野球好き (テーマ:スポーツ)
カウンター席でラーメンを啜りながら野球中継を観ていたら、いきなりチャンネルを変えられた。思わず睨みつける私を無視して、店主のオヤジは似合いもしない経済番組に見入っている。仕方ないなと諦めたその時、暖簾をくぐってきた中年の紳士がチラリとTVに目をやり、自嘲にしか見えない笑みを浮かべたのがなんとなく気になって、偶然隣の席に座った彼に何気なく「野球がお好きなんですか?」と声を掛けてみた。
「ええ。でも、私は野球を観ることができないのですよ」そう言いながら寂しげな笑みを浮かべる紳士は、ラーメンを食べながら奇妙な話を聞かせてくれた。なんと、彼はかつて内野手として甲子園への切符を手にしたことがあるというのだ。
「地区大会の決勝にはどうしても勝ちたくてねぇ、試合前日、神社へ行って真剣にお祈りしましたよ『神様、なにとぞ明日の試合だけは勝たせてください。私の野球人生と引き換えでも構いません。どうか願いを叶えてください』ってね。その甲斐あってか、試合には勝ちました。私も甲子園のグラウンドに立てるところだったんですけどねぇ」
ところがその直後、交通事故に遭った。甲子園どころか怪我の後遺症で野球すらできない体になったらしいが、それが勝利の代償だったということだろう。しかし、それで終わりではなかった。神様は徹底的に彼の人生から野球を奪っていったのだという。
「例えばTVで観戦しようとすれば今のようにチャンネルを変えられてしまったり、球場へ行こうとすれば大雨で中止になったり……家では野球嫌いの妻が絶対に観せてはくれないし、電気屋にいけばいきなり停電というのもありましたな。観ようとすれば必ず何らかの邪魔が入ってこの三十年間、私は一度たりとも野球を観ていない、いや、観ることができないのですよ。こんなことならせめて、甲子園で日本一になることを祈願すればよかったと幾度思ったことか」
まさか、そんなことが?だがここで私に嘘をつく必然があるとはとても思えない。もう一度だけでも野球が観たいという彼に、実は今週の日曜日、私が監督を務める少年野球チームの試合があるので観戦しに来ませんかと誘ってみたが、丁重に断られた。
「前にも知人にそう言って戴いたことがあったのですが……グラウンドに向かう途中の選手にトラックが突っ込んで、子供たちが……あれは悲惨でした。もう、あんな光景は見たくありません……」
それっきり無言でラーメンを食べ終えると、紳士は軽く会釈をして席を立った。彼の話の真偽は何ともいえないが、あまりにも寂しそうに見えるその背中に掛ける言葉が見つからず、私はただ夜の雑踏へと消え行く彼を見送ることしかできなかった。
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