手 (テーマ:酒)

 吸い込まれるように9番ボールがコーナーポケットへ消えると川口さんはキューを置いて、タバコに火を点けながらバー・カウンターへと歩いてきた。濃い目に作った水割りを「サンキュ」と言いながら受け取り、対戦相手がラックを組んでいるのを眺めながらほとんど一気に飲み干してしまう。これで何杯目だろう?手元の伝票で確認すると、そろそろ二桁に達するところだった。

「それだけ飲んで、よくビリヤードなんてできますね」

 半ば呆れながら言うと、フフンと鼻で笑われた。

「飲みながら勝てるようになって、初めて一人前なんじゃねぇか? なぁ」

 客としてもプレイヤーとしても悪い人ではないのだが、鼻につくほど気障な物言いと、すぐに僕を子ども扱いするのが川口さんの欠点だ。もっとも、ベンチャー企業の社長の椅子に座る彼からすれば学生アルバイトの僕などお子様以外の何でもないのだろうけど。

「ファースト・エディみたいに酔い潰れて負けないで下さいよ」

 皮肉のつもりで言ってみたが、残念ながら効果はなかったようだ。まさか「ハスラー」を観たことがないわけではないだろうけど。

 しかし、店側としてみれば売り上げに貢献してくれるありがたい客であるのだが、さすがにここまでくると心配になってくる。飲みすぎて肝臓でも壊されれば僕も寝覚めがよくないだろうし、そろそろオーダーを断るべきだろうか……そんなことを考えながら、意気揚々とキューを構える川口さんを眺めていると、その肩口で白っぽい何かが蠢いているのに気がついた。いったい何だろうと目を凝らしてみると……驚いたことにそれは人間の手首だった。まるでショットを妨害しようとしているかのように、ちょうど川口さんが撞こうとするタイミングで、指輪を嵌めた細く長い指にグイッと力が入っている。事実、その手が出現した頃から好調だったはずの川口さんにつまらないミスショットが多発し、形勢は一気に逆転してしまったのだ。

「今日は切り上げるよ。ちょっと飲みすぎたみたいだからな」

 勝負が終わると、川口さんは照れ笑いを浮かべながらそう言い残して帰ってしまった。見送るその肩の上から、あの白い手が僕に向かって「バイバイ」と手を振っているのにも気付かずに……

 数日後、街で偶然川口さんを見かけたのだが、スーツの袖に腕を絡ませる綺麗な女性の細い指と、その指に輝く指輪は間違いなくあの夜に見たものと同じものだった。と、いうことは……なんだ、ちゃんと気にかけてくれる人がいるんじゃないか。心配して損をした、と思った。だったら気にすることもないか。店の売り上げのために心置きなくアルコールを提供させてもらうとしよう。なぁに、度を越せばきっと、またあの手が止めてくれるさ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る