第26話 不協和音

 レイチェルのコーヒーを飲みながら、夕方までゆっくり過ごした。外に見張りが付いている事で、幾分安心する事ができる。

 一度ポールから、報告の電話が入った。

『フィリピン大学を調べましたよ。衛星写真で、様子を伺っただけですがね』

「ほう、早いな。それで?」

『やはり軍がしっかりへばりついていますね。幌付きのトラックが少なくとも四台、それに大学の敷地を囲むように、兵隊が五十人程立っていますよ。敷地が広いんで、隙間はありますがね。戦車がいるわけではないんでどうにかなりそうですが、一斉にかかってこられると厄介です』

 昨日ラポラポベースに忍び込んだ状況と、同じという事だ。

「何か作戦はあるのか?」

『そうですな、みんな眠ってもらいますかね。そうすれば、ゆっくり仕事ができます』

「ガスか? 上手く眠ってもらえたらいいがな」

『方法論は検討の余地がありますがね、少しくらい残っても大丈夫ですよ。人数が少なければ、後は腕ずくって奴で……』

 この男、腕もたつのか、それとも部下任かせか……。戦闘になったら、一体どんな戦い方をするのだろう。

「分かった。あんたを信じて、大船に乗ったつもりで臨むことにする」

『それはどうも。中々、そうやって信じてもらえないんで、正直嬉しいですよ』

「フィリピン大学の確認を継続してくれないか。知らないうちにダークブルーが持ち出されたら困る」

『そのつもりです。我々がベトナムへ移動する間、もっと細かい情報を得るように動いてみますよ』

 やはりポールは要領を得ている。先回りをして、するべき事をする男だ。

「あんたのような男がサポートしてくれて、助かるよ」

 ポールはへへへと調子の良さそうな笑い声を出し、また連絡する事を告げて電話を切った。

 翌日は、フィリピンを脱出する。せめて晩餐は豪華にいきたいところだが、市中での行動は控えた方がいい。そのお楽しみは、パリ到着までお預けとなる。

 となれば、差し当たりやる事がなかった。私は、漫然とその日を過ごした。平和過ぎて怖いくらい、何事もなかった。

 変化があったとすれば、ケビンが回復し、話ができるようになった事だ。

 私はジェシカに、ケビンと話をさせてくれと申し出た。

 彼は二階の、一番奥の部屋で寝ている。彼がこの家に来て以来、ジェシカがずっと付き添っていた。グレースは床にマットを敷いて、夜は同じ部屋を使っている。

 私とケビンの話に、グレースとジェシカも立ち会った。

 三人が使っている部屋へ入ると、ケビンはまだベッドに横たわっていたが、私の姿を認めた途端、彼は身体を起こそうとする。相変わらず顔にあざは残っていたが、目の腫れが引いてまともな顔付きになった。

 私は起き上がろうとする彼にそのままでいいと言い、直ぐに用件を切り出した。

 それは、ダークブルーをフランスへ売り渡す事についてだった。

「あんたに悪いとは思ったが、フランスと勝手に取り引きした。彼らへダークブルーを売る代わりに、俺たちをかくまうと約束させた事だ。フランスが最後まで約束を守るという保証はないが、今のところ彼らは、大掛かりな行動を起こしている。あんたにはダークブルーの所有者として、それを了承して欲しい」

