第41話 しんじつ

 笠隠神社の氏神から瓶子を預かり、治人に自宅のマンションまで送ってもらった。

 別れ際の不安そうな彼の顔が忘れられない。今更だけど木曽の水神との契約を少し後悔している。こんな辛いことになるとは思わなかったから。

 鍵を開け部屋を通り過ぎ、そのままベランダに出る。風は冷たい。でも、空気は澄んでいた。遠くに治人の病院の明かりが見える。総合病院に併設された完全介護の治療施設。この二日間は行けなかった。明日は仕事の前に顔を出そう。


 里原さとはら記念病院。並んだ近代的な構造物。大きな敷地の端にその建物はあった。ベージュ色の外壁。特別な患者専用の病棟。

 人が多く出入りする外来とは反対側に位置していて、周りの植樹も多く静かな場所。入口にある小さなエントランスを抜け、エレベータで上がる。

 エレベータホールの横にあるカウンター越しに、ナースステーションの看護師さんと挨拶を交わす。顔馴染みというか、私のことを知らない人はいない。そのくらいここに通い続けている。幸島のおじさんが亡くなった時は、皆心配して声を掛けてくれた。

 フロアの突き当り、一番奥に病室はある。

「――おはよう、治人」

 いつも通りに語り掛ける。カーテンが開けられた窓から、柔らかな日差しが床に反射していた。殺風景にならないように、絵や置物を私の趣味で飾ってある。

 壁際に置かれたベッドの上に治人が横たわっていた。バイタルチェック用の機材が横に置かれ、微かな信号音を発している。

 昏睡状態とは深昏睡しんこんすいともいわれる意識障害。植物状態や脳死ではない。外からの刺激には反応しないけど、自発的に呼吸循環器系は機能している。いろいろな治療を施してはみたものの、未だ症状回復の兆しはない。

「今日は顔色いいわね……」

 彼の顔を覗き込む。ちょっとやつれている。でも、髪も定期的にカットしてもらっているし髭も剃っている分、見た目はただ眠っている人。

 私は看護用のパジャマを着ている彼の手を取る。もう一人の治人に比べ腕が細い。運動なんてしていないので仕方ない。いつもはもっと一方的に喋り倒すのだけど、今日は言葉が出てこない。椅子に座りベッドに両肘を着き自分の額に彼の手を押し付けた。

 八年もこうやって見守り続けているのに……彼を目の前にしても、気持ちの整理はつかなかった。


 長良川でオオサンショウウオと出会い、幸島のおじさんが亡くなったあと、違う世界線の治人が現れた。それが世のもつれ。時間に限りがあったとしても嬉しかった。

 私のわがままだったけど、十分に長い時間を治人と過ごすことができた。すのりとかおれだっていた。いつ元に戻ったとしても幸せな想い出を胸に、ここにいる治人を支え生きていくのだと心に決めていた。

 瓶子とコンビニで買ったお酒はバッグに入れて持ってきている。それを使えば、治人は今にでも目を覚ます。そして、世のもつれもここで終わり……迷うことではないはずなのに、私の中で渦巻く身勝手な感情。分かりやすいものだった。

 目覚めた治人が梛乃のことを知り悲しむのは当然の流れ。時が止まっている彼にとっては、現在進行形で付き合っている彼女の死。彼はどう考え、私に対してどう思うのか。梛乃の死の原因は私に他ならない。

 世のもつれが起こしている現状のように、都合よく現実がつくられたりはしない。治人の私への気持ちがどんなものであっても、彼が私を受け入れることはできない。そして、私から離れて行く。

 本来望んでいたことなのに、現実と向き合うのか怖くなった。私は治人のためと言いながら、結局は自分勝手に生きてきたんだと思い知る。だけど、自己嫌悪の極致にあっても治人への未練が邪魔をする。最低な私。

 世のもつれに際して『心の整理』とか『乗り越える覚悟』が必要だと言われたことを思い返す。まさしく、これがそうなのね。

 長良川の解禁で、治人の前にオオサンショウウオが再び現れた時から流れが変わっていた。はっきりしたものはなかったけど、すのりとかおれが神使になって、世のもつれの終わりが近付いてきている予感はあった。

 笠隠の氏神としてオオサンショウウオに再会した時も、知らないふりをしてやり過ごしてしまおうともした。

 それなのに、まさか最後の鍵が私に託されるなんて。いっそ、このまま――

『――珠乃ちゃん』

 ふと、懐かしい声が鼓膜を掠めた。

「えっ」

 閉じていた目を開けたが誰もいない。それは内なる部分から響いていた。

『珠乃ちゃん……』

 闇落ちしそうな感情が押し戻される。

『……君はちゃんと自分の人生を歩まなきゃダメだよ。過去に縛り付けられたままでは、治人も喜ばないから……』

 息が詰まり胸が苦しくなった。いつも優しかった幸島のおじさんの声だった。

 目がしらに熱いものを感じたけど、振り切って天井を向く。ぐっと奥歯を噛み締め口角を無理に上げる。

 再び視線を落とす。穏やかに眠る治人の顔があった。軽い吐息が口から抜けた。

「……そうだね、どうしちゃったのかな私。幸せ過ぎて、きっと馬鹿になっちゃったんだね。おじさんのやさしい言葉も突っぱねて、ずっとやってきたのに……それなのに、このままなにもせず、成り行きに任せようかって思っちゃってた……」

