腐臭 (テーマ:熱帯夜)
ボソボソと喋る女の声が聞こえたような気がして、夜中にふと目が覚めた。蒸し暑い夏の夜のこと、まとわりつくような湿気を帯びた空気の中に何故か肉の腐ったようなかすかな腐臭が混ざっている。臭いの発生源を探して部屋の中をぐるり見渡してみると、月明かりに照らされた部屋の中にあり得ないものがいた。壁に向かってうずくまる和装の女、である。泥棒かとも思ったがそれにしては様子がおかしい。じっとしゃがみこんだまま時折肩を揺らしては嗚咽を漏らす、女のその様子があまりに悲しげだったのでこの奇妙な状況にも関わらず「大丈夫ですか?」などと思わず声をかけてしまった。
その声に反応したのだろう、ピタリと嗚咽が止まって部屋には沈黙が訪れたが、しばらくすると女はくぐもった声で「忘れてしまったのですか?」とやや強い口調で呟いた。一方的にこちらを非難するようなその口調に僕は困惑し、多少の怒りを覚えた。忘れるも何も、こんな女に覚えはない。少し強めの口調でそのことを告げ、不法侵入を咎めると女はいきなりに立ち上がってクルリとこちらを振り向いた。
月明かりの中、露になったその顔は異形そのものだった。体に比べると頭が異常に大きく、全体が黒い毛に覆われている。頭部から伸びる二本の角と前に長く伸びたその顔はつまり、牛そのものだったのだ。しかもかなり腐敗していて、あちこちの崩れた肉から流れ出した血膿の中では蛆が大量に蠢き、ドロリと濁った眼球は今にもこぼれ落ちそうだった。そして見た目よりも凄まじいのが、吐き気を催す強烈な腐臭!恐怖と、生きながら腐りゆく者のおぞましさを目の当たりにして僕は絶叫した。
タオルケットを跳ね飛ばして僕は飛び起きた。もしかしたら本当に絶叫していたかもしれない。それほど生々しく恐ろしい夢だった。体内から蹴飛ばされるような動悸がようやくおさまると枕元のタオルで大量の寝汗をぬぐう余裕も生まれたが、そのおかげで恐ろしい事実に気付かされることとなった。まだ部屋の中に漂っているのだ、あの腐臭が。もしや、あれが本当にこの部屋に?恐る恐る部屋を見渡し……部屋の片隅に放置したままのスーパーの袋が目に入った瞬間、思わず失笑してしまった。すっかり存在を忘れていたあの袋、そういえばあの中には昨日買った牛肉が入っているはずだ。寝ている間、無意識に嗅いでいた肉の腐臭が僕にあんな夢を見させたのだろう。幽霊の正体見たり、だ。僕は自分の臆病さ加減と以外に豊かな想像力にあきれ返り、こみ上げてくる笑いをかみ殺しながら袋の口をきつく縛った上でベランダに持って出て、青いペールの蓋を開けた。
「ね、忘れてたでしょう……?」
ペールの中から僕を見上げる、腐乱した牛の頭がそう囁いた。
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