第30話 かい その2

「――ひっ、くしゅん!」

 この場の空気にまったくそぐわない気の抜けたくしゃみが、静まり返った邸内に響いた。何故だか、それが下降気味だった俺の気持ちを留めさせた。

 見遣ると、その主はかおれ。キュートなお口をもごもごさせながら、目をしばたたかせている。ジャケットをボロボロにされ、四つん這いという恥辱的な恰好だが表情は安気だ。

 すのりも膝を着かされ、後ろ手に拘束されてはいるが同様の顔付き。二人揃って、先ほどと同じように視線を送ってくる。それは梛乃にも向けられていた。

 俺は怪訝な半眼で返す。

 あれ? かおれさん、すのりさん。そのつまらなそうな空気感はなんなんですか? 「もういい加減寒いんですけど」とでも言いたげな……

「……あ!」

 息を吞む。俺の喉がしゃっくりのように鳴っていた。

 ようやく、かおれとの会話が正確に蘇ったのだ。「……どんな状況でも対応しますから……どうすればいいか、ちゃんとしてくださいね……」そして俺は「分かった」と返した。

 途端に鳥肌が立った。完全にやらかしているのは俺だが、反省は後回しにする。つまり、ここから形勢が変わるのだ。このまま泣き寝入りで瓶子を渡す必要はなくなった。

 俺は髭の男に向かって訊く。それはとても重要なポイントだ。

「……あんたさ。その……坊主頭のそいつらに、うちの神使たちをねじ伏せて拘束しろとか言ってしたのか? 顔には傷をつけるな、とも付け加えて」

 少し戸惑った髭の男だが、無粋な表情のあと渋々答えた。

「はあ? なんだと……なにを今更、良く分からんことを……まあ、そんなところだが、それがどうした」

 確信した俺は、落胆と安堵が混じったため息を漏らした。かおれを見遣やると、目を輝かせていた。こっちの変化に気付いたらしい。

 心苦しさもあって小声で話し掛ける。

「なあ、かおれ。やっぱりそうなのか? もしかして、それを待ってた?」

 周りに筒抜けなのだが、かおれも声のトーンを落として返してきた。

「ええ。だって、あの時そういう打ち合わせでしたよね」

 そう、その通り……あれ打ち合わせだったのね。

 すると、すのりも痺れを切らして割り込んできた。ちょっとご立腹の様子。

「そうに決まってるじゃない。もっと早く理解しなさいよ!」

「……ああ。だよね」

 俺は天を仰いだ。自分の鈍感さが恨めしい。すのりとかおれはなにも悪くない。足を引っ張っていたのは俺だ。いや、そもそも神使を遣わされた者としての自覚が甘かったといってもいい。

 俺は穂香を助ける協力をしてくれと言っただけ。だから、俺や梛乃と穂香に危害が加えられていない状況で、神使たちは最低限の保身以上の行動はとらなかった。 猿男の小太郎と立ち回った時も、梛乃が狙われたから必要な範囲で抑えつけたのだ。

 二人の首からぶら下がるチョーカーの飾り。スペードとハートが日差しに反射していた。なぜそれを欲したのか、今なら良く分かる。あの子たちは俺たちとちゃんとつながっている。そして、その関係は陳腐なものではない。

 不可解な会話に眉をひそめる髭の男。だが、俺は構うことなく話を続けた。詰んでいるの向うだ。もう焦る必要はない。だから、ここはちゃんと言葉にして伝えておきたい。

「ゴメンな。すのり、かおれ。俺ってダメだよな……君たちのこと分かったつもりでいたけど、こんなだわ。もっと自覚して考えていれば、こうはならなかったのに……すまん」

 すると、かおれは四つん這いから少し体を起こして笑みを浮かべた。

「そんなことはありません。治人さんも梛乃さんも素敵ないい人です。だって、私たちをとても大切にしてくれています。だから、気にしないでください。私たちはあなた方の神使です。これからもですよ……」

「……ああ、そうだよ。もちろん」

 なんと健気なことを言ってくれるのだ。込み上がる感情を抑えるのが精一杯になる。神使だからどうのではない、すのりとかおれがそう思ってくれていることがとても嬉しかった。

