第27話 セブ脱出

 夕方になっても、グレースの機嫌は回復しなかった。たまに下のショップで顔を合わせても、彼女は全く口をきかない。私がコーヒーを飲みに下へ降りると、彼女はそそくさと姿を消す。

 その様子を見ていたレイチェルは、カウンターの中を片付けながら、「彼女はあなたの事が、心配で仕方ないのよ」と、動かす自分の手元を見ながら言った。

「私たちの事なら、気にしなくていいの。どうにでもなるわ。だから、無理はしないで」

 そう言いながら、相変わらず彼女は手を動かしている。

 レイチェルにも、私がマニラへ戻って何をするかが分かっているようだ。おそらくジェイソンが話したのだろう。

「無理をするつもりはない。心配するな」

「心配はしてないわ。心配したって、何も変わらないもの。でもグレースにはそれが分からない。気持ちの赴くままって感じね。羨ましいと思う」

 それだけを言うと、彼女は無言で片付けに戻った。

 その直後、カウンターに置いた衛星電話が鳴った。窓の外の景色は、黄昏の影が忍び寄っている。平穏な空気の漂う中で、本当にフランス軍と合流するのだろうかと、懐疑的な気持ちを抑えきれずにいたときだ。

 電話の主は、ポールだった。

『こちらは予定通りですが、何か変わった事はありますか?』

「いや、特にない」

『人数も?』

「変わらない」

 彼は一瞬、押し黙った。意外に思っているような、一瞬の沈黙だった。

 ポールにも、六人の間に流れる不協和音の火種みたいなものが、おぼろげながら見えていたのだろうか。

 ほんの少し垣間見ただけで感じ取れるものがあるとすれば、私の方が、鈍感過ぎるのかもしれない。

『分かりました。では八時に伺います。大きめの車で行きますよ』

 用件のみで、彼は電話を切った。

 いよいよ逃避行が始まるという実感が、自分の中でようやく芽生え始める。

「今日は予定通りだとさ」

 忙しそうに手を動かし続けるレイチェルに、私は言った。

「持っていく物の準備は終わっているわ。残していくものは、片付けがもうすぐ終わる」

「戻ってくるかどうかも分からないのに?」

 彼女はふと手を止めて、頭を上げた。

「きっと、戻ってくるわよ。人生の半分も、ここで過ごしてしまったんだから」

 嫌な思い出を多く残すこの地に、まだ未練があるというのか。いや、未練ではないだろう。おそらくそれは、運命のようなものだ。

 しがらみを全て断ち切り過去と決別するのは、難しいのかもしれない。望むと望まざるとに関わらず、断ち切れないからしがらみなのだ。現に彼女は、今現在、そういった境遇に立たされている。煩わしいしがらみは、多分に私のことも含んでいるはずだ。

 しかし私は、この話題を掘り下げようとは思わなかった。私はレイチェルへ返事をしないまま二階へ上がり、グレースの部屋の前でドア越しに言った。

「今日は予定通りだ。八時までには、ここを出る準備を整えてくれ」

 部屋の中から、ジェシカの分かったという返事が届く。しかし、何と言っても私のクライアントはグレースだ。

「グレース、お前の返事が必要だ」

 少し間があいて、グレースの如何にも不承不承といった、分かったという返事が聞こえた。

 一旦へそを曲げると、元へ戻るまで時間が掛かるらしい。彼女は私の事を、面倒くさい男だと思っているだろう。それは私にしても同じ事で、何とも面倒な女だと舌打ちしたくなる。 

 それでも私は、もう一言二言彼女へ念押しを浴びせようとして、結局その言葉を飲み込んだ。


 八時丁度に、店の外へ車の停車する音が響き、店のドアがノックされた。予め決めておいた、ノックの合図だ。

 施錠を外しドアを開けると、ポールが立っている。相変わらず、時間には正確だった。一分の誤差もない。少し早目に出発し、車の速度や信号での停止を、常に綿密に計算しながら運転しているのだろうか。無人の荒野を走るわけではないのだから、一分の誤差も生じさせずに行動するのは、簡単ではないはずだ。

 店の外へ出ると、ワゴン車が二台停まっている。一台は人用で、一台は荷物用との事だ。しかも荷物は、別の場所で違う六台の車へ移し替えるらしい。店の前にたくさんの車が並ぶのは目立つため、敢えてそうしたようだ。