 ケビンは戸惑った表情を作ったが、困惑したのはダークブルーを売る事に対してではないようだった。

「それは構いません。あれは、僕には手に負えない代物だということが、よく分かりました。今は命の方が大切です」

「そう言ってもらうと助かる。ダークブルーを渡せない事になったら、フランスには頼れないからな。何事も命あっての物種だ。それが分かっているなら問題ない」

 私が確認したかったのは、それだけだった。

 しかしケビンの方に、それ以外の用件があるようだ。

「失礼ですが、僕からも少し訊いていいですか?」

 私が「構わない」と言うと、ケビンが続けた。

「あなたがジェシカや僕を助けてくれたことは、本当に感謝しています。ただし、ダークブルーを手にした後に、あなたが変わらないという保証はあるのでしょうか?」

 それを聞いたグレースは、さっと顔色を変える。ケビンは遠まわしに話しているが、要は私の裏切りを疑っているのだ。

「ケビン、あなた、何を言ってるのか分かっているの! 彼は私が、無理を言ってお願いした人なのよ」

 グレースの憤慨が、言葉の勢いに現れていた。

「グレース、彼が俺を疑うのは当然だ。今回は、疑う方がむしろ健全だと思っている。だから気にすることはない」

 私はケビンに向いた。

「俺を信じるかどうかは、あんたの勝手だ。ただし言っておく。俺はプロとして、クライアントは裏切らない。そして俺は、クライアントの依頼を達成するためにのみ動く。グレースの依頼が、あんたを裏切る内容であってもだ。それを忘れないで欲しい」

 私がそう言っても、グレースの憤りは収まらないようだった。彼女は腕を組んで、ケビンを睨んでいる。

 ジェシカは無言だった。彼女は私たちとケビンの間に挟まれ、どう振る舞うべきか分からないようだ。その無言が、彼女の困惑ぶりを示している。

 ジェシカも最初は、私を疑っていたのだ。いや、今でも彼女は、私を信じていないのかもしれない。ケビンの心配は、ジェシカの心配である可能性もある。

「失礼な事を言い、済みませんでした。あなたの言う事は、良く分かりました」

 彼がどんなつもりでそう言ったのか、私にはよく分からなかった。いずれにしても、彼が行動計画を乱さなければ問題ない。

 私にとって大切なのは、それだけだ。

 私が彼の部屋を出ると、グレースが私を追いかけるように部屋を出てきた。

「佐倉さん、ごめんなさい。彼も酷い目に遇って、普通じゃないの」

 私は彼女を振り返った。私が足を止めてグレースをじっと見つめると、彼女も足を止めた。

「それだけじゃないだろう? あいつは、俺が兵隊を刺したところにいたんだ。俺がさぞかし冷徹な人間に見えただろう。そんな奴を信用できるのかと、疑心暗鬼になっているはずだ。しかも、誰かがもっと高い報酬を払うと言えば、今度は俺が、お前たちを殺すかもしれない事まで疑っていたんじゃないのか?」

 グレースは否定しなかった。どうやら図星だったようだ。ケビンはグレースとジェシカに、散々そんな事を確認したのかもしれない。

「お前もそう思うのか?」

 彼女は真剣な目を私に向けて、はっきりと答えた。

「私は思ってないわ。言ったはずよ、私はあなたを信じてるって」

「そうか、分かった。俺は報酬額で、敵に寝返ったりしない。この商売は、信用が大切だからな」

 妻から旦那の浮気調査を依頼され、浮気ねたを掴み、旦那に口止め料を請求し、夫婦両方から金を取る悪質な探偵もいる中、私はそんな汚い真似を一切したことがない。自慢するほどの事ではないが、私は普段から、そういった信用を大切にしている。クライアントが美人だからそうする、という事ではない。

「信用のためだけなの?」

 私は直ぐに、彼女の言う意味が分からなかった。

 そこに、ビジネス以外の個人的な理由はないのかと訊かれた事に気付くまで、数秒掛かった。

 私は気まずさを感じ、「そうだ。信用のためだ」と言い残し、自分の部屋へと退散した。


 夜はレイチェルが買ってくれたスコッチを一人で飲み、そのまま早い時間に就寝した。眠りに就いたのは、おそらく十時頃だろう。外に見張りがいなければ、通常はこうした事もままならない。

