第38話 たまの その1
岐阜県関市。長良川の鵜飼観光ホテル前。通称「
釣り人で賑わった日中の喧騒も今はもうない。イブニングライズのお祭りも終わり、大きなプールを覆っている水面は静まり返っていた。私は岸際の大きく平らな岩に腰を下ろし、安穏とした気分で下流を見つめている。
視線の先には、長良川に掛かる鮎之瀬橋とその袂に沈みゆく夕日。河原全体が赤く染まっていた。漂い始めた冷気とは対照的に、一日の終わりを告げる光線はとても暖かく私を包んでいる。
「綺麗……」
長良川の解禁を迎えるのは何度目かな。指折り数えるほどでもないのに、この釣りを始めてからとても長い年月が過ぎたみたいに思う。彼が好きだった釣りをいつかは一緒に、という願いから始めだけなのに……
ふと気付く。目尻からこぼれ落ちた滴が頬を伝っている。なぜだか分からなかった。悲しさも辛さも喜びも感じていないのに。涙が溢れて止まらない。幸い周りに人は居ない。自然に出るものは仕方がない。拭うことなく放っておいた。
時折、水面を這うように流れてきた風が、栗毛色の髪をやさしく撫でる。姉をまねて伸ばした髪も、今は違和感ないほどに慣れてしまった。
涙を流しているのに心地良い。変なの。いつもの釣りの、いつもの情景なのに。理解できない感情に浸っている自分がいた。
今は深く考えず、この心に
『――おい、お主よ』
声ではないなにかが、頭の中に響いた。
気配を捉えた足元をゆっくり見遣る。岩に接する水面に陰があった。それは黒く長い平らな物体。凝視すると横から小さな手が生えている。
その両生類を知っていた。特別天然記念物のオオサンショウウオ。こちらに向かって岩に寄り掛かり、顔だけ水面から出して私を見ていた……多分。
半眼で観察してみる。かなり大きい。以前、釣りの際に小さいのは見たことがある。でも、これは1メートルを超えている。このサイズはさすがにインパクトがあった。ここの主とかかな。
スマートとは言い難い個性的な顔。眼はどこにあるのかと探したけど見付からない。
「……ま、いっか」
興味はそこで尽きた。再び夕日に視線を戻す。
『これ、これ……無視するでない』
再び聞こえた声のようなもの。おかしい。やっぱり頭に直接伝わってくる。私は、もう一度オオサンショウウオを見てから視線を周辺に移す。
『おいおい、わしじゃよ。ここ、ここにおるやろ。つれないのう』
本当にこれらしい。冗談のようだけど間違いない。音声ではない声の主は目の前のオオサンショウウオ。しかも愚痴っている。妙なのに絡まれてしまった。
「はいはい。なんですか?」
仕方ないので淡泊に返す。とても投げ遣りな態度に反して、オオサンショウウオは声を弾ませた。
『ほう。お主はちっとも驚かんの。もしやと思ったが、やはりこっちのことを少しは知っておるようじゃな』
なにを言いたいのかは理解した。しかし、あまり関わりたくはない。ささっと話を済ませ、お引き取り願おう。
「まあ、そうね。実家が神に仕える
もう一度、オオサンショウウの顔を覗き込んでみた。やっぱり眼が見付からない。
「でも、ここまではっきりした体験は初めてよ」
『そうか、なるほどな。だが、そうとはいえ肝がすわっておる』
私は鼻で笑った。
「そう? いろいろあったから、強くなったのかもね」
夕日の眩しさに目を伏せる。
『いろいろか……』
オオサンショウウオは私に向き合ったままじっとしている。なんだか見透かされている感じ。なんなのよ一体。
『ほう……お主は相当なものを心に抱え込んでおるな』
一拍置いて言われた。
「へえ、分かるんだ。さすが神さまね」
『そんな悲しくも美しい涙を流しておるのに、隠すことはできんよ』
「……切ないこと言うのね」
『違うのかのう?』
「ええ、違うわ。さっきのは今日までの感謝と、明日からの希望に捧げる涙よ。悲観した感情からではないわ」
オオサンショウウオは『ふっふ』と笑った。表情が無いのに、口角が上がったように見えた。
