第25話 フランス行き

 一晩で、身体の疲れが抜けていた。グレースのマッサージが効いている。

 ケビンもしっかり睡眠を取れば、明日には回復するだろう。

 ブライアンの約束した日は明日だ。昨日と今日の二日間、準備に費やすと彼は言った。

 フィリピン軍は顔に泥を塗られ、益々躍起になるはずだ。

 果たして今日一日で、彼らは私たちに辿り着くだろうか。今度は警察も動く可能性がある。おそらく街中には、本格的な非常線が張られている。


 下へ降りると、レイチェルが朝食の準備をしていた。カウンターでは、ジェイソンが新聞を広げている。

 私がジェイソンの隣へ座ると、彼は読んでいた新聞を無言で私に手渡した。

 広げた紙面に、ジョセフ大佐の件が載っている。

 記事では、彼がテロの犠牲になったと書かれていた。ただしどこからも犯行声明が出ておらず、テロを実行した組織は不明、実行犯はユーゴと名乗る欧米人で、未だセブシティに潜伏している可能性があるとなっている。

 しかし重要だったのは、その記事ではない。

 目を引いたのは、その記事の下に『ブライアン』という連絡記事の囲みがあり、数字が並んでいる事だった。

「これって、ブライアン将軍じゃないのか?」

 ジェイソンも気付いているようだ。

「おそらくな。新聞を利用するとは思いもよらなかったが」

 数字の羅列は暗号だろうが、暗号ルールが示されていない。

 私は最初の数字である2182を、暗号ルールとして当たりを付けてパソコンに打ち込んだ。そして残りの数字を手入力する。番号を眺めているうちに、ブライアンが好んで使った数字を思い出したのだ。この数字は、彼の名前と関係している。

 思った通り、意味のある文章が出力された。

 出力された文章は、「電話番号0128246533 パスワードはセブアイランド ボホールアイランド」のみであった。おそらくここへ電話して、合言葉であるセブアイランドとボホールアイランドをお互いに確認してから話をしろということだ。

 暗号ルール番号からも推察されるように、これは間違いなくブライアンからのメッセージだ。つまり、信用できる情報という事だろう。

 ジェイソンが言った。

「こっちから電話をするなら、大きな問題はないだろうな」

 確かにその通りだ。

 私はナップザックにしまった携帯を取り出し、電源を入れる。

 指定の番号を押すのと同時に、私の前へコーヒーが置かれた。携帯を耳に当てたまま、私は小さくレイチェルに頭を下げる。

 相手は三回の呼び出しで電話を取った。前置きなしで、いきなりセブアイランドと言われる。

「ボホールアイランド……、これでいいのか?」

 合言葉はよく使ったが、久しぶりのせいか、それともその言葉のせいか、自嘲的なおかしみが込み上げる。

『もちろんオーケー、ユーゴ。フィリピンは初めてですがね、随分暑くて驚いていますよ。早速用件に入リますが、宜しいですか?』

 随分、テンポの早い話し方をする男、というのが、彼に対する最初の印象だった。

 私はもちろんと、手短に答える。

『フランスの命令で来たポールです。あなた方のサポートが私の任務です。ここへ来る前に、ブライアン将軍とは、直接話をしました。先ずは連絡用の衛星電話を渡したい。どこかで会いたいのですが、場所と時間を指定して下さい。明日の件も話したいですな』

 腕利きかもしれないが、事務的な話し方に親しみは感じられない。

「残念ながら、こっちは簡単に出歩けない状況でね、今隠れている場所へ来てもらうしかない。午後二時きっかりにドアを開けてくれ」

 ジェイソンの店の場所を伝え、その会話を終わらせた。携帯で長話はしたくなかった。

 会話の内容をジェイソンへ伝えると、「フランスも本気なんだ」と気の抜けたように言い、彼はさっさと二階へ上がってしまう。

 これでブライアンが、真面目に動いている事は分かった。人質は奪還し、ダークブルーの片割れも手の内にある。後はもう一つのダークブルーを手中に収めれば完璧だ。

 本来、そこまで欲張る必要はない。ただし、ダークブルーを二個揃えてしまえば、ジェイソンとレイチェルの今後について融通が利く。

 私は思わず、キッチンの中で寡黙に動いているレイチェルを見た。

 昨夜のグレースの話を思い出す。私はレイチェルに、特別な感情を抱いているのだろうか。自分の事というものは、考えるほど分からなくなる。

「どうしたの? 怖い顔をして。また問題?」

 レイチェルが食器を拭きながら、私を見た。

「ああ、極めて個人的な問題だがな」

 彼女はそれ以上、何も訊かなかった。


 ポールと名乗ったエージェントは、本当に二時きっかりに、ジェイソンの店へやって来た。

 驚いたのは、彼の見掛けがまるで中国人のようだった事だ。私はポールが、青い目を持つ、背の高い筋肉質の男ではないかと想像していたが、実際はまるで逆だった。身長は百七十に満たず、顔は鼠男のように顎がとんがり、おまけに細い目を持ち出っ歯だった。瞳の色は黒で、歳は三十半ば。