 お陰で朝方五時、激しい雨の音で目を覚ました。バケツをひっくり返したような雨。フィリピンではよくある事だ。

 外で警備している三人の事が気になった。任務は天候に関わらず絶対だ。

 激しい雨は、警備の仕事を困難にするが、潜水艦の行動は楽になる。もっとも、この雨が局所的である可能性は高いのだが。

 ベッドから起き上がり、小さくカーテンをめくった隙間から外を見回してみた。視界が悪く、警備の人間がどこで張り込んでいるのか分からない。

 寂しく小さな道路には、何も異常が見当たらなかった。

 私はテーブルの上に置いたグラスへ、ワンフィンガーのスコッチを注いで一気に飲んだ。喉が焼ける。

 ボトルには、まだ三分のニも酒が残っていた。仕事中という最低限の意識が、昨夜の酒の量を控えさせた。

 体調は悪くない。日本で過ごすよりも、フィリピンにいるときの方が寝覚めはよい。

 気候のせいだろうか。こうしてフィリピンに滞在していると、自分はフィリピンの方が肌に合っていると感じる。それにも関わらず、この地から逃げ出さなければならない。

 家の中は、静まり返っている。みんなはまだ寝ているのだ。私は日本で買った本を鞄から取り出し、もう一度睡魔が襲ってくることを期待しながら読み始めた。

 再び目を覚ましたのは、十時少し前だった。カーテン越しに、日が差しているが分かった。激しい雨は、すっかり上がっているようだ。

 洗面を済ませて下へ降りると、全員がショップへ揃っていた。コーヒーカップを前に置き、各自くつろいでいる。ケビンもジェシカの隣に座り、彼の前には朝食を済ませた皿が放置されていた。

 私に気付いたレイチェルが、カウンターの内側へ入り、私のコーヒーを淹れる準備を始める。

 グレースは、ヘッドホンを耳に差してコーヒーを飲み、ジェイソンはカウンターで新聞を広げていた。

 寄せ集めのせいか、一体感がない。緊張感さえ感じられないのは、この店の持つ雰囲気のせいなのだろう。

 少なくともジェイソンは、こう見えて異変があれば、直ぐに警戒する。その彼がのんびりしているのは、平和な証拠でもあった。

 せっかく全員が揃っている。私は今後の予定を説明した。

 夜の九時までにセブの港へ移動し、そこから潜水艦でベトナムに上陸、その後ホーチミンの空港からフランスへ高跳びする件だ。

 私はホーチミンから、マニラへ戻る事も告げた。それにグレースが反応する。

「どうして佐倉さんがマニラへ戻るの? せっかくフィリピンから逃げ出して、意味がないじゃない」

 ダークブルーの片割れを取り戻す件は、ジェイソンしか知らない。あり場所は秘密にしている。今後の予定も、直前まで秘密にすべきだったのかもしれないが、このメンバーがどこかへ密告するとも思えなかった。

「フランスとの取り引きで頼まれた、重要な仕事がある。それが上手くいけば、全員がフランス政府の庇護下で暮らせるようになる」

「それはつまり、私の依頼の一環という事になるわけ?」

「そういう側面もある」

「それは危なくないの?」

「大丈夫だ。フランスのエージェントも、一緒に行動する」

 グレースは暫し考え込んだ。そして頭の回転が早い女だから、彼女は私が、マニラで何をするのかに気付いたようだ。

「その仕事、止められないの?」

 詰め寄るような言い方だった。

 私は、「無理だ」と答えた。

 こうした物の言い方が、私を無愛想な人間に見せている事は自覚している。しかし、無理なものは無理だ。

 止めるのが難しいわけではない。ジェイソンとレイチェルの協力へ報いるためには、避けて通る事のできない仕事なのだ。引いては、ケビン、ジェシカ、そしてグレースの安泰にも繋がる。

 グレースは、悲しげな顔を私に見せた。

「お願いしても、無駄なようね」

「これは、俺個人の問題でもある。止めるわけにはいかない」

 それまで黙っていたレイチェルが、グレースに向かって口を開いた。

「この人が一度決めたら、いくら頼んでも無駄よ。十年前も同じだった」

 その一言にグレースは踵を返し、二階へ繋がる階段の方へ無言で消えた。不協和音が、耳元で木霊しているような気がした。

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