第2話

近江屋奥座敷


此処は飛脚屋近江屋の御隠居、先代の女将であるお鈴が暮らす奥座敷である。


「しんた、しんたぁ」

隠居所から間の抜けた声が響く。

その声を聞いて、女中のおとめは慌てて駆けつけて障子を開けるなり

「奥様イヤですよ私に言ってください。そんな大きな声ではしたない。」と声を尖らせた。

「嫌だよ、私はしんたと話がしたいんだ。早く表に行って心太を、呼んできておくれ。」


おとめに呼ばれた心太は、廊下の端に畏まって座ると

「お呼びですか」と神妙に声を掛ける。

「あぁ呼んださ。さぁこ昨日の話の続きをしとくれ。」

「へい。でもあっしは今からちょいとひとっ走り奉行所まで行って来なきゃなんねぇんです。」と申し訳なさそうに頭を下げて立ち上がろうとすると

「駄目だよ、しんた。文は他の者に持って行かせりゃあいいさ。さっ話とくれ」

暇を持て余してる女将さんの母親、つまり五朗平の妻で羽左衛門の末娘はガンとして心太を離さない。


奉行所から半刻で必ず帰って来て話の続きをするのでと、どうにか説き伏せて心太は急いで店に戻る。


先代の五朗平は、旅をした時や組合の集まり、飛脚達が拾って来た面白い話をいつも奥で女房に聞かせていた。

五朗平は話し上手で、なかなか外へは出られない女房を大いに楽しませていた。

その五朗平も鬼籍に入って早五年だ。

家督を娘夫婦に譲ったら大山詣りに行くという約束も果たさぬままに、逝ってしまったものだから、ご隠居様は長く長く伏せってしまっていた。

それを見兼ねた娘が、店の者に入れ替わり立ち替わり見聞きした話をさせたところ、心太の話が一等面白いと言って、よく離れに奉公に上がったばかりの丁稚の心太を呼んで話をさせているうちに床を離れることが出来たのだ。

まだ九つだった心太も、ご隠居様に可愛がられて親元を離れた淋しさを随分と慰めてもらったものだ。

心太は、正月も薮入りも帰るところが今は無い。

そんな時も離れに行ってご隠居様に話を聞いてもらうのだ。

歩き回れる様になったご隠居様のお供で、墓参りも行った。そんな時は、おとめと一緒に団子などを食べさせてもらったりするのだ、無下に今日は話はお預けですよとは、なかなか言えぬ。


心太は、奉行所に走りながら面白い話は落ちてやしないかと、辺りを見回すことも忘れなかった。



吉平長屋のおよね


先日、心太がご隠居様に語ったのは、吉兵長屋に住んでいるおよねに起こった話だ。


吉兵長屋の一番奥の厠の隣で、背には掘割というドン付きの所に、長屋のおまけみたいに小屋の様なしもた屋が建っていた。

随分と長いこと誰も使っておらず、侘しい空気が漂っている。

そのしもた屋が無ければ、堀からの風が抜けて、澱んだ長屋も少しはましになるのにねぇと、井戸端のかみさん達はいつも口にする。


古参のおよねだけが、空家に僅かな間だけ居た者を知っている。

「そりゃあ色白のめっぽう綺麗な人だったんだよぉう」といつだって何故か口をちょっと尖らせて言うもんだから、その顔を見て皆んなはまた始まったよとぐふふと口を押さえて笑うのだ。

こんな煤けた長屋にそんな綺麗な人がいるもんか。

長屋のおかみさん達はそう思っている。

それでも、およねが熱心に言うものだから、地主の妾じゃないかとか、大家の隠し子、はたまた大店の逃げた女房かと噂をして楽しむ。

およねに言わせれば、物腰や話し方が古風なものだったから、改易になった旗本の娘じゃないかと言うのだ。

世には御浪人がわんさかいるこのご時世だから、長屋に元武家のお内儀が居ようと珍しくもないが、それにしたってあの家じゃあねえと、のみの背比べの自分の住まいは棚に上げてのたまわる。


およねは言う。

「あたしが、亀吉を身籠もっていた時分だから、もう遥か昔の大昔の話だから細かなことは忘れてしまったけれど、そこのお内儀は時折梅柄の風呂敷包をこう抱えて、行って参りますと丁寧に私達にお辞儀をして出かけていくのさ。帰りに頂き物ですがと甘い物をくれたっけ。

あれは美味しかったねぇ。」


その美人は、ほんのいっ時居ただけで、およねが出産の為に深川で八百屋をやっている実家に帰っているうちに、越して居なくなってしまった。

およねは、もうあの美味しい菓子は食べられないんだなぁと残念に思ったのを覚えている。

歳の頃からいえば、およねよりも歳上だったからお内儀と思い込んで居たけれど、よく考えたら一人住まいで歯も白かったから、違うのかもしれないと、実はおよねは思っている。

およねも若かった、世間にも疎く、初めての子を身篭った時分で、自分の事だけで精一杯だったから、本当は余りよくは覚えて居ないのだ。


ところがだ、先日妹から間に合わ無いから助けておくれよと、綿入れのお仕着せの仕立てを一度に5枚も頼まれた。夜なべをして仕上げた明くる日に、大きな風呂敷包みを背負って妹の宿まで歩いていると、白く輝く様な綺麗な女の人が橋の向こうからしゃなりしゃなりと歩いてくるのに出くわした。

この世には綺麗な人が居るもんだ、何処のお武家の奥方か、御殿お女中なのかと疑って、お供も無しで風呂敷まで自分で抱えて珍しいと、目に留まった風呂敷の柄に、およねは見覚えが有った。

藍染に白抜きの梅の柄。

ふと目をあげてよぉくお顔を拝見すると、「あっ」よねは思わず声を上げて、「あの美人のお内儀だ。」そう即座に思って立ち止まった。

目が合う前によいこらしよっと背の荷物を引き上げて直しながらおよねは、目線を下げて道の端を見た。

なんだか、どきどきとして何故か気付かないでおくれと心で祈る。

でも、よく考えてみればあれから何年も経っているのだ。

亀吉だってもう十八になるのだから、あの時のお内儀が昔のままの白く輝く顔であるはずが無いじゃないかいと思い直して、およねは顔を上げて前を向くと、その内儀がふっと微笑んでおよねを見たのだと言うのだ。

声を掛けるわけでもなくお内儀はかつかつと下駄を鳴らして行ってしまった。およねはその後ろ姿をぼぅっと見送ったそうだ。


と、ここまで話したところでおとめが夕飯を持って来きたので、話は仕舞になっていたのだ。

ご隠居様は、この先が気になって気になって夜もろくろくれなかったと言うけれど、おとめはご隠居様がくぅかぁくぅかぁと心地よく鼾をかいていたのを知っている。

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