 エージェントらしからぬ容姿だからこそ、エージェントに向いているという事かもしれないが、腕利きという噂には程遠い雰囲気を持つ男だ。

 狡猾に動き回るのは得意そうだが、これで銃など扱えるのか、それすら怪しい。

 呆気に取られる私を見て、何かを察したのだろう。ポールは言った。

「驚いているんでしょう、私が東洋人のようで。よく言われるんですよ」

「図星だが、やる事をやってくれたら見た目はどうでもいい」

 出っ歯のせいで、にやけているのかそれとも真剣なのか、どうにも判別し難い顔で彼は言った。

「そう言ってもらえると、こっちとしても助かりますよ。先ずは携帯です」

 黒い革のボストンバッグから、彼は見た目が旧式の携帯電話を出して、カウンターの上に置く。

「見た目はよくないですが、会話を盗聴できないスクランブル対応の衛星電話です。通話料金は気にせず使って下さい」

 そう言うと、彼の出っ歯が完全に下唇の上へ被さる。そこで私は、それが彼の笑顔だと気付いた。彼は舌なめずりをして続けた。よだれが垂れてくるのではないかと思うくらい、彼の唇が湿る。

「一応銃も持ってきました。レミントンのM1911ガバメントですね」

 茶色の紙袋がカウンターの上に置かれると、ごとりと鈍い音がする。

「おっと、大事なものを忘れてました。必要かどうか分かりませんが、現金も用意してます」

 彼は分厚い封筒を、胸のポケットから取り出す。彼がそれを私に差し出すと、中に千ペソ札がぎっしり詰まっているのが見えた。私は札を数えず、迷惑料だと言ってそれをレイチェルに渡す。彼女は黙って受け取った。

「あとは、便利な小物が色々あります」

 そう言って、彼はバッグの口を広げてこちらへ見せる。バッグの中は、何やらがらくたのようなもので混雑していた。私はその内容を確かめずに言った。

「それで、明日の予定は?」

「夜の九時に、港へボートが来ます」

「こっちは六人の予定だが、全員乗れるのか?」

「大丈夫です。潜水艦もその程度のスペースは確保しています」

「大切な事が二つある。一つは港までの移動だ。途中に検問があるし、港の警戒も厳しいはずだ」

「承知しています。検問は、こちらで混乱させます。通る場所だけに何かを仕掛ければルートがばれるんで、各検問へ一斉に攻撃をかける予定です。攻撃人員は既にセブへ入っていますよ。で、もう一つは?」

「潜水艦へ乗り込んだあとはどうするんだ?」

「ベトナムへ上陸し、ホーチミンからフランスへ飛びます。パスポートはこちらで用意しますから、問題ありません」

 私はその計画を聞いて、少し思案した。

「何か問題でも?」

「ならば一部計画を変更してくれ。ホーチミンでみんなが無事に飛び立つのを見届けたら、俺はマニラに戻りたい。あんたにも付き合ってもらう」

 彼はビーバーのような歯を出して、小さな目をそれなりに見開いた。

「それはまたどうして?」

「ダークブルーの件は知っているな」

 彼が頷く。

「あれは二つないと意味がない。一つは我々が持っている。しかしもう一つは、マニラの大学にあるらしい。それを奪い返す。この事はブライアンと協議しなければならないが、彼も異存はないはずだ」

「となれば、軍の警備もついているんでしょうから、戦闘になりますかね」

「そのつもりでいて欲しい」

 ポールは怯むと思ったが、まるで動じていないようだ。そういうことならお手伝いしますよと、平気で言う。

 よく分からない男だ。

 私はポールへ、フィリピン大学の詳しい場所を伝えた。彼が配下に、下調べをさせると言ったからだ。何か分かり次第、彼は衛星電話で連絡すると言った。

「何か他に、困った事や要望はありますか?」

「いや、今は特にない」

「分かりました。この場所は、私の部下三人が警備します。異常があれば直ちに連絡しますので、連絡がある迄はごゆっくりお過ごし下さい」

 彼はそう言い残し、何事もなかったように、店のドアから出ていった。

 無線機のヘッドセットらしきものを耳に付けていたから、外に異常がない事を分かっているのだろう。

 彼が店を去ると、ジェイソンがすかさず言った。

「随分と、ちんちくりんな奴だったな。あれで本当に大丈夫なのか?」

 確かに私も意表を突かれたが、ブライアンが腕利きと言うからには間違いないのだろう。少なくとも、頭の回転は早そうだった。店の中での物音にも一々反応し、視線を一瞬ずらして確認していた。そういう意味では、用心深い人間のようだった。