 ねじれ曲がってしまった感情を修正する。幸島のおじさんの言葉から自分の貫いてきたものを思い出した。眠っている治人を助ける。それが、私本来の決意。

「ありがとう、おじさん。でも、ごめんなさい。やっぱり、私は人の言うことが聞けないみたい……だから、まずはけじめをつけますね」


 その日の夜。私は治人の家を訪ね、これまでのすべてを明かした。

 夕方から降り始めた雪が庭を白く覆っていた。居間の畳の上に置かれた座卓に両肘を着いて俯く治人。私は向かい合って座っている。一方的な説明をして治人の言葉を待った。

 二人が今こうやって顔を合わせているのは、世のもつれという現象によるもの。二つの世界線が絡み合ってできている。治人と再会する少し前に、笠隠の氏神を通じて木曽の水神と私が契約を交わしたのが原因。多分、幸島のおじさんが亡くなったことが基点となっている。

 私は梛乃ではなく妹の珠乃。こちらの世界線の梛乃は高校二年の夏、水の事故で亡くなっている。治人も同じ事故の後遺症で昏睡状態のまま八年を過ごしている。事故は私がキャンプ場の川で溺れ、二人が助けに入って起こった。私だけ無事だった。

 幸島のおじさんは、回復を信じて治人を愛知の特別な病院へ転院させ、自分も移り住んだ。

 私は大学進学を機に愛知へ来てそのまま就職。以来、昏睡状態の治人をおじさんとずっと見守ってきた。それは今も変わっておらず、気付かれないようその病院へ通っている。

 梛乃と偽っていたのは彼女の死を隠し、最初は不安定だった治人をこの世界に留めておくための嘘。世のもつれを維持することを優先した結果。すべては私の身勝手な想いからきたもの。私のわがままに治人を巻き込んだだけ。

 そして、今度は瓶子を使ってもう一人の治人を目覚めさせようとしている。そうなれば、バランスが崩れ世のもつれがほどける。つまり世界線の絡みが解消され、この関係が終わる。そうでなくても刻限は近付いていて、結果は変わらない。


「うーん……そうか」

 顔を上げた治人が重々しく唸った。長い沈黙のあとだったけど、表情は予想より落ち着いていた。もちろん納得した様子ではない。私がついてきた嘘は、今の関係を根本から否定するものなのだから仕方がない。しかも、今更だし。

「実はさ、俺もいろいろ考えていたんだ……でも、想像の遥か彼方になったな……正直、混乱してる」

「うん」

「驚く話ではあるけど、最近いろいろあり過ぎたからな。免疫が付いているというか、なんというか……」

「……うん」

 私はその場しのぎの相槌を繰り返す。

「この現象は、父さんの通夜で出会った時から始まっているんだよね……だとしたら、俺は全く違和感がなかったから、こっちの世界線に俺だけ、もしくは俺とその関係のある世界線だけ取り込まれたってとこかな……」

 治人がこの突拍子もない話を肯定的に捉えていることに驚いた。

「すのりとかおれのことも関係があるのかな?」

「はっきり分からないけど、多分……」

「……だよね」

 治人はありえない話を真面目に考えてくれている。

「……この話を信じてくれるの?」

「ああ、信じる。かなり驚いたけどね……」

「どうして?」

「うーん。だって、こんな面倒な告白してるからさ」

「……」

「結果が決まってるなら、なおさらのことだよ。さっさともう一人の俺っての、を救って、この世のもつれってやつを終らせてしまえばいいだけだよね」

 確かにその通り。

「……だよね」

 私は不自然に明るい治人のテンションに引っ張られ苦笑してしまう。でも、彼は次に真剣な眼差しを私に向けた。

「はっきり言って、俺にとって奇々怪々な話はどうだっていい。君が珠乃であろうと、俺の知らない世界線の梛乃が亡くなっていようとね。実際……実感ないしね」

「……」

 私は治人の態度に困惑する。

「でも、つまりはさ。これ、別れ話をされてるってことだよね。それ以外のなにものでもない」

「……」

 頭には謝罪しかなかった。思いもよらぬ方向に言い切られて、私はますます閉口する。

「これはしんどいよ……しかも、ライバルが自分って、どうなの? 男冥利に尽きると考えるべきなのかな」

「……治人」

 痛感した。けじめをつけるつもりが、私の未練を治人に押し付けただけに過ぎない。本当に酷い女だ。彼の気持ちをないがしろにして、自分だけ楽になうとしていた。

「いや……言い過ぎた、ゴメン」

 治人は軽い吐息を吐く。

「治人が謝ることじゃない……悪いのは私」

 居間に漂う空気がどんよりと重くなった。今までこんなこと一度もなかった。

 彼との関係を自分で作って自分で壊している。独りよがりだと思い、更に嫌気がさす。でも、逃げ出すことはできない。

「そうか……珠乃ちゃん……か」

 治人は少し沈黙したあと、合点したように呟く。

「えっ」

 唐突に名前を呼ばれた意図が分からず、私が小首を傾げると治人は微笑していた。

「あの時……うなぎ屋での、ちゃん付けのやり取りを思い出したよ……」

「……うん」

 あの時、些細なことに嫉妬していた自分が恥ずかしくなる。私は俯いた。

「確かに、他にも思い当たるところはあるな……まあ、最初に間違えた俺が悪いんだけどね。あんなに大人しかった梛乃が、凄く活発で明るくなってたからね……いや、嫌みじゃないよ。俺はそれも含めて好きになったんだしね」

「えっ……」

 単純に「好き」という好意の言葉につられて私は顔を上げた。治人は明るく振舞っている。でも、その優しさが私にとっては辛い。だって、結果は決まっているのだから。

 私の気持ちを知ってか知らずか治人は続ける。

「さっきから、巻き込んだ自分がすべて悪いみたいに言ってるけど。どうであれ、俺は君に出会えて嬉しかったよ。再会してから今までとても幸せだった。途中からすのりやかおれも一緒になってさ。

 父さんが死んでショックたっだけど、そこからこんなに楽しい毎日が遅れるなんて思ってもみなかった。偽りがあったとしても、それを与えてくれたのは目の前に居る珠乃だよ」

 治人の気遣いなのは分かっているけど、珠乃として認識されたことにはかない喜びを覚える。

「……珠乃はどうなの?」

 口に出すまでもない。私は正座した膝に両手を押し当て頭を垂れた。それを言ったら決意が狂ってしまう。

「でも、よく頑張ったね」

「えっ?」

 私は瞠目して視線を治人に戻した。彼は柔らかい表情で私を見る。

「いや、俺が言うものなんだけど……聞いた話から、珠乃の歩んだ今までを想像したらさ……想像なんてできてないんだけど。でも……想像したらさ……きっと、苦しくて辛かっただろうと思ってね……だから、よく頑張ったなって言ってあげたい」

 全身がじんわり震えた。その言葉だけで十分だと思うほどに心が満たされた。私が最も癒されたい部分を治人が理解してくれた。気持ちの揺らぎが治まらない。

 私は畳の上を膝でゆっくり進み治人の背後に回った。両腕を彼の胸元へを滑り込ませ、首筋に頬を当てた。治人はなにも言わず受け入れてくれた。これが最後の甘えにしよう。頬に涙が伝っていた。こんなわがままな私を正面から見られたくなかった。

「……私も幸せだった。終わってしまうのが怖い。でも、もう一人の治人を助けなければならないの。私はそのために生きてきたの。だから――」

「でもさ、瓶子を使う前に言ってくれてよかったよ。ありがとう」

「……え?」

 その反応に驚いた。彼は私の腕を包むように抱いていた。温もりが伝わる。

「君らしくない……そう、珠乃らしくないよ」

「……」

 私の気持ちと正反対に、治人の声には一抹の不安も感じられなかった。

「だって、もう諦めているからさ。俺の知っている珠乃はいつだって一生懸命で前向きだ。違うか?」

「だけど――」

「今回ばかりはどうしようもないって? そう、確かに困難かもしれない。神々が関わっている想像を超えた現象で、もう一人の俺を助けるとこの世のもつれが終わる……でも、そんな選択肢しかないと?」

 彼は異論を許さない。横顔から熱意が伝わる。

「……」

 私は治人の言葉に微かではあるが希望を感じてしまった。

 彼は私の腕を解くと正面に向き直した。そして再び私の手を取って強く握る。そこには、私の決意を吹き飛ばすくらい自身に満ち溢れた治人の顔があった。

「冗談じゃない。こんな幸せを、なにもせずに放棄するなんてありえない。だから、最後まであらがうんだよ」

「抗う? でも、どうやって?」

「大丈夫だ。きっと道はある。俺はあきらめない――」

 不意に居間の襖が勢いよく開いた。

 驚いて視線を向けた私と治人。ほっそりした素足が四脚並んでいた。ショートパンツ姿の美少女が二人。仁王立ちで私たちを見下ろしていた。

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