第29話 ホーチミンの夜

 二日間、海の底を這いずり、私たちはベトナムへ密かに上陸した。フィリピン当局に追われ、海へ潜り、海から顔を出したら安全な異国にいたわけだから、正直時空を飛び越えたような気分だった。

 密入国も、実行してみれば呆気なく達成できた事で、国家ぐるみとは、やはり強力な力を発揮できるものだと改めて思い知らされる。

 これが私独りであれば、あの窮地で一体どうしていただろう。

 セブ島脱出はどうにかなったかもしれないが、果たしてフィリピンを出国できたかどうかは自信を持てない。ジェシカとケビンは、パスポートさえを持っていないのだ。

 パスポートを偽造するには専門の地下組織へ依頼しなければならず、更に出国の際、ケビンとジェシカには、自国で偽装パスポートを使用する度胸が試される。

 それだけでなく、大所帯になれば経費は高くつき、資金面で頭を抱える事にも成りかねなかった。

 そういった事を一切すっ飛ばし、気付けば私たちは、ホーチミンの中心区、サイゴン川のほとりに位置する五つ星ホテルをあてがわれたのだ。

 ベトナム上陸は、セブ島を離れた手順を逆回しで再生するかのように実行された。ボートや車やホテルの手配も、完璧に成されていた。

 これも国家の絡む作戦行動ならではで、経費も潤沢に確保されている様子だ。

 私たちがホーチミンの港から上陸し、ホテルへチェックインを済ませたのが、夜の八時だった。

 ホテルの部屋でシャワーを浴び、再びロビーで再集合したのが九時。それから揃って、ホーチミンの市街地へ夕食に出掛けた。

 食事はポールが全てを仕切り、既にレストランの予約も完了していた。

 手配された車が向かったのは、ホテルから十分も走ったフレンチの老舗レストランで、入口のゲートからして仰々しいほど立派な門を持つ、高級な店だった。

 私たちの周囲に、目立たないように二台の車がうろついているようだったから、おそらく諜報部の護衛も付いていたのだろう。既に危険は過ぎ去ったようなものであっても、完璧主義者のポールが手を回したに違いない。

 勿論護衛がいる事を、ポールは一言も漏らさなかったし、メンバーで気付いていたのは私くらいのものだ。しかし、折角の開放気分を壊さないために、私もその事は、気付かない振りをしていた。

 レストランでテーブルに付くと、ワインをセレクトし、その後はコース料理がゆっくり提供された。

 緊張の数日間を過ごし、狭い潜水艦の旅を終えた私たちは、ようやく晴々とした気分で、アルコールと料理を堪能した。

 レストランでグレースは、私の隣に座った。私のもう一方の隣はポールで、向かい側にジェイソン夫婦とケビン、ジェシカが陣取った。レイチェルとジェシカが隣り合わせになり、本格的なフレンチに、ジェシカはレイチェルに、フレンチの作法を訊ねながら食事が進行した。

 緊張の連続から解き放たれたお陰で、レストランでは高級な店の雰囲気に飲まれることなく、私たちのテーブルは賑やかになる。

 ただしフィリピンでの出来事、ダークブルーに関する話題は公衆の面前で御法度と注意事項が言い渡されていたため、そこではもっぱら、そこにいるメンバーの私的な話題に花が咲いた。

 特にみんなの関心を引いたのは、私とグレースの関係についてであった。

 グレースは、日本で夜の店で働いている事を隠しもせず、私が店の客である事をその場で暴露した。その話には二階堂親分が登場し、彼の推薦により私が彼女に雇われた経緯が含まれていた。彼女は、私がいやいや仕事を引き受けた事まで正直に報告したし、自分が涙まで流し訴えなければ、私は本当にこの仕事を受けなかっただろうと言った。

 グレースは、当時私が相談に動揺しながら、彼女のプライベートに本当に関わりたくなかった心理を、的確に見抜いていたようである。

 あの涙は半分芝居かと私が彼女のしたたかさに驚く反面、私とグレースの男女関係をベースとして、私が仕事を引き受けたと勘繰っていたメンバーは、ややがっかりした様子を見せながらその説明に納得していた。

 思えば一緒に特殊な体験を重ねたにも関わらず、こうしたプライベートな事をお互い知らずにいた事に、その場のメンバーが改めて気付いた。

 私とジェイソンは昔の同僚、そして私とレイチェルがお互い恩人である事も、細かな話を抜いてその場で共有した。

 それは取りも直さず、これからフランスで、運命共同体のように暮らしていかなければならない仲間内での、自己紹介のような意味も含まれていたのである。当然ジェシカとケビンが長年の恋人同士である事も、その場の話題として付け加えられた。

 食事は美味うまかった。久しぶりに、文化的ディナーを味わった気がした。

 レイチェルの提供したフィリピンでの食事に、不満があったわけではない。彼女の手作り料理も、そこの料理に負けないくらい美味うまかった。

 しかしフィリピンでの食事は、作戦行動下での事で、決して場を楽しむものではなかった。どこか抑圧された空気の中で、食わなければ体力を維持できないという、義務的な雰囲気があった。