「ジェイソン、人は見かけによらないという、典型的な例かもしれないぞ。それに隙のない奴だった。まあ、信じる価値はありそうだ」

「お前がそう言うならいいがな」

 そんなことよりも、私には、もっと重要な話題がある。

「なあ、明日フランス軍に合流するが、お前はどうするんだ?」

「俺たちは脇役だから、図々しくフランスへご厄介になるわけにはいかないさ」

「ここへ残るのは危険だ。お前がどうしても残りたいなら別だが、できれば一緒に行って欲しい。フランスでの事は、できるだけ奴らに面倒をみさせる。俺の金だって残ってるんだ。生活の事は心配するな」

 ジェイソンは黙り込んだ。レイチェルにも聞こえるように話しているが、彼女はおそらく、ジェイソンの決めた事に従うつもりなのだろう。口出しせずに、ただ手を動かしている。

「お前の生活を壊して、申し訳ないと思っている。だから責任を取りたい。フランスでは、国籍を取れるようする。その上で、二人が静かに暮らせるようにする。フィリピンに帰りたくなれば、いつでも帰ってくればいい。新しいパスポートを使えば安全だ」

「お前はどうするんだ? お前もフランスに腰を落ち着かせるなら、俺も考える」

 私は、直ぐに答える事ができなかった。

 ジェイソンは、レイチェルを見る。

「お前はどうだ? フランスで暮らす事に問題はないか?」

 レイチェルは、手を動かしながら答えた。顔は上げなかった。

「私はあなたの決めた事に従う。暮らすのはどこでもいいのよ」

 よく取れば、ジェイソンが一緒ならどうでもいいと聞こえるが、何かを諦めているようにも聞こえる。

 私の場合、自分には捨てるものが何もない。だからどこで暮らそうが、食っていければ私に場所のこだわりはない

「この際だ。俺もフランスで暮らしてもいいけどな」

 私はそれを言葉にしてから、レイチェルが自分と同じかもしれないことに気付いた。

 私とレイチェルは、何かを背負いながら世間を捨てている。

 私の持つ十字架は、かつて目の前で殺された五歳の子供や、子供を奪われ傷付けられたレイチェルの事だ。

 彼女の十字架は、エリックに奪われたロメルだろう。幼い子供を救えなかった事に対する、後悔と懺悔。子供と離れるなら、あの時死んでしまった方が良かったと思っているのかもしれない。

 そうであれば、私は彼女を二重三重に苦しめたことになる。

「レイチェル、再びお前の生きる場所を奪うことになり、済まないと思っている。しかし今回は、ジェイソンと一緒にフランスへ行ってくれ。これでお前たちに何かがあれば、俺はいたたまれない」

 ジェイソンは目を閉じて暫く考え、決断した。

「レイチェル、最低限の荷物を、明日まとめてくれ。店の客には悪いが、これからここを閉める」

 レイチェルは、驚く様子を全く見せず、ただ頷いた。

 せっかく軌道に乗せた店を捨ててまでの決断だ。これは彼らの人生にとり、大きな変曲点となる。それを私は彼らに強要した。責任は重い。

 私は黙って、二人に頭を下げるしかなかった。

 

 私は寝室へ戻り、支給された衛星電話でブライアンを呼び出した。事を動かす前に、どうしても確認しなければならない事がある。

 彼は直ぐに応答した。しかも彼は、機嫌が良かった。フィリピン軍将校を殺した事は筒抜けで、派手にやったもんだと、彼は豪快に笑い飛ばす。

 私は直ぐに、用件を切り出した。

「合流する前に、約束して欲しい事がある」

『何だね、大抵の事は叶えられると思うが』

「今回の件は、以前同じ部隊にいたジェイソンに手伝ってもらった。お陰で彼は、フィリピンに居続ける事ができなくなりそうだ。俺は彼らに、危険を回避するため、フランスへ行ってくれとお願いしている。その後の彼とその妻の生活を、フランス政府で保証してもらいたい」

『ふうむ、そもそもが大所帯だから、簡単にはいかないがな。ただし、ダークブルーを二個揃えてくれたら、難しい話じゃない。難しいどころか、国賓待遇も夢じゃない程の快挙だ』

「分かっている。俺とポールは、ベトナムからマニラへ戻る予定だ」

『その事は聞いている。軍を動かすわけにはいかないんでね、君が動いてくれると助かるよ。とにかく、ジェイソンの件は善処する』

 早くもポールから報告が上がっている。逐一連絡を取り合っているというわけだ。

「いや、これは努力目標ではなく、必達だ。政府が駄目なら、軍でどうにかして欲しい」

 彼はこちらの押しに怯んだように、少しの間無言になる。

『強引なところは変わっていないな。分かったよ、約束しよう』

 この先裏切りがないとは言えないが、一先ずこれで安心だ。

 気持ちが少し軽くなると、私はまた、レイチェルの淹れたコーヒーが恋しくなった。

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