「最悪の場合は荷物を諦めて貰いますから、貴重品は身に付けて下さい。荷物は後ろの車ですよ。はいはい、積み入れの終わった人は、こっちへ乗って」

 ポールは臨時旅行添乗員を、慌ただしくやっている。

 ドライバーは、地元の人間を雇ったようだ。

 港は近い。車で二十分も掛からないだろう。ならば運転は、ポールか私でも良かったのだ。二人ともフィリピンの免許証は持っていないが、検問があれば、どの道強行突破する。

「最後は車を返す必要があるんでね。ドライバーはどうしても必要なんですよ」

 彼はそう言うが、緊急事態では車の返却など考えない。まして海外逃亡するのだから、映画やテレビドラマのように、乗り捨てという事でいいだろうに。

 ポールというのは見た目の通り神経質で、妙に真面目過ぎるところがあるようだ。

 そもそも非常事態に陥った場合、全員の命を預かる地元ドライバーは、役不足ではないのか。

 私がその心配を口にすると、ポールはこう答えた。

「裏道ばかりを通りますから、大丈夫ですよ。検問には引っかかりません」

「検問を混乱させるというのは、止めたのか?」

「やりますよ。私たちが検問の裏を通った後にね。早目にやってしまえば、渋滞で道路が動かなくなります」

「通った後に、なぜわざわざ?」

「港の警備を手薄にするためです。おそらく騒ぎで、多く警官が街中の応援に駆り出されるでしょう」

 ポールが助手席へ座り、後部座席二列にそれぞれ三人ずつ収まった。

 ばたばたとしたせいで、時刻は八時を十分過ぎている。

 頭上に星は見えないが、雨は降っていない。風が穏やかで、これからにわか嵐が襲ってくることもなさそうだった。

 ポールが身体に付けた無線機で、これから出発すると他のメンバーへ告げる。彼の耳には、イヤホンが差し込まれている。

 車は大通りと反対の方へ向かった。裏道を通るのだから、確かにそれが正解の方向なのだろう。

「裏道はいいが、港へ行くには用水路が一つある。それを渡るには、どうしても大通りを通る必要があるぞ」

 ジェイソンが心配そうに言った。

「少し面倒ですが、それはいかだで渡ります。皆さんを川のこちら側で降ろしたら、車だけが大通りで検問を通過し、川向うでまた合流ですね。簡単な筏を用意していますよ」

「なるほど、きちんと考えているなら安心だ」

 ジェイソンは納得したようだ。

 車は薄暗く狭い道を、右折と左折を繰り返しながら進んだ。もし騙されても、これでは自分がどこへ向かっているのか分からずお手上げだ。

 大通りで港と反対側へ右折し、直ぐに左折して、再び狭い小路を走る。

 車は住宅街の小道をジグザグに進み、暫くして路肩に停車した。

「一旦車を降りて下さい」

 私たちはポールの指示に黙って従う。今更あれこれ言っても始まらない。

 私たちが降りると、車が素早く立ち去った。

 街灯のない、暗い場所だ。十メートル先に何かの建物は見えるが、自分たちが立つのは、何もない閑散とする場所だった。

 道端は藪になっている。ポールはその藪を両手でかき分けて、こっちですと言った。

 ポールの背中をみんなで追いかける。しんがりは私が努めた。誰にも見られていない事を確認し、私も藪の中へ足を踏み入れる。

 藪を抜けるのに、一分も掛からなかった。眼の前に現れたのは、幅が十メートルに満たないドブ川だ。悪臭が鼻をつく。暗くてよく見えないが、酷い汚水が流れていそうだ。いや、流れがあるかは怪しい。

 川岸に、丸太で組んだ筏が留めてある。そして一本の太めのロープが、一メートルの高さでこちら側から向こう側に張られていた。

「臭いは我慢して下さい。一分もあれば渡り切りますから。足元に気を付けて。落ちても死ぬことはありませんが、臭いは残りますよ」

 ポールが先に筏へ乗り、ロープを掴んで端に移動した。それに続いて、みんなが筏の上に立つ。七人が立って、若干余裕の出る広さだ。きちんと計算されて作られているようだ。

 全員が乗ると、ポールがゆっくりロープを手繰り寄せるように引いた。それで筏が動き出す。

 思った通り、汚水に流れはほとんどない。筏は流されることもなく、安定的に向こう岸へ近付いた。

 向こう岸にたどり着くと、同じように藪の中をくぐり抜け、また小さな道へ出る。

 間もなく車がやって来た。随分近付いて、それがさっきと同じ車である事が分かった。

 私たちは再び車へ乗り込んだ。車が発進して暫くすると、ポールが無線で指示を出す。

「起爆しろ」

 数十秒後、遠くから爆発音が聞こえた。爆発音は複数方向から届いたようにも思えたが、確信は持てない。

 更に数分後、けたたましく鳴るサイレンの音が聞こえてきた。サイレンは、パトカーや消防車、あるいは救急車も混ざっているのだろう。

 遠くから聞こえるサイレンは、彼らの慌てる様相を示している。サイレンの鳴り方が、尋常ではなかった。街の中で、そういった全ての車両が、一斉に動き出したという感じだった。

 一方で我々は、閑散とする暗くて細い道を、くねくねと細かく曲がり進んでいる。少し広めの道へ出ると、すぐさま別の小路へ入るという具合だ。まるで、ドブネズミにでもなった気分だ。

