第19話 さる その2
「――なにをしているの!?」
離れた場所から声が上がった。
肩越しに振り返ると、道路から小走りで近付く人の姿があった。黒髪を後ろで束ねて巻き上げた女性。にわかに、まずい予感。
ラバー製の二―ブーツにデニムを履き、黒のセーターにショート丈のトレンチコート。そして、首にはにはマフラー。垢抜けていて、こなれた格好。失礼だが、この辺りの住人らしからぬ雰囲気。
駆け寄って来た女性は、俺たちの前で足を止めた。俺は落ち着かない気持ちで、その横顔に視線を向ける。マフラーで口元は隠れていたが、切れ長の瞳で雪の上に座り込んでいる男を見下ろした。
勢いそのままに、まくし立てられるのかと思いきや、女性は小首を傾げながら腰に手を当てた。
「あら、これは一体どうしたこと?」
女性はマフラーを胸元まで押し下げながら、誰に問い掛けるわけでもなく呟いた。その、口調は落ち着いていた。
鼻筋が通っていて、すっきりとした顎のライン。上品な顔立ちをしている人だった。年齢は俺より少し上、三十くらいか。当然、この男を知っているらしい。
「あの、すみません……」
説明しかけた俺に向かって、女性は渋い顔で小刻みに手を振った。
「あ、ごめんなさい。いいのよ、この子に聞いているの」
確かに、その視線は男に向けられていた。でも、この子って……
すると、女性はその場にしゃがみ込み、男の顔や肩に付いた雪を手で払い始めた。その仕草は自分の子供を扱うようにやさしい。
「こんなに、雪を付けちゃって……ねえ? どうしたの?」
依然として変化のない男の肩に手を置いたまま、女性はすのりとかおれを見上げた。そして、くすっと笑った。
「……なるほどね。喧嘩を売って、返り討ちに合ったってところかしら」
なんと、どこかで見ていらしたのですか。まったくもって、その通りです。結果については、ご勘弁いただきたいところではありますが。
「ひゃ、うっ!」
突然、頓狂な声が上がった。正気を取り戻した男が、同時に女性の存在に気付いたらしい。
「……お、
なにやら、しどろもどろの受け答えだ。事情は分からないが、バツが悪そうな感じ。
それよりも、俺は「女将さん」という言葉に注目した。隣の梛乃も、目を丸くしている。二人の関係が気になったのは彼女も同じらしい。
男がゆっくりと立ち上がる。既に、威圧的な雰囲気は皆無となっていた。
鼻っ柱をへし折られ、神使の世界における力関係の洗礼を受けた観もあるが、多分この女性の存在がそうさせているのだろう。どことなく顔付きも穏やかになっている。こちらをチラ見しつつ、肩をすくめる。
男よ。先ほどとは随分態度が違うではないか。借りてきた猫のようだぞ。猿だけど。
「それで、どうなの?」
「……」
女性が問いただすも、男から返事は無かった。ただ申しわけなさそうに、しかめっ面をするばかり。
「しかたのない子ね」
ため息をついた女性。肩を落として微笑む。男はそれを見て、安堵したのか顔の緊張を解いた。
あ、はぐらかしたなこの野郎。と、俺は半眼で男を睨んでやった。
女将さんと男が呼ぶからには、この女性はなにかしらの商売人だと想像がつく。立場的にも上なのだろうが、男を単なる従者として扱っているわけではないらしい。男の方も女性を慕っているのが雰囲気で分かる。
女性は俺に向きなおした。
「勝手な振舞をして、申し訳ありません。まずは、この子の話を聞いてからと思いましたので……その、察した通りのようですね。ご迷惑をお掛けしたみたいですね、ごめんなさい」
そう言って、深々と頭を垂れた。
そんな態度をされてしまうと、かえって気を使う。
「いえ、こちらこそ……いや、少しもめたといいますか……その、彼が怪我をしていなければよいのですが……」
俺の取り繕う返答に、女性は顔を明るくして苦笑した。
「大丈夫よ、大丈夫。これくらい案外平気なのよ神使は。私たちとは違うわ」
もしやと思ったが、神使という言葉が飛び出し納得した。俺は梛乃と顔を見合わせる。
やはり、この女性は神使の存在を承知していて、この状況もちゃんと理解している。単なる喧嘩ではなく、神使同士の揉め事であると。
しかも、女性はすのりとかおれを見て合点した様子だった。もしかして、この人は神使を見分けることができるのだろうか。
「あの……」
「分かっていますよ。そのお嬢さん方は神使なのね」
「……ええ、そうです」
確信する。やっぱりそうなのだ。でも、なぜ分かるのだろう。
「ふーん。そんなに可愛いのに、この子を
なんと。この人は神使という存在にもかなり詳しいらしい。
「あの……神使について、よくご存じなのですか?」
瞬きした女性。暫し俺の顔をじっと見つめたあと、腑に落ちた仕草で頷いた。
「ふーん、そう。遣わされたばかりの神使ちゃんてことか……ここに来た理由は知らないけど。いろいろ分からないことがあって困っている。そんなところかしら?」
大して何も言っていないのに、こちらの事情を理解してくれた。頭の回転が速い人だ。
「は、はい。そうなんです、つい二週間前です。神使になったのは」
「そうなの! なりたての、ほやほやなのね」
嬉しそうに返した女性。その、炊き立てのほかほかご飯、みたいな表現はよく分かりませんが、その通りです。
「ええ……それで、本人たちは木曽の水神さまの神使だと言っているんですが、それもなんだか良く分からなくて……ね」
俺が梛乃に向かって相槌を打つと、女性の目の色が変わった。
「ふーん。それは、それは……なるほど、そうなのね……」
含み笑いで喜色を浮かべた女性。なにが、そうなのだろう……そして、質問したつもりの言葉は流された。
「えっと、あなた方は、どこから来られたの?」
「はあ、愛知からですけど……」
「白山さまにお参りを?」
「まあ……そんなところです」
嘘ではない。
「そうですか……それで、このあとのご予定は?」
「……いや、ないですよ……今も帰るところだったので」
「すぐに帰られるの?」
どこか引っ掛かる女性の言葉に、俺は目を細めた。なんだか、女性のペースになっている。
「はあ、そのつもりですけど」
「では、どうかしら。明日は日曜日だし、お勤めとかご予定がないのなら……うちに泊まっていかない?」
女性は素敵な笑顔をつくってみせた。
「……はい?」
なにを言っているんだこの人は。
俺は梛乃と顔を合わせた。お互い予定が無いのは承知だが、突然の申し出には困惑するしかない。
慌てるつもりはないが、笠隠神社のこともある。それに、初対面の人に泊まっていかないかと誘われても、普通はおいそれと頷いたりしない。正直、ちょっと怖いですし。
「あ、いや、でも――」
「あのね。私のところ、温泉宿をやっているの。そこに泊まっていかないかなって意味よ……どう? 今夜と明日の都合、よろしくない?」
女将さんとは、そういうことなのかと理解した。でも、横の梛乃の反応はやはり渋い。そうだよね、この展開は誰でも戸惑う。
だけど、言葉遣いが徐々に親しげになっていて、間合いを詰められている気がする。
「いや、都合が悪いわけではないの――」
「なら、いいでしょ? うちの宿、結構人気があるのよ」
まずい。どうしよう、なんだこの勢いは。気後れしているこちらにお構いなしだ。すると、女性は梛乃に視線を移した。
「えっと、彼女さんかしら? そちらの綺麗な