山を降りる (テーマ:山)

「この山を降りる」という私の宣言は、村にちょっとしたパニックを招いた。村の誰もが一様に抱える『外』の世界に対する得体の知れない恐怖。それはもちろん私とて同じだったが、平和という名の退屈が支配するこの村で、このまま年老いていく事は何よりも耐え難いものに思われた。私はまだ若い。『外』に出れば輝ける未来を手にすることが出来るはずだ。日に日に募るそんな思いがついに恐怖を凌駕した時、私は山を降りることを決意した。話を聞いてすぐさま駆けつけてきた長老達の、長い時間を費やした説得も無駄に終わった。二度と戻ることは罷りならないという条件付きでようやく下山が認められ、私は僅かな荷物をまとめて、誰にも見送られることなく村を後にした。

 

 希望に胸躍らせながら、一歩ずつ吊り橋を渡る。ロープがギシギシと音を立てるたび背筋を冷たいものが駆け抜けるが、その先にある新しい世界への興味はその程度で挫けはしない。眩いばかりの希望に後押しされて、私は確実に歩を進めていく。

 だが、橋を渡りきった私を待っていたのは底知れぬ絶望だった。まるで津波の如く、私の脳裏にどっと蘇ってきた膨大な記憶。それは幾度となく繰り返されてきた『私』の人生の数々だった。金に困った親に売られた遊女の私は肺病に罹り、打ち捨てられて道端で野たれ死んだ。異国の少女だった私は責めてきた敵国の兵士に捕らわれ、拷問と陵辱の果てに生きながら焼かれた。また、ある武家の姫君だった私は人質として隣国に娶られ、座敷牢で狂死し、産まれたばかりの幼い私は精神を病んだ母親に首を絞められ……

 私は大声で叫び、頭を抱えてその場に蹲った。思い出した、思い出してしまった。いかなる業か、転生のたびに送ることになる、数多の悲惨な人生を。そうだった。私はそれから逃れるために、輪廻の枠を外れてこの山に入ったのではなかったか。私だけじゃない、あの村に住む誰もが同じだった。私達が恐れていた『外』の世界とは、苦痛と屈辱にまみれたあの永劫の地獄そのものだったのだ。

 

 よろよろと立ち上がり、引き返そうと振り返った。だが、すでに吊り橋はその姿を消していて、崖下を流れる急流がどうどうと音を立てて流れるだけ。そうだった、もう二度と引き返すことはできないのだ。なんと、私は愚かなことをしてしまったのか……

 どれほど悔いても、もう決してあの優しく暖かかった村に帰ることはできない。大いなる絶望に打ちのめされた私は、重い足を引き摺りながらとぼとぼと山道を下り始めた。

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