第37話 ごほうび

『黙っておるが、お主とは随分久しいのう』

 笠隠の氏神は、梛乃に向かって語り続けた。

「……」

 彼女は反応を示さない。俯き加減で口を噤んでいた。

 「随分」に引っ掛かりを覚えたが、そこは飛ばして俺なりに解釈する。解禁の時、すのりやかおれと一緒に車に居合わせたから、梛乃も把握しているのか……でも、人の彼女を掴まえて、瓶子を貸すってどういうことだ? 意味不明な。ほら見ろ、怖がっているじゃないか。

『やはりの。なにも話しておらんか……まあいい。その瓶子はな、病をいやす力があるのよ。お主はそういものを欲しておるのじゃろ?』

 すると、ゆっくり顔を上げた梛乃。驚愕とまではいかないが、驚きを隠し切れない表情をしていた。俺を一瞥したあと氏神を凝視する。口からぽつりぽつりと声が漏れる。

「……本当……なの?」

『そうじゃ。それはどんな病も癒すことができる……お役目を果たすと願いが叶えられると聞いておるやろ。今回はそれじゃよ。木曽の水神も承知しておる話よ』

「世のことわりは変えられないんじゃなかったの?」

『うむ。そうじゃが、死んでおるわけじゃないからの。こんなはからいは特別じゃよ』

 梛乃は喉を鳴らし大きく深呼吸した。

「そうね……世というのは本当に複雑で曖昧なのね」

 俺の手にある瓶子を見遣って手を伸ばし、そして止まる。

「……これ借りても、いいのね」

 なにを言っているのかな、梛乃さん。軽く流すつもりだった俺の心に戸惑いが湧き始める。

『瓶子が戻るのが少し遅れたところで、今更大した問題ではない。わしがいいと言うておるのじゃから、長良の水神も大目にみてくれるよ』

「そう……」

 落ち着きを取り戻したのか、梛乃は気持ちを切り替えたように表情を変えた。目を細める。

「……騙して、ないわよね」

 梛乃は声のトーンを落とした。氏神は黒光りした体を微かに揺らす。

『ほほ。相変わらずじゃの、そんなことはせんよ』

 梛乃は更に深呼吸してから、念を押すように訊いた。

「つまり、これって……私の願いが叶うってことでいいのよね?」

『そうじゃのう』

「そのあとは、どうなるの」

『世のもつれは自然とほどけるじゃろうな』

「……そう、唐突なのね……どうするのがいいのかなんて、心の整理もまったくできていないのに……」

 すると、梛乃は自分の顔に両手を押し当てゆっくり屈み込んでしまった。栗毛色の髪が肩を滑り地面に向かって垂れ下がる。表情はうかがえないが、俺が知らないなにかに苦悩しているのは明らかだ。

 すのりとかおれも予想外の展開だったろう、困惑気味に顔を見合わせている。もちろん俺はそれ以上だ。呆気に取られ聞き入ってしまったが、これはどういうことだ?

 梛乃の変化に動揺している気持ちを抑えたいのだが、どこから、なにから理解すればいいのか見当もつかない。

 狐の神使の女に動きは無い。堤防の法面から無言でこの場を見ている。

「な、梛乃……」

 俺は詰まりながらも声を掛ける。事情は分からんが、笠隠の氏神と梛乃は初対面ではないことは理解できた。その先は想像がつかない。俺の知らないなにかがある。

 でも、こんな梛乃を前にして冷静でいられるはずもない。彼女から話を聞くしかない。確かめたいことだらけだ。だけど、何故か違う気がした。彼女を不安にさせている原因は分からないが、まずはそれを取り除いてあげたい。

 再会できたことを今でも感謝している。なにがあっても俺に心変わりはない。だから梛乃を優先する。きっと、想像もつかない理由があるに違いない。

「……ごめんなさい」

 そう呟いて梛乃は立ち上がる。手が微かに震えていた。彼女は唇を引き締め俺の顔を見つめる。言葉を待った。

「治人、お願いがあるの。これを使いたい人がいる」

「うん」

「その人は私の知り合いで、すごく長い間……病気、と闘っているの」

「うん」

「私はその人を助けたいの」

「分かった」

 二つ返事の俺に、彼女は潤んだ瞳を見開いた。

「……どうして?」

「なにが?」

「どうして、なにも訊かないの?」

 彼女は唇を噛む。そう言われると逆に返答に困るが、無理やり考えを口にする。

「どうしてかな……こんな状況に正直すごく困惑している。でも、そんな梛乃を見ていたら、ともかく協力すべきだって思ったんだ。まずは、それを優先する。事情は後回しで構わない。詳しく訊かれたら、きっと困るだけだろうし……」

