃げ込み、既に大統領の監禁状態へと入っている。

 私たちは予定通り、迅速に動いた。チームの連携も良く、大統領を乗せた車はマニラの市街地を順調に進んだ。

 翌日になればマニラの街中に警官や軍隊が繰り出し、監視に目を光らせるはずだ。しかしこちらに、大統領を連れて街中を移動する予定はない。

 こうして私たちは、公邸からさほど離れていないマラテ地区東側の住宅街に確保した一軒家へ、大統領を連れ込んだ。

 

 翌朝七時、大統領が目を覚ました事を、ポールの手下である監視員が告げた。大統領の部屋や建物の至るところに、監視カメラを設置している。一室に複数のモニターを運び込み、そこで二十四時間の監視体制を敷いているのだ。

 大統領公邸もせめてそのくらいの警備をしておけば、私たちは大統領拉致にもう少し苦労しただろう。少なくとも監視システムのラインに、偽の画像を流し込むという手間が増えたはずだ。

 私は淹れたてのコーヒーを持って、彼を監禁した二階の部屋を訪れた。

 部屋に外側から鍵を掛けるのみで、大統領を縛り上げたり不要な苦痛を与える事は一切避けている。大統領という地位に敬意を払い、監禁中でもできる限り彼が快適に過ごせるよう、心掛けるつもりでいた。

 部屋の前に、二人の見張りが座っている。こちらも交代制で、二十四時間体制だ。

 私が現れた事で、二人が素早く立ち上がる。

 ドアをノックすると、中からどうぞと声が掛かった。見張りの一人が、ドアを開けてくれる。

 大統領は窓際のソファーに腰掛け、入室した私の動きをじっと観察した。

 私は、コーヒーをソファー前のローテーブルに置いて言った。

「昨夜は手荒な事をして済まなかった。目覚めの気分はどうかな?」

「お陰で、久しぶりにたっぷり睡眠を取れたよ。ところで、昨日は気付かなかったが、お前は日本人なのか?」

 私は目出し帽もマスクも付けず、彼に素顔をさらしていた。

「自分の素性は伝えられないが、この件に日本政府が絡んでいない事だけは言っておく」

 そう言って私は、自分のコーヒーカップを片手に持ったまま、ベッドの端に腰を降ろす。

 彼は私の言葉に、高笑いした。

「それは分かっている。日本が、こんな危ない橋を渡るわけがない。真面目過ぎるからな。だから世界中の鴨になる」

「それは認める。世界中が、見事に利己的で狡猾だ」

 彼は再び笑った。まるで拉致された事を忘れたように、リラックスしている。普通なら怒り心頭か、怯えるかだ。根本的に変わった人間なのか、あるいは相当肝の座った人間なのか、上手く見極めが付かない。

 大統領はコーヒーカップをゆっくり口元に運び、朝の時間を優雅に楽しんでいるようにさえ見える。

 私は思わず訊いた。

「あんた、怖くないのか?」

 彼はカップから顔を上げ、即座に答えた。

「怖いさ。しかしな、怖がってもそっちが喜ぶだけだ。あげく殺すつもりなら、私がいくら命乞いしようと殺すだろう」

 私は黙って頷いた。

 彼が再び口を開いた。

「そっちはどうなんだ? 一国の大統領拉致は、失敗したら酷い目にあうぞ。飼い主も知らぬ存ぜぬを通す。それでも怖くないのか?」

「怖いね。しかし根が臆病だから、失敗しない。お陰でこれまで、どうにか生き延びている」

「なるほどね。私も自信家は信用しない」

 大統領は、本当に落ち着いていた。言葉の節々に、虚勢や威圧感がない。それが逆に、彼の大物ぶりを伺わせる。これは一筋縄ではいかないと、私は直感した。おそらく、脅し透かしは彼に通用しないだろう。

「あんたには、暫くここにいてもらう。自由はないが、できるだけ優遇する」

「そうしてもらえると有り難い。できれば最後は、生かして開放して欲しいものだ。大統領が拉致され殺されたなど、この国が世界中の笑い者になる」

 個人的には命乞いなどしないが、国家の対面のためには生きていた方が良いだろう、という意味に取れた。

「約束はできないが、傷が浅く済むよう心掛ける」

 大統領は静かに頷いて言った。

「ありがとう。助かるよ」

 もちろん、礼を言われる筋合いなどない。

 私はダークブルーの件に触れることなく、大統領との朝の会談を終わらせた。

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