 唯一心から楽しめたのは、レイチェルの淹れたコーヒーだった。あのコーヒーだけは、どこへ行ってもかなうものがないだろう。

 淹れる直前に豆を軽く煎り直し、豆を挽き、薄皮を丁寧に取り除き、沸騰からやや冷ました適温でゆっくりドリップするという、手間をかけた一品なのだ。勿論使用するコーヒー豆も、厳選されているに違いなかった。

 どこでそんな事を覚えたのだろうと、私は不思議な気がしていた。しかし私は、以前からその事を本人に訊かなかったし、今となっては益々訊けなかった。

 そんなコーヒーへのこだわりが、エリックの趣向と関係していたのではないかという、自分の勝手な憶測のせいだった。

 それを知る事が、嫌という事ではない。そんな説明をする羽目になるレイチェルが嫌な思いをするかもしれず、それをジェイソンが知ったら、彼も心に痛みを覚えるかもしれないという事だった。

 もっともこれは、完全なる私の思い込みの可能性も充分にある。

 いずれにしても抑圧からの開放は、メンバーをいつもより饒舌にし、食事を楽しむ空気を醸成した。

 私たちの中で笑い合ったり囃し立てるような会話は、これまで一度としてなかった。ケビンが合流してから日が浅い事を差し引いても、そんな時間が訪れる予感など微塵も感じられない空気が、確かにそれまで、私たちの間に漂っていたのだ。

 その後私たちは、ほろ酔い気分でホテルへ帰り、ロビーで散会し、各自部屋へと散らばった。

 私とグレースとポールが部屋をシングルとして使い、ジェシカとケビンは同室、勿論ジェイソン夫婦も同じ部屋である。

 シングルで使用するとはいえ、ベッドは広いダブルで、木製のビジネスデスクやソファー、テーブルが置かれるゆったりとした部屋だ。

 床はグレーに近いほど淡い青の薄手絨毯で、壁の色は薄いベージュだった。

 窓の外には、微かに街明かりを反射する大きなサイゴン川が広がっている。その水面は穏やかで悠々としているが、それと釣り合う、落ち着いた静かな高級ホテルの部屋だ。

 一旦外へ目を移せば、ホテル周辺にはフランス植民地時代に建てられた建物が数多く残り、ヨーロッパの雰囲気を持つ平和で歴史的な光景がある。

 植民地時代、ベトナム国民はフランスの搾取に苦しんだはずだが、こうして何の障害もなくベトナムに潜入できた裏には、未だに残る両国の繋がりが関係しているのかもしれない。

 今であれば、マニラへ戻る事に対するグレースの激しい反発も、理解できるような気がした。

 ようやく妹やその恋人を救い出し、幸福感の中で美味い料理を楽しめる所まで漕ぎ着けたというのに、なぜ今更危険なフィリピンへ戻り、敢えて危険な行為をしなければならないのか、という事だろう。

 ある意味もっともな話だが、こちらの条件をフランスへ完全に飲ませるためには、どうしても避けられない行動なのだ。

 実は渡すダークブルーが仮に一個としても、フランスがそれを取得する事には大きな意味がある。

 つまり、自分たちが一個を押さえておけば、どこかの国にそれを利用した危険な兵器を作られる心配はない。よって、安心を担保できる。

 最低限確かにしておきたいのは、他国に二つのダークブルーを握られない事なのだ。

 その上で自分たちが二個揃える事ができれば、フランスは軍事的に、世界の中で圧倒的優位な立場に立てる、という事だ。

 そうした軍事的優位は、外交であからさまに物を言う。様々な場面で、イニシアチブを取れるようになる。

 例えばどこかの紛争に介入し、フランスがボタンを一つ押せば、フランスの国益に反する組織はまたたく間に壊滅する。

 そうした実力行使を背景に、フランスは欲しい資源の商権を優先的に得る事ができるようになる。

 このような行為に、もはや多額の費用を要するミサイルや戦闘機、戦艦、潜水艦等の兵器や人的投入は要らない。

 そうなれば軍事、国防予算の大幅削減可能で、他国の兵器産業を潤す必要もない。

 それまで、どうしても必要であれば、他国の企業が開発した兵器を、言い値で購入しなければならなかったが、そうした事が不要になるのだ。

 たった一つの強大で決定的な兵器がもたらす国益というものは、様々なカテゴリーへ影響を及ぼす事になる。

 一旦それを手中に収めてしまえば、後はそれをどう使うかは自分たち次第だ。

 しかし、それを他の誰かに握られてしまえば、その脅威に怯え、理不尽な要求に屈する必要性が生じる。

 この兵器の優位性は、ピンポイントで攻撃可能、かつ敵は防御不可能ということである。多くの一般市民を巻き込み放射能汚染をもたらす核爆弾と違い、使用についても遥かに現実性がある。

 そんな兵器が、他国で開発される事を阻止できるだけで、実は大きな意義がある。

 しかし、二個揃えば、フランスはもっと具体的にそろばんを弾く事ができる。その点が、私とフランス政府の交渉に、大きな影響を及ぼすのだ。

 私は静かな部屋の中で、残りのダークブルー奪還の意味を、そうした観点から反芻はんすうした。

 そんな物騒な物を二個揃えてしまう事に、全く躊躇がないかといえば嘘になるが、ここまできた以上、先ずはやるしかないだろう。

 私はベッドの上で寝転び、白い天井を見つめながら、ダークブルーの奪還作戦をぼんやりとイメージしていた。

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