 言葉の通りである。

 梛乃は神妙な面持ちで俺を見遣る。余りにもあっさり受け入れてしまったからだろうか。彼女が思っているより、俺の器は大きいのだと自分を鼓舞する。

「……治人、ありがとう。理由はあとでちゃんと話すから」

 梛乃は目尻を指で拭いながら、無理のある微笑をつくって見せた。

「わかった、それでいい」

 そう答えた俺。さて、想いの強さで今は乗り切るとして、氏神さまには訊いておかなければならないことがある。お役目の次に、瓶子を使って誰かを助けるという新たなミッションが追加されたからだ。

「それで、氏神さま。この瓶子をどうやって使えば、病気を治せるのですか?」

 ここは重要なポイントだ。

『――あん? ……わしか?』

 俺と梛乃のやり取りに聞き入っていたのか、岸際でぺたんと腹ばいなっていた氏神が一拍置いて声を上げた。

「ええ、他にいないでしょ。そんなこと知っているのは」

 俺が半眼になると、氏神は率直に訊いてきた。

『ふむ……その前にいいかのう。娘に細かく訊かんのはお主の優しさか?』

 俺の感情を確かめてどうするのか。でも、ちゃんと言っておいた方が、梛乃のためにもいい気がした。

「いいえ……なんというか……意地ですね。俺は彼女が大事です。そして、必要とされたい。事情は分からないけど、俺まで動揺してしまったら収拾つかなくなるだろうから。今は意地を張って踏ん張っているんですよ。それは、彼女への想いがあるからできている……とでも言っておきますかね」

 梛乃が驚いた顔で俺を見ている。少しでも気持ちが伝わったなら嬉しい。

『そうか……お主はいい奴よの』

 ストレートに言われて、俺は照れ隠しで続ける。

「梛乃のためならっていう気持ちがあるだけです」

 すると、彼女は俯きながら横で小さく呟いていた。

「……、か」

「ん?」

 俺は微かな声に耳を傾けたが、氏神の話に掻き消される。

『うむ。使い方じゃったの、簡単よ。その瓶子に入れた酒を飲ませるのじゃ』

「あ、はい……お酒、ですか?」

『そうじゃ、それは酒の器じゃろ。もちろん日本酒じゃぞ』

 俺は確認も込めて訊いた。

「病人にお酒を飲ませるんですか?」

『そうじゃが、少しでよいよ。ほんの少し』

 俺は頷いた。なるほど、半信半疑ではあるが手順は分かった。さて、ともかくこれを借りるとして……

「教えて」

 梛乃が氏神に問い掛けていた。

『なんじゃ?』

「つまり、これを使うとどうなるの? もう少し詳しく」

『願いが叶った、その後のことか?』

「ええ」

『どうじゃろうな。今は偶然の賜物でこうなっておるだけなのでな。世のもつれはほどけていくものよ。刻限も近づいておるようじゃしの』

「やっぱり、そうなのね……これが必然だったのね」

 世のもつれはほどける? 刻限? 必然って? ぐっと気持ちを抑えて、俺は最後のやり取りを見守った。


 笠隠の氏神であるオオサンショウウオ。かすみと呼ばれる狐の神使。両者に見送られながら、俺たちは川辺をあとにした。

 瓶子は近日中に返すからと約束したが、氏神は『慌てんでいい』と言ってくれた。結局のところ理解ある優しい氏神さまであった。

 梛乃のことで話題として出せずに終わったが、本当ならお役目とやらが今後も続くのかなど、いろいろ訊きたかったのだが……まあ、瓶子の返却もしなければならないし、本当にお役目が片付いてから考えることにしょう。

 その後、帰路に就く最中。梛乃はずっと沈黙していた。思い悩んでいるのは傍から見ても分かる。彼女からの言葉を待つしかできないのが歯がゆい。空気を察したのか、すのりとかおれも静かだった。もうそろそろお腹も空いてきただろうに健気な子たちだ。

 帰り道も残り僅かになった時、梛乃が口を開いた。

「あの……治人。やっぱり、今はまだ整理がつかない……なにも話せない、ごめんなさい」

「いいさ、あやまるなって――」

 俺は咄嗟に口を噤んだ。

 横目に見えた彼女の頬に伝わる一筋の光。こんな情緒不安定な梛乃を知らない。彼女の中で一体なにが起こっているのだろう。

 俺は腕を伸ばし、膝に置かれた彼女の手に自分の手を重ねた。もどかしい気持ちを飲み込みながら呟いた。

「……大丈夫、大丈夫だ」

 その後、梛乃と同じく俺も沈黙してしまった。彼女をマンションに送り届け、瓶子を渡した。別れた途端、猛烈な不安にかられた。彼女がこのまま何処か遠くへ行ってしまうような気がして怖くなった。

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