第28話 約束

 ボートは暗い海の上を、何事もなく順調に進んだ。

 セブシティーを出て一時間が経過しても、海は相変わらず穏やかだ。大きな二つの島に挟まれているせいだろう。ほとんどうねりのない水面を、ボートの先で割って進むだけなのか、船の挙動は極めて安定している。

 所々に暗礁があるはずだが、クルーの頭にはそれらが細かく入っているようだ。私が気晴らしで上に上がったとき、コックピットの横に置かれた海図は念の為に用意されたという具合に、全く活用されていないようだった。

 岸に見えていた街灯りは乏しくなり、セブ島には物寂しい街灯が、間隔をあけて見えるだけとなる。

 セブ島とボホール島の間を南下しているが、セブ島寄りを走っているためか、左手にあるはずのボホール島は全く見えない。そちら側には、まるで口を開けて獲物を待っている魔物でもいるように、不気味な暗い闇が漠然と広がっている。

 セブ島とボホール島の間を抜けるのに、約百キロを航行しなければならない。そこから更に沖へ出るだろうから、原潜と合流するまで、三時間は掛かると見込んでいた。もっとも、沖とはいえその辺りは、ボホール島、ミンダナオ島、ネグロス島に囲まれた海となり、地図を縮小して見れば随分狭いエリアである。

 ボートのサロンは、豪華な応接室のようで快適だった。しかし、一定のディーゼル音と軽い振動の伝わるその空間で、全員が押し黙っている。

 旅行気分で浮かれる境遇ではないし、かといえ差し当たっての危機もない。微妙な緊張感のみが漂っている。

 闇が広がるばかりで景色を眺める事もできなければ、時間の経過を黙々と待つだけとなるのは無理からぬ事だ。誰もが胸の真ん中に抱える何かを、胃の中まで流し込めないでいる様子だった。

 私にとって原潜と接するのは、久しぶりだ。

 フランス原潜は、外洋で作戦行動を取っているとき以外、決められたいくつかの島の一つに停留される。核弾頭ミサイルを搭載した原子力エンジンを持つ船が数隻いるとなれば、島の警護は厳重だ。

 島へ入る航路には水中に網が張られ、カメラでの監視があり、特殊部隊も控えている。

 私もかつて、その任務に就いた事があった。つまり、潜水艦の内部に入る任務ではなく、百メートルを超す巨大で黒い鉄のかたまりを、外敵から守る仕事である。潜水艦の内部に入った事は一度もない。

 何れの国も、潜水艦というものは最高国家機密の一つとして扱われる。誰もが簡単に内部へ乗り込めるものではない。

 そこへ乗り込み、海底を通じ他国へ脱出するというのは、国家の意志が絡む指令のない限り、あり得ない作戦行動である。

 他国機関の支援のお陰で、フィリピン当局は我々を完全に見失ってしまったようだ。追跡の気配さえ感じられない。組織の末端が、職責を感じ任務を遂行できなければ、どうしてもそれは杓子定規な動き方になる。こちらが想定外の行動を取れば、執拗に追いかけるのは難しいのかもしれない。

 グレースは、相変わらず不機嫌を顔に書いていた。おそらくそれは、潜水艦に乗り込んでさえ変わらないだろう。ジェイソンとレイチェル、ケビンとジェシカは、お互いに寄り添い目を閉じている。

 ポールだけは頻繁にデッキへ出て、周囲を警戒していた。


 ボートは淡々と、このままベトナムまで行ってしまいそうな勢いで進んでいた。やがてボートの揺れが、ゆったりと大きな物へ変化する。

 右手に見えていた街灯が、全く見えなくなっていた。街灯が見えなくなったのではなく、おそらく島に挟まれたエリアから、いよいよ抜け出したのだ。

 そこからは、漆黒の海原をひたすら三十分走った。もはや自分には、ボートの向かっている方角が全く分からなくなっていた。

 間もなくエンジン音が静かになる。ボートの速度がみるみる落ちた。

 沈黙を保っていた私たちは、部屋の脇に付いているデッキへ飛び出した。周囲には島の痕跡が一切見当たらず、船底に当たる海水の音だけが、不気味に響いている。

 自分たちの乗るボートは、不気味な海の中で全く孤立していた。

 私たちは鉄柵に捕まり揺すられる身体を支えながら、何も見えない海に何かを見つけ出そうと、目を凝らした。サーチライトは、ボートの前方を照らすのみで、船の真横は深い暗闇である。

