第1章 第4話 記憶の旅

ガタン!

一際大きな音がして列車が停止する。

その揺れと音に初めてナナコはいつの間にか寝てしまっていたことに気がついた。

まだぼんやりとする視界で無理やり照準を合わせながら辺りを見渡すと、少女は既に列車を降りるところだった。

ふわりと少女の柔らかい髪がなびくのを見届け、ナナコもハッとし慌てて列車から降りる。

そして視界がひらけた時ナナコは驚きを隠せなかった。目を見張り、思わず口を押さえ立ちすくむ。

そこには、自分が以前よく使っていた駅名の看板が堂々と壁面に貼り付けられていた。


「こ、ここ…」


『あなたが生きていた現世です。ようやく到着しました』


長かった。言葉には出さなかったがナナコには少女がそう言っていたように聞こえた。

それにしても不思議でならない。

あの世とこの世の境から来たはずなのに、なぜ現世に実在している駅に辿り着くのか。

そもそも、乗ってきた列車はどうやって駅に侵入したのか。

説明がつかない事ばかりだが、どうしても気になってしまう。

しかし、少女に尋ねるには些か遅すぎるような気がしてナナコは渋々浮かび上がる疑問たちを飲み込んだ。


『ここからはあなたが先導してください。何せ私はこの世界に疎いのです』


少女がぽつりと言う。

その言葉にナナコは不思議な納得感を得て小さく頷いた。しかし踏み出した足は2歩のみ。すぐに立ち止まる。

そもそも記憶が無いのに記憶をどうやって辿ればいいのか。

難題にも程がある。とナナコは唸る。

そんな心中を察してか、少女は最初に会った時に持っていたファイルを取りだした。


『……あなたが務めていた会社は西鶴の間区にあるようです。まずはそこに行ってみてはどうですか』


「西鶴の間区…」


確かにそこに努めていたような気がする。

一等地に建つ高層ビルの…何階かまでは思い出せないがその場に行ったら思い出せるかもしれない。

――とりあえず行くしかないよね。

もう既に死んでしまっている。失うものは無いに等しい。

ここで立ち往生していても状況は何も変わらない。

そう自分に言い聞かせナナコは歩き出す。


『途中、記憶の断片が見えても決して拒否しないでください』


記憶が改変されてしまっては大変ですから。と、歩き出すナナコに少女が声をかける。

記憶を拒否する。その言葉の真意がよく理解できないが、とりあえずは受け入れればいいということだろうとナナコは考えた。

――記憶かぁ。どうして忘れちゃったんだろう。

空を見上げナナコはふとそう思った。

そんなに嫌な記憶だったのか。そこまで不自由な暮らしをしていたような気はしていないが。

そうして歩いているうちにナナコはふと違和感に気づく。

先程から暑さや寒さを全く感じていないのだ。

日差しの強さや行き交う人々の服装から初夏であるということは想像がつく。

しかし今の自分の恰好はブラウスの上からジャケットを羽織っている。初夏にしては厚着すぎる。

だが汗をかくこともなければ、日差しが眩しいとか、アスファルトから照り返る紫外線でじりじりと肌が焼けている感覚があるとか、そういうものを全く感じない。

そうか、これが"ミウラナナコ"という概念になったということか。

思えば先程からすれ違う人と誰も目が合わない。

それどころか、少し狭い歩道に溢れんばかりの人々が列をなして歩いているにも関わらず、その流れに逆らっているナナコはまだ誰ともぶつかっていない。

ナナコはふと気になり、わざと少し腕を伸ばして歩く。

その時丁度、真向かいから小走りで男がやってきた。スーツを着て、少し汗ばんだ細身で長身の男だ。眉目秀麗という言葉が良く似合いそうなその男は、暑かったのか袖を肘より少し下まで捲りカバンを左手に持っている。

このままナナコが腕を引かなければきっと男の右横腹にナナコの腕がぶつかり、反動でナナコは少しのけ反ることになるだろう。

不安と期待が入り混じる中、男の体はナナコの僅か数cm手前まで来た。


「あっ」


ナナコの体が男とぶつかることはなかった。

ナナコの腕は男の右横腹をすり抜けていったのである。

今しがた男に触れることが出来なかった右手を見つめ、ナナコは異様な喪失感に襲われた。

右手を握ったり開いたりして感覚を確かめる。

以前のように何かを掴めそうなのだが。先程の事を考えると概念となってしまった今、現世の人や物に触れることは不可能なのだろう。

死ぬとは、こういうことか。

ナナコの胸の奥底から忘れていたであろう悲しみが込み上げてきた。

その刹那、目の前の光景が急激に変化し強い光に包まれる。


「えっ」


目を開けていられないほどの強い光にナナコは思わず光を遮ろうと目を隠す。

そうしてどのくらい経っただろうか。

恐る恐る目を開けばそこは先程の場所とは一転、どこかの公園のようだった。


「ここは…?」


見覚えのある。

そうだ、自分の家から会社までの道のりの途中にある小さな公園だ。

昼間は子供たちが砂場やブランコ、滑り台など思い思いに遊び笑い声の絶えない場所。

そんな子供たちを愛おしそうに見つめる母親らしき人物や、散歩をしている老人、この公園をランニングのコースに取り入れて走っている人。様々な人が各々の時間を過ごしている。

子供たちが遊ぶ遊具が設置されているのは茂みの中の一角で、茂みを抜ければ舗装されたレンガ調のタイルが敷き詰められている。

休日にここを通る時はよくランニングをしている近所の人々とすれ違ったものだ。

レンガ調のタイルのすぐ横には等間隔に並んだモダン風な柵が永遠とも思えるほど長く整列していて、その奥には太陽光を反射しキラキラと光る川が穏やかに流れていた。

別段綺麗というわけではないが、柵の近くに設置された木製のベンチに座ると、川の対岸の都会の街が良く見え、カップルや老人がよく座っているのも見かけた。

肺の奥に入る澄んだ空気と青々とした緑、心地いい水の音、子供たちの笑い声。

なんだかこの公園に来ると、少し勇気がもらえそうでとナナコは生前よくこの公園に足を運んでいたことを思い出した。

しかし今ナナコの目の前に広がっているのは水の音だけが嫌に大きく聞こえる、人の気配のない冷たく重い空気の漂う公園。

辺りは夜の闇に包まれ、設置された電灯には心もとない光を求め虫が集まっていた。

自分が知っている公園とは一変したその光景にナナコは足を踏み出すことが出来ず立ち止まっていた。

と、その時弱々しい電灯の下、ぽつんとたった一人でベンチに腰掛け川をぼーっと眺めている人影を見つけた。

ナナコは僅かな光を頼りに、目を凝らしなんとかその人物の顔を判別しようと見つめる。


「あれは…私…?」

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