第40話 はると
長良川でオオサンショウウオと出会った不思議な体験から二か月ほど後のこと。治人の父親である幸島のおじさんが倒れて亡くなった。急性心不全。なにかが起こるとは予測していたけど、こんなことになるなんて。
おじさんは私にとって、もう一人のお父さんだった。
事故の後、治人が愛知の病院に移送され、岐阜に残った私は一心不乱に勉強に励み愛知の大学に進学した。それは、治人を追い駆けるため。両親は心情からきている私の行動に心配し反対した。自分の人生まで犠牲にする必要はないと。それだけでない、もう一人の娘までいなくなることを淋しがるのは当然だった。
だけど、私の意志は固かった。決して一時の気の迷いではないと説得。前向きになっている自分を見せ、私が事故を乗り越え生きるために必要な選択肢だとも言って。最後は両親を説き伏せた。
大学卒業後も愛知で就職。時間をつくっては治人の病院とおじさんの家に顔を出すのが日常となっていた。おじさんにはとてもお世話になったし、本当の娘のように可愛がってもらった。私の行動と頑固さには呆れていたけど、いつも私のことを気に掛けてくれていた。
だから、この喪失感をあれのせいだとは思いたくなかった。期待して待っていたのに。あれとは無関係。世の理は変えることができないという言葉を信じるしかなかった。
それに、残された治人はおじさんの代わりに私が支えなければならない。私の意志は以前より強くなった。
複雑に渦巻く私の感情。そんな時、それは突然現れた。
『――梛乃?』
幻のような存在が私を呼び止めていた。おじさんの通夜。斎場の入口での出来事。私の顔には自然と笑みが浮かんでいた。世がもつれだしたことを理解した。
通夜の後、葬儀の際もそれは度々起こった。透き通った幻影。影もない。しかし、紛れもなく治人だった。私の前に時折現れては消える。知らない人にとっては間違いなく幽霊。でも、他の人には見えていない。
私の心は弾んだ。けど、治人の幻影は私に『梛乃』と呼び掛け、笑ってみせると消えていく。双子だし昔の姉のみたいに髪を伸ばしているので、そう思えたのかもしれない。私は梛乃ではなのに……喜びとは裏腹に寂しくて悲しくなった。
だけど、私が珠乃だと言ったら、梛乃がここには存在しないと知ったら、彼は消えてしまいそうで。だから、彼が梛乃を求めているのなら、私はそれで構わない。複雑な感情を押し殺し胸に仕舞い込んだ。
そして梛乃の代わりをすることも、事故への贖罪だと考え私は受け入れた。それに、正直に言えば、どんなかたちであれ彼と一緒にいたいと思ったのは本音だから。
四十九日の法事の頃になると、簡単な会話が出来るようになっていた。
久しぶりに会った異性の幼馴染として意識しているみたいで、若干照れ気味で徐々に距離を詰めてくる治人の幻影。普通の男の子と変わらず、ちょっと面白かった。私は逃げたりしないのに。
オオサンショウウオの主神が言っていた、治人が無事な世界線と私の世界線がつながりだしていることは確かだった。世のもつれというものらしい。
その後も仕事終わりや休日に、おじさんの家で遺品の整理をしていると必ず現れた。もう普通の人と変わりなく話ができたし、携帯の連絡先を教えるとメールがちゃんと届いて驚いた。世のもつれによる異質な世界線が徐々に構築されている。とても不思議な現象だった。
『――ずっと手伝ってもらって悪いね』
「ううん、そんなことない。気にしないで」
『通夜の時から駆け付けてくれた鷹宮のおじさんとおばさんにも、改めてお礼を言いたいな』
「大丈夫よ、私から伝えておくから」
『そう?』
「ええ」
『……その、梛乃は今どんな仕事してるの? ああ、俺は大学出てからね――』
話を聞く限り、やはり彼の中に事故の事実は無い。愛知には父親の仕事の都合で引っ越したことになっていて、大学を卒業したあと就職して今は会社員だという。この家から通勤しているとも言い出した。
世のもつれは治人と現在関りがある人に限定しているようだけど、私の家族を含め私たちの過去を知る人物との接触は避けなければならないと感じた。お互いの世界線の境界が何処なのか、そもそも境界があるのかすら分からないのだから。
もちろん、こっちの世界線のもう一人の治人のことは絶対に知られてはならない。私が珠乃たどいうことも。
そして、この時くらいから世のもつれは一気に加速する。治人は幻影ではなくなり影もできた。彼の私物も実体化し、おじさんの家は治人が住んでいる状態になった。
困ったことに、家具が変わってしまうような物質的な変化は治人の幻影を見るよりはるかにリアルで、私は平衡感覚を失うと同様なストレスを受けた。
でも、調子の悪い顔をしようものなら、治人はとても優しく気遣ってくれた。高校生の時はこんなにスマートな感じてはなかったと思う。治人も彼の世で成長して大人になったということなのかな。
治人が他人からどう見えているか分からないけど、実際に会社に通っている様子。その会社は実在し、
ここまで複雑になると世のもつれがどうなっているのかなんて把握するのは無理だった。私はもう細かく考えるのを辞めた。もともと不確定な世界。身を任せることにした。
そして、週末の今日。私は治人の家になったおじさんの家に来ていた。
とても落ち着く好きな場所なのだけど、おじさんが居ないと思うと寂しい。平屋の日本家屋で瓦屋根。庭に面した縁側があるノスタルジックな造り。襖に畳の部屋ってのもお気に入り。
お昼を家で一緒に食べないかという治人のお誘いに応じのだけど、通い慣れて勝手知ったる家なのに、治人が住人になったとたんガラリと雰囲気が変わった。私は少し緊張している。
しかし、それとは別に異変に気付く。治人の様子がおかしい。どこかそわそわしている。私は焦った。なにか余計なことをしたのではないかと考えた。でも、思い当たる節はない。ともかく彼の仕草を目で追った。心配になった。このまま消えてしまったらどうしようと。
居間に案内された途端、治人が私の顔を覗き込んできた。いろんな意味でドキドキが止まらなくなる。
「……梛乃、どうしたの? 気分とか悪い?」
「いえ、大丈夫。別に、なんでもないよ、元気元気!」
若干声が裏返る。逆にこっちの動揺を見透かされていた? 焦った私は不自然に取り繕ってしまう。
「……そう、ならいいけど。お昼どうする? ここが嫌なら、外食とかでも」
「ううん。ここがいい。私、作るよ」
二人で居たい。その方が嬉しい。
「いや、俺が誘ったんだから、俺が」
「じゃあ、一緒に作ろうよ」
私から誘う。
「……そうだね」
「うん。じゃあ食材、なにかあるかな?」
「そうだな……」
「ああ、確か棚に――」
しまった。私は遺品整理の手伝いをしたくらいで、この家のことは殆ど知らない人なのだった。
「……棚に?」
小首を傾げる治人。
「いえ、なんでもないです。気にしないでーっ!」
無理やりおどけ顔で押し通す。すると、つられるように治人が笑った。
「でも、梛乃ってさ、昔より明るくなったね」
「え、そうかな」
「うん。もっと大人しい感じだったよ」
そう、私と梛乃は対照的だった。そうなるのか。込み上げるものを抑えながら誤魔化す。
「だった……かな」
「でも、そんな梛乃も悪くないよ」
「なにそれ。上から目線の評価ね」
素直じゃない自分。梛乃のように振舞うのには無理があるのかな……
って、あれ。治人が私をじっと見ている。え、なに?
「梛乃って、今付き合っている人ってか……彼氏はいないんだよな」
「はい……はい?」
二度返事をしてしまう。後ろの方の語尾が上がっていた。連動して胸の鼓動も跳ね上がる。これは、もしや……
「う、うん……い、いないけど……」
「その……さ……」
もどかしい時間が流れる。
私は梛乃を演じているわけで、治人と梛乃の関係性も忘れてはいない。彼の世界線でも二人がつき合っていたことは窺い知れた……とはいえ、この展開は早すぎると思う。まだ、お昼も食べていないし……じゃなくて、再会してそんなに日も経っていないのに。こっちが驚くよ。そんな積極的な男子に成長していたなんて。
居間で棒立ちになった二人。治人と見つめ合っていると彼が手を差し伸べてきた。
「梛乃、俺とまた付き合ってくれないか?」
心の整理なんてできていない。けど、こうなることは予想していたのかも。手を取ることは梛乃を裏切る行為になるのかもしれない。でも、気持ちを抑えられなかった。ずっと夢見ていた世界が、ここにあるのだから。
私はゆっくりその手を取った。
「うん、いいよ」
治人は驚いた表情で固まっていた。ぽかんと口が開いたままって。自分から言い出しておいて、その反応。断られるとでも思っていたのかな。そんなわけないのに。私は治人が好きなんだよ、誰よりも。
その時、周囲の風景が一瞬で塗り替えられた気がした。現実なのか錯覚なのか。さっきまで不安定だった世界が定着したような感覚。世のもつれが完了したということなのかな。でも、それもひと時のもつれ。
珠乃なのに、梛乃として彼を受け入れた。本当は迷いなどなかったのかもしれない。私は悪い女だ。
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