 やがてニ十メートル先に、異変が起きた。肉眼ではよく見えないため、その異変が何かは分からないが、異変と感じられる何かがすぐ先で起こっている。

 私はそれが、潜水艦の浮上であることにすぐ気付いたが、ポール以外のメンバーはまるで恐怖と闘うように、見えない先を固唾を呑んで見守った。

 そして白い波飛沫なみしぶきに似たものが、暗闇の中に微かに見えた。

 ボートが再びエンジンを回す。今度はエンジン回転数が控え目だ。先程闇夜に淡白く浮かび上がった飛沫しぶきの方へと、ボートがゆっくり向きを変え、静々と進む。

 間近に迫ってみると、ようやく水面から顔を出す原潜の艦橋が見えた。漆黒の海に溶け込んだ真っ黒な塗装は、サーチライトに照らされてさえ相変わらず海との境界がはっきりしないが、ぼんやりとそれらしい物が見えている。

 潜水艦が更に浮上すると、艦橋の位置が高くなり、鉄の塊が眼の前に姿を晒した。

 全長は、百メートルを超す。全貌を海上に晒しているわけではないにも関わらず、間近に見ると巨大という言葉が似合うほど、その姿は悠々とし威厳を放っている。あるいは国家機密の塊として、ある種の神秘性さえ感じられる。

 艦橋のハッチが開いて、中から原潜のクルーが順番に外へ出てきた。総勢十名のクルーが、潜水艦ボディーの上に降り立つ。

 ポールが先方に向かって敬礼した。向こう側のクルーも、艦上に綺麗に整列し敬礼する。暗がりではっきりは見えないが、士官クラスの人間が混ざっているようだ。並んだメンバーの服装でそれが分かる。つまり私たちは、政府から直々に保護命令を受けた対象として、VIP扱いなのかもしれない。

 今更ながら、元々些細だった依頼が、随分大袈裟な事件に発展したものだと思う。

 ボートの上から、手摺の付いた伸縮式の梯子が伸びていった。

 ポールが言った。

「皆さん、上から潜水艦へ移ります。トップのデッキに上がって下さい。乗り込む前に、電子機器は全て預からせて頂きます。中では一切使用禁止です。電源を落としてここへ置いてください」

 いつの間に用意したのか、ポールはトレイを差し出し、各自そこへ携帯電話やヘッドセットを置いていく。

 いよいよ私たちは、潜水艦の上に移った。

 金属の塊はさほど揺れることもなく、姿勢を安定させている。こうしている間にも、乗組員は計器やレーダー画面、あるいは衛星情報を見ながら、周囲を警戒しているのだろう。

 メンバーが潜水艦内部へ入り込む間、潜水艦ボディーの上でポールと会話を交わしていた年配の男性が、私に寄ってきた。

 ジャケットの襟元辺りに海軍士官の水色の征服が覗いている。ジャケットの肩に付いた階級章は、イカリのマークと縦線が四本。つまり少佐である。私がスペシャルフォースへ在籍していたときの階級も、同じく少佐であった。現場上がりとしては、異例の階級だったが、作戦の立案とチーム行動の統括という、いわばプレーイングマネージャーの様な立場で、私は現場を走り回っていたのだ。

 彼は私に、右手を差し出した。

「艦長のアドルフです、ユーゴ。所属は全く違いましたが、あなたの噂は、かねがね伺っております」

 十年も前の事だと少々鼻白んだが、そこはお首にも出さず、私は彼の出した右手に応じた。

「光栄ですよ、艦長。わざわざのお出迎えに感謝します」

「ベトナムまで、二日間潜行します。外の空気は暫く吸えませんが、少し我慢して下さい」

 簡単な挨拶の後、私も潜水艦の中へと案内される。

 噂に聞いていた内部の狭苦しさは、余り感じられなかった。ドーム型の天井を持つ長い廊下を進むと、廊下の両側に、寝台列車のようなベッドの並ぶ部屋が現れた。

 居住区である。

 一部屋に四つのベッドがあった。片側上下二段のベッドが、両側に向かい合って設置されている。

 自ら案内をしてくれた艦長が説明してくれる。

 通常は乗組員一人に一つのベッドを割り当てているが、実際には三分の一が現直として働いているため、必要ベッド数は乗組員の三分のニがあれば間に合うそうだ。つまり私たちが乗り込んだお陰で、誰かが誰かとベッドを共有するという事になる。