「――さっきから、なんの話だ? いいから瓶子を早く渡せ!」

 放置されていた髭の男。我慢できず怒り出した。俺は気を取り直して言ってやった。

「いや、渡せない。あんたたちは場慣れし過ぎていたのさ。誰もが神使を道具のように扱っているわけじゃない。特にうちは違うんだよ」

 俺はそんな決め台詞を吐いて梛乃に視線を送る。彼女の表情は一気に明るくなっていた。そこに説明など必要ない。

「――ねえ、早くしてくれないかな」

 すのりの横やりにせっつかれるが、あえて焦らない。この役目は怒りMAXで我慢していた梛乃に譲る。俺は彼女を見遣った。

「この先は頼んだ、遠慮はいらない!」

 梛乃は一瞥を返してニヤリと笑った。そして、目を瞠って大きく息を吸った。

「すのり――っ! かおれ――っ! そんな奴ら、ぶっ飛ばしちゃえ――っ!!」

 少し掠れた高い声が駐車場にこだまする。隣で事情が理解できていない穂香が何事かとおののく。

 電光石化、すのりが動く。

 口角の隙間から微かに犬歯を覗かせたかと思うと、膝立ちでうな垂れ気味の頭をハンマーのように勢いよく後方に振った。激しく揺れる黒髪のショートボブ。狙いすました挙動。同時に、なにかが潰れる鈍い音がした。

 すのりの腕を後ろ手に取りながら屈んでいた坊主頭が、よろめきながら立ち上がる。顔を手で押さえ、ふらりと後ずさり。指の隙間からは鼻血が滴り落ちていた。微かに声も漏れる。

「うぐっ……」

 不意を突いて炸裂したのは、すのりの頭部による強烈な頭突き。坊主頭は朦朧として立ち尽くす。軽い脳震盪を起こしていた。

 何事も無かったように、膝の砂を落としながら立ち上がったすのり。「ふん」と、いつもの鼻を鳴らす。

「あれ、顔はNGだったかしら? ごめんね。私って結構な石頭なのよ、ねっ!」

 と、ふらつく坊主頭に向かって大振りのハイキック。

 黒タイツの脚線美。ムチの如くしならせた脚が坊主頭の延髄を捉える。頭が大きく揺れるも勢いは止まらず、足の甲に首を引っ掛けてそのまま地面に叩きつけた。

 ズドンと激しい音が響く。容赦のない鉄槌。なにも抵抗できず卒倒した相手。

「うわっ……」

 俺は圧倒的なパワーに唖然とする。

 なんだかんだで、かなり怒ってますよね、すのりさん。私の思慮が足りないばかりにお待たせしました。向うからの不意打ちだったので混乱してしまったんです。多少なりとも仕方ない部分はありますよね。と、言い訳がましく心で呟く。

 かおれの動きも早かった。

 四つん這いから半身を起こして何気に右肩をくるりと回したかおれ。後ろから首を掴んでいた坊主頭の腕にその手を絡ませ、躊躇いのない滑らかな動作で立ち上がる。呆気に取られた相手だが、既に手首から肘の関節を取られていた。

 そこからは、まるで操り人形。かおれがぐるんと腕を回す。その動きに逆らえぬまま、坊主頭は宙を一回転し背中から地面に落ちた。

 面食らった坊主頭。慌てて起き上がり態勢を立て直そうとするが、そこに挽回の余地はなかった。目標を捕捉した、かおれ渾身の打撃が顔面に迫っていた。冷徹にして必殺シリーズの右フックが、坊主頭の顎を直撃する。

「ぐふっ!!」

 短い嗚咽を漏らしながら、口から唾液を飛ばした坊主頭。白眼を剥きながら、体もろとも弾かれ砂利の上に倒れ込んだ。

「ふん!」

 珍しく荒い息を吐いたかおれ。破れたタイツから膝小僧を覗かせた姿で悠然と仁王立ち。でも、すぐにはっとする。唇の端から覗いていた犬歯を収めて咳払いし、取り繕うように体の埃を掃う。

「もう。お気に入りのジャケットだったのに、台無しです……」

 かおれはジャケットの破れた部分をつまんで尖った顎を引いてみせる。

「……あ、顔はNGでしたね。ごめんなさい」

 穏やかに言っているが、地面で大の字になっている坊主頭に意識はなかった。

「……」

 俺は閉口する。やはり、あなたも相当ご立腹なのですね、かおれさん。行動と言葉のギャップが酷くて、かえって怖いですよ。そして、俺の不手際には寛大でお願いします。

「……」

 すのりとかおれの凄さに圧倒されたのは、俺だけではなかった。髭の男も言葉を失っている様子。突然の反転攻勢。予想もしなかった展開だろう。

 俺はやっと理解できていた。多分、向うの神使が何人束になって掛かってきても負けはしないと思う。奴が気付いているかは知らないが、そこには大きな違いがあると感じていた。

 坊主頭の神使たちは、手練れではあるが大胆な技や格闘技で勝負を楽しんでいた。要は喧嘩だ。だが、すのりとかおれは違う。最も効果のある手段で相手の機能を一瞬で奪う。まさに戦闘にほかならない。

 神使の中でも桁違いの身体能力なのかもしれない。繁殖場のおじさんがいう血筋とやらが、なおさら気になった。

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