 遠方が騒々しさを増す中、我々の車は何の障害もなく進んだ。それが目的地へ真っ直ぐ向かっているか、それとも紆余曲折に進んでいるのか、定かではないにしても。

 随分薄汚い場所を通り、気付いたら車は海辺に出た。その場所に見覚えがあるような気はしたが、どこかは分からなかった。前方斜め上を、高速道路が走っている。

 私は小さな声で、ジェイソンに訊いた。

「一体ここは、どこなんだ?」

 彼は周囲を見渡して、「おそらくその川を渡れば、もうパシルだろう」と言った。

 確かにすぐ側に川がある。

 とすれば、セブのフェリーポートから、随分下へ下がったという事だ。

「その通りです。ポートの辺りを内陸側に避けて通り、パシル近くまでに来ました。迎えのボートと、ここで落ち合います」

 車は広い空き地の端に、ひっそりと停車する。

 私は無意識に、腕時計を見た。時間は九時に十分を残していた。

 空き地の中に、何台かの車が乱雑に停められている。ほとんどは車中に人の姿が見えないが、ドライバーのいる車もいた。

 こちらの車がヘッドライトをパッシングすると、何台かの車がヘッドライトを消灯したまま、こちらへゆっくり近付いてくる。

 私はポケットへ入れたコルトガバメントを、密かに握りしめた。

 私の不穏な様子を察したポールが、後ろを振り向く。

「あれは皆さんの荷物を積んだ車ですよ。一台にたくさん積むと検問で怪しまれるので、港から旅行に出る振りをして、六台の車へ振り分けています。全てが無事に到着していますよ」

「つまりセブの脱出は、ほぼ成功という事かね」

「後は迎えのボートに乗るだけです。十二人乗りの、ヤマハハイパワーエンジンを三基搭載した高速ボートを用意しました。ボートが来たら、先に荷物を積み込み、それが終わってから、皆さんに素早く乗り込んでもらいます」

「街はどうなっている?」

「各検問場所に停めてあるパトカーの底へ、爆弾を仕掛けて爆発させました。工作員はパトカーの中や周囲に人がいないことを確認し、起爆スイッチを押すだけです。騒ぎに乗じて、全員その場から撤収しました」

「それで警察や軍は、港の見回りどころではなくなったというわけか」

「はい。まあ、元々この場所は、時々パトカーが見回りに来る程度ではあったんですがね。念には念を入れて、というところです」

 ポールに感心しているところへ、小さな照明を付けたボートがやって来た。荷物を積んだ車が、ボートの接岸場所へ集まる。それぞれの車から、荷物が運び出された。我々は、作業終了まで、それを遠巻きに見ていた。万が一警察や軍が来たら、素知らぬ振りで逃げるためだ。

 しかし街が大騒ぎになっているせいで、パトカーも軍も、やってはこなかった。

 懐中電灯が左右に振られる。荷物の積み込み作業終了の合図だ。私たちのワゴンがゆっくり動き出す。

 ボート近くに車を停車させ、小走りにボートの脇へと移動した。白い船体は、所々にミラーガラスが張り付き、見るからに豪華で速そうだった。

 後部の昇降式ステップから、ボートに乗り込む。

 出発する前に、私はボートの全てのエリアを点検した。

 トップブリッジにコックピットがあり、それを囲むようにパッセンジャー用のソファーシートがある。クルーが三名、そこへ座っていた。

 その下にメインサロンがあり、立派な革張りのソファーが配置されている。

 メインサロンの先端にも、コックピットがある。

 それ以外、プライベートルームが二つと、シャワールーム、パウダールームが二つあった。クローゼットも含め全てを確認したが、クルーはトップブリッジにいる三名だけのようだ。

 私がオーケーを出すと、いよいよボートのエンジンが始動し、船体を揺らして発進する。

 最新のレーダー、ボートの周囲や底のスキャン装置を搭載しているようで、夜間航行は問題ないらしい。それでも照明を付けないと危険なため、灯りを消す事はできないようだ。しかしその周辺は夜間警備を行っていないらしく、公的機関に停船命令をくらう心配は少ないようだ。

 ボートが発進して間もなく、私はブライアン将軍へ、衛星電話を繋げた。

 セブシティーから海上へ、無事に逃げおおせた事の報告である。

 その後潜水艦に乗り込んでしまえば、私にできる事は少ない。それはもう、フランス軍の責任で、万事上手くやってもらうしかない。

 その電話の隠れた目的は、その念押しであった。

 頭の切れる将軍は私の言いたいことを見抜き、後の事は抜かりないから安心しろと言った。マラッカ海峡を抜けたら、もう一基の潜水艦をバックアップで付けると、彼は約束したのだ。

 万が一フィリピン軍が我々の行動を捕捉していたら、軍事的攻撃も充分あり得る。今のところ潜水艦を持たない彼らでも、第三国との共謀で、何かを仕掛けてくる可能性は残っているのだ。そんな事が現実になれば、私たちは手も足も出せずに、海の藻屑もくずとなる事もあり得る。

 もしバックアップの件が本当ならば、それはフランス政府や軍の取り組みが真剣である証で、少しは安心できる。

 私は彼に感謝の言葉を述べて、電話を切った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る