 動力がディーゼルだったかつて、潜水艦にとって真水は貴重だったが、これも原子力エンジンに変わってからは電力を潤沢に使用できるため、海水から電気分解で真水を作れるようになっている。よって洗濯やシャワーの制限がなくなったらしい。エンジンを原子力にする事は、作戦行動に様々な恩恵をもたらすという事だ。

 よって生活空間に充分余裕があるわけではないが、一昔前に比べれば随分艦内の生活が改善されているらしい。

 我々の食事には、士官用のスペースが提供されるようだ。全てが特別扱いになっている。

 アドルフ艦長がコントロールルームへ戻ってから十分も経たずして、艦内のスピーカーを通し潜行開始の合図が流れた。

 いよいよ海底へ潜る。勿論窓がないのだから、艦内から海底の様子を眺める事はできない。鉄の塊の中で、概ね二日間の旅だ。

 作戦行動中の乗組員は、一旦出港すれば二ヶ月は陸に上がれない。それに比べれば、楽な旅程である。

 私はただただ、静かな旅であって欲しいと祈るばかりであった。


 いざ旅が始まると、艦内で時間を感じ取れる物は、唯一腕時計である事に気付いた。

 艦の運行業務は三交代で、二十四時間切れ目なく継続され、いつでもくぐもったエンジン音が艦内に響いている。加えて外の景色が全く見えないとくれば、朝と夜の区別は全くつかない。

 そこは全く、日頃窓を通して感じる陽の高低が、生活のリズムを上手く刻むのに如何に重要か、改めて気付かされる空間だった。

 出港翌朝、朝食を用意されても、どうしてもそれが朝食という気がしない。それが昼食、夕食と度重なると、延々と続く夜の中で生活している気になる。一日足らずでそうなるのだから、潜水艦勤務で体調や精神に変調をきたす人が少なくないという噂も、実感として理解できた。

 しかもこちらは艦内でやる事がないのだから、二度目の夜を迎えても、一向に睡魔が襲ってくる様子がなかった。

 しかしどうやらそれは、私だけではないようだった。

 廊下を挟んで向かい側の部屋にベッドを決めたグレースが、突然私のベッドの前に現れる。

 私のベッドは、部屋に入って左側の下段となっている。私の上は、ポールが使っていた。

 部屋といっても廊下を仕切る壁がないため、出入りは気軽にできる。基本はオープンなスペースだから、プライベートはないに等しい。

 ベッドに横になり本を読んでいた私は、思わず腕時計を確認した。

 夜の十一時だった。

 こんな生活を二ヶ月も続けたら、私が使うアナログ時計では、そのうち午前か午後の区別もつかなくなるだろうと、ふと思う。

「どうした? 眠れないのか?」

 グレースはこくりと頷いて言った。

「昼に寝過ぎてしまったみたい」

 不安に怯えるような、消え入りそうな声だった。

「随分弱々しいじゃないか」

「そんな事ないわよ。大声を出したら、みんなに迷惑だから」

「それで、俺に何か用か?」

 彼女は一瞬、目を見開いた。

「用がなかったら、話しちゃ駄目なの?」

 彼女の声が、少し大きくなる。言葉も突然英語に切り替わっていた。私の一言が、癇に障ったのだろうか。

「そんな事もないが、ここで世間話も何だろう。娯楽室にでも行ってみるか? 非番の乗組員がいたら、奴らはきっと喜ぶぞ」

 女性が潜水艦に乗り込むなど、滅多にないことだ。グレースやジェシカ、そしてレイチェルの存在は、隊員たちの心を浮き立たせているに違いない。彼らの普段の無意識な視線が、それを物語っていた。

 私がベッドから降りるまで、彼女はいいとも悪いとも言わなかった。それでも私が勝手に娯楽室の方へ歩き出すと、彼女は黙ってついてきた。

「潜水艦の暮らしはどうだ? 乗るのは初めてだろう?」

 私は、ドーム型の天井が真っ直ぐ続く廊下を歩きながら言った。

「死ぬほど退屈」

 ぶっきらぼうな答えが、背中から返ってくる。

「つまり俺は、暇つぶしの相手か」

 彼女の答えを聞く前に、私は娯楽室の扉を開けた。

 それは、居住区の端にある。娯楽室ではDVDプレーヤーの映画を楽しめるようになっているせいか、この部屋には扉があった。音を出す事に敏感な潜水艦だから、部屋の壁も防音仕様になっているのだろう。

 そこにDVDディスクは五十本ほど用意されているが、部屋の中で映画を観る人間はおろか、歓談目的の人間も、誰一人いなかった。海底の旅も長くなると、映画を観ようなどという気は、減退してしまうのかもしれない。

 私は二人分のコーヒーを淹れ、それをテーブルの上に置いた。グレースは部屋へ入るなり、無言でテーブルに付いている。

 コーヒーカップから、淡い湯気がゆっくりと立ち昇った。

「お前はこれから、どうするつもりなんだ?」

 彼女はやや首を傾げて、コーヒーカップに注いでいた視線を上げる。

「どういう意味?」

「ずっとフランスに居座るか、それとも日本へ帰るかだ」

「日本へ戻るつもりでいるわよ。あなたこそ、どうするのよ」

「俺は日本とフランスの国籍があるから、どうにでもなる。しかしお前は、フランスの国籍を取った方がいい。フィリピンへ帰るのは暫く危険だ。それで日本に住めなくなれば、お前には帰る場所がなくなる」

「フランスの国籍を取れるの?」

「嘘でも、そこに住み続けたいと言えばな」

 彼女は、何かを考える素振りを見せた。

「貰える物は貰っておいた方がいいというだけの話だ。強制しているわけじゃない」

「それは分かるわよ。でも、日本に戻って働かないと、あなたにお金を払えない」

 そう言われて、私ははっとした。報酬の回収について、私はすっかり忘れていた事に気付いたのだ。

 今回は、かなり経費がかかっている。にも関わらず、私はすっかり、依頼内容の達成のみに集中していた。

「フランスがダークブルーに払ってくれる中から、もらえればいいさ」

 とは言ったものの、その金額については一切交渉していない。しかもこちらは、暫くフランス政府か軍の庇護下に入る。面倒を見てもらう費用分は、値引きを考えねばならないだろう。

「沢山もらえるの?」

「さあ、分からない。正直、余り興味がなかったからな」

 私は常々、自分が食えるだけの金があれば、それでよかった。必要以上に金儲けしようとか、豪邸に住み高級車を乗り回すといった贅沢には、まるで無関心なのだ。

「自分の成功報酬は、五億と言ったくせに?」

「あれは言葉のあやだ。本気じゃない」

「言葉の綾って何よ?」

 私は言葉に詰まってしまう。

「つまり、そのくらい支払う覚悟を持てと言いたかっただけだ」

 彼女はあっさり言った。

「だったら五億円の話は、もうなしね」

 そうも簡単に言われると、何やら癪に障るものがある。

 しかしここは、こちらが大人になるしかない。実際私の方が、彼女より十歳ほど年上なのだ。

「元々本気じゃない。その件は、忘れてもらって構わない」

 彼女は私の心中を見透かしたように、くすりと笑った。どうやら彼女の不機嫌は、随分解消されているようだ。

 彼女は遠慮ぎみに切り出した。

「ねえ、どうしても、マニラへ戻らなきゃいけないの?」

 余計な事を話したくない私は、「そうだ」と短く答える。

 彼女はテーブルを挟んだ向かいから、射抜くような目で私を捉えた。

「それ、もう一つのダークブルーを、取り戻すためじゃないの?」

「作戦行動の機密は、いくらお前でも漏らすわけにはいかない」

「作戦行動?」

「そうだ。フランス軍の承認を得た、作戦行動だ」

「あなた、軍隊に戻ったの?」

「いや、これは臨時雇いの、特別任務だ」

 彼女は私を見つめたまま、黙り込んだ。部屋に静寂が降りる。私はコーヒーを口に運んだ。

「分かったわ。そういう事なら、何を言っても無駄ね。ただ、一つだけ約束して欲しいの」

「何だ?」

「絶対に生きて帰ってくる事。作戦行動に、絶対はないなんて答えはなしよ」

 未知数の事柄に絶対という言葉を使うのは、決して私の柄ではなかった。一寸先は闇である作戦行動に、絶対はないと信じる私にとって、生きて帰る約束など嘘以外の何者でもない。

 しかし私は、グレースの真っ直ぐな視線を痛いほど感じ、世の中には必要悪というものも存在するのだと、思い直す事にした。

 嘘は悪だが、今は嘘でも約束しなければ、この女は納得しないだろう。いや、納得という言葉に収まり切れない何かが彼女の言葉に含まれている事を感じながら、私は敢えてそれから目を逸らして言った。

「分かった。生きて帰る。だからこれで、その話は勘弁してくれ」

 思えば私は、この女に譲歩しっ放しであった。

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