第21話 おかみ その1
「――見て、見て」
満たされたお腹を抱え、うとうとしながら至福の余韻に浸っている俺を梛乃が呼んでいた。寝室の襖を少し開けて、なにやら中を覗いている。
その手招きに誘われ、ゆっくり畳から起き上がる。襖に体を寄せている彼女。その頭の上に自分の顎を重ね、同じように中を窺う。
「ぐっすりだね……」
冷静に呟きながらも、顔がにやけてしまうのは仕方がないというものだ。それを承知で、見透かした笑みを送ってくる梛乃は少々意地が悪い。
俺と彼女がこっそり見ているのは、ベッドで並んで眠るすのりとかおれ。顔を近付け向かい合い、お互いの腕を絡ませている。昼間の勇ましさはどこへやら、別人のように無防備で可愛らしい。
微かな寝息も伝わってくる。飼い始めたばかりの仔犬だった頃を連想した。それにしても屈託のない寝顔。神使ではなく、天使と呼ぶのが
くどいようだが、俺にそういう趣味は無い。単に
時を同じくして、ノックの音が部屋に響く。俺と梛乃は顔を合わせる。時間通りだった。
ドアを開放すると、意気揚々とした女将が入って来た。昼間と変わらないラフな服装だった。いつもこんな格好で仕事をしているのだろうか。
「こんばんは、満喫してもらえているかな?」
第一声は、テレビ番組のMCのような台詞。昼間の猿男の口調を思い出す。この人の受け売りなのか、テレビの見過ぎなのかは分からない。
「猿男」とは呼ばないと宣言していたが、女将を前にした男の様子を見ていたら、なんだか憎み切れなくなったので撤回することにした。
などと、余計なことを考えていたら、梛乃が先に挨拶していた。
「こんばんは。お風呂は眺めが素晴らしくて、お湯も最高でした。もちろん、食事も堪能させてもらいました」
「そう、良かったわ……」
女将は梛乃を見て、軽く目をしばたたかせた。
「あら、浴衣似合うわね。ますます美人さんになったわ」
「いえ、そんな……」
梛乃さん。またしても照れるでない。確かに綺麗ですけど、半分くらいはリップサービスですよ。苦笑いしながらあとに続く。
「こんばんは」
そう言った俺は、先ほどから気になっている女将の両手に視線を落とす。
「あ。これ差し入れ。付き合ってもらうわよ」
さもありなんと胸を張る。そして、「ふふーん」と陽気に鼻を鳴らす。右手には日本酒のボトル。左手には料理を運ぶ木製のおかもちをぶら下げていた。
なるほど、ここからもあなたのペースなのですね。やはり、見た目の上品さとのギャップに戸惑う。予想以上に豪快なお人のようだ。
「――あれ? お嬢ちゃんたちは?」
女将が部屋を見渡して言った。
「お腹いっぱいになったら、お休みが基本なので……」
梛乃がそう言って、合唱した手を頬に当て目を閉じてみせると、女将は肩をすくめた。
「そうなの……可愛い子たちの顔を見たかったのに……残念。じゃあ、ここからは大人の時間ということね」
女将は日本酒のボトルを掘りコタツのテーブルにドンと置く。次におかもちから人数分のグラスと小鉢を幾つか取り出した。そして、ニヤリと笑う。
「これ、アオリイカのお造りと越前蟹の酢の物ね。この地酒に合うのよ」
小鉢が目の前に並べられる。既に満腹状態だったが、照りのあるイカ刺しとぷっくりしたカニの身が別腹を刺激した。確かに、これは絶品の酒の肴である。
「彼女さんには、これね」
最後に取り出した白い器には、透き通るような餅皮で包まれた上品な和菓子が並んでいた。
「白鳥にある、お気に入りのお店のものよ。手作りで数を造らないから貴重なのよ。宿では出していない、私のとっておき」
そっちは本当の別腹だった。
「おいしそう!」
梛乃が顔をほころばせる。
おもてなしはまだ終わっていないのよ、と女将は両手を広げた。そうして、二度目の晩餐が始まった。
「そういえば、自己紹介がまだだったわね」
女将は訊いてもいないのに、この宿や料理のことについて熱心に説明したあと、思い付いたように言った。
そうですよ。もっと前にその振りが欲しかったですね。こちらとしても、聞き手に回ってしまった責任はありますけど。と、そんな感じで俺と梛乃は苦笑い。
さすがに、このままでは女将の独壇場で話が進みそうだったので、俺は反転攻勢に出た。
「あの。俺は
唐突にリズムを乱されて目をぱちくりさせた女将だが、「ふふ」と笑って続ける。
「私は、
俺と梛乃は相槌を打った。
おお。琴音女将ということか……古風だが温泉宿の女将にピッタリの良い名前だと思った。続けて、感じていた疑問を投げ掛けてみる。
「その、栗原さんは……神使が分かるのですか? すのりとかおれを一目見て、神使だと言いましたよね?」
「……すのりとかおれ?」
琴音女将は片眉をピクリとさせてから頷いた。そして、声を弾ませる。
「そう。あの子たち、すのりちゃんとかおれちゃんて言うのね!」
うちの神使たちの紹介を忘れて、先走った俺の発言にも正確に返してくれた。頭の回転も早い人だ。
「あ、はい……そうです」
「でも、変わった名前ね? なにか意味があるの?」
「あ。いえ……単に川の名前です」
琴音女将は目をしばたたかせた。まあ、そういう反応だろう。
「川の?」
「ええ。すのり川とかおれ川から付けました。実家の近くに流れている川で、高校生くらいまで釣りとかして、よく遊んだ川です。今も渓流釣りは続けていて、川が好きなので……変ですか?」
俺は頭を掻いた。
「いいえ。思い入れがあるのね。川のことは良く知らないけど、特徴があって、聞き心地もいいわ。個性的だし、私は好きよ」
琴音女将はにっこり笑った。
「どうも……」
ちょっと不安な部分を気持ちよく肯定されたら、相手に対して好意的になってしまうのは自然な感情。褒め上手なのだろうが、ついつい余分な説明もしてしまう。
「名前の由来の話ですけど、かおれ川は
「ふーん。食用のカワモヅクか、食べてみたいわね」
さすがは人気の宿の女将である。食への好奇心も旺盛なのは当然なのかもしれない。
「ああ。でもそれは、随分昔のことですよ。多分、昭和初期とかの時代。今は、採れないと思います。水も昔ほど綺麗じゃないですし……」
「ふーん。それは、残念ね。興味が湧いたところだったのに……」
川の名前から、実家の場所は分からないだろう。とりあえず、そこがここからさほど遠くない所だということは伏せておく。
俺たちは愛知からの旅人として、この土地の特色でもてなしてもらっている。実は同郷だなんてことで、変に水を差す必要はないだろうと考えた。よく知っている場所でも、いい物はいいのだから。
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