『なかなか、面白いことを言う娘じゃな。わしはその捧げ物で釣られてしまったわけだ。さすがは釣り師だ』
「そうね。今日はあまり釣れなかったから、最後に大物が掛かったってところかしら」
微笑んだ私を見て、先ほどより気を良くした様子のオオサンショウウオ。
『ふむ。それでなぜ、わしを神と呼ぶ?』
「なんでだろ? 小さい時から、そう教わってきたから? 良く分からないものは神さまだと思えって」
『妖怪や
「妖怪? 魑魅魍魎? 違うわね。あなたから悪いものは感じない。私、結構センスあるのよ」
『むむ。その若さでたいしたものじゃ。やっと見合う人間に出会うことができたわ』
「はい?」
小首を傾げた私へ向かって、オオサンショウウオは一歩前へと乗り出した。岩肌に水を
『どうじゃ。神の下で働いてみんかの? お主には才がある』
私は訝しみながらも、一応答える。
「働く? なにこれ、リクルートされてるわけ? めっちゃ怪しいんですけど」
『これこれ、神を疑ったりしてはいかんの』
「いや、この状況でその台詞。無理があるでしょ」
と言いながらも、私は喉から吐息を抜いた。神さまからの依頼となると、無下にはしづらい。
「まあいいか……で、あなたの下で働くって、どういうこと?」
『いいや。わしではない、木曽の
私はこめかみを押さえた。違う神さまが出てきた。それなりに大御所っぽい。しかも、仕えろだなんて。
「意味が分からないわ、巫女にでもなれと? それとも眷属っていうのかしら、狐とかがなるやつ?」
ちょっと呆れた。あしらい加減で茶化すと、声のトーンを落としたオオサンショウウオ。口調に変化があった。
『そういうものではない。
軽い苦笑で返す。
「まあ。面白そうではあるけど、悪しからず。そんな従属的なのは嫌よ。ずけずけと私の心に入り込まないで……それに……いいの、気にしないで」
冬特有の巻雲が夕日でオレンジに染まっていた。私は空を仰ぎながら胸に手を当てた。
「この中にあるものは、一生背負っていくって決めてるから。さっきはあんなとこ見られちゃったけど、その気持ちは揺らがないわ」
個性的な神さまは、暫し私を眺めていた。
『……それもよかろうが、お主は良くてもあの男はどうじゃ?』
私は奥歯を噛み締めた。ペラペラと喋って、本当に節操の無い神さまだわ。
「あのね。いい加減にしてくれないかな。心の中を根掘り葉掘り覗くのはやめて。彼のことは、どうしようもないのよ」
『ふむ、決意は大したものじゃが、お主ができぬとも神ならできることもある』
今生きている私にとっての根幹を、そんな風にさらりと言われて腹が立った。
「嘘ね! 私だって十分考えたし、いろいろ試したもの。だけど、あなたのような神の力を借りたとしても、世の
『……確かにそうじゃが、世というのもはお主が思っているより複雑なのよ。いや、曖昧といったほうがいいかもしれん』
私の苛立ちとは対照的に、ことさらオオサンショウウオの声が穏やかになった。その言葉につられる。
「……複雑? 曖昧?」
『だからの。こっちの世があれば、あっちの世があり、そっちの世もあるってことよ』
「なにそれ、どういうこと?」
『世の理というのは、それぞれの世の理ということじゃ。無理に変えることはできん。じゃが、変えなくとも、お主の願いが少しは叶うかもしれんよ』
「……どうやって?」
からかわれているのか? 訝しみながらも、もしかしてと思った。
『詳しいことは企業秘密じゃ』
「……」
私は腰を浮かした。
「――帰るわ!」
オオサンショウウオは首を小刻みに振った。
『待て待て、冗談じゃ。なんとういか、理屈では解釈できんことよ。ともかく神に仕えれば、機会がそのうち巡っくるのじゃよ』
「……じゃあ。そのうちって、いつよ」
『そのうちじゃ』
「……」
私は再び腰を浮かした。
「――帰る!」
この生き物は面倒くさい。出会わなかったことにして、このまま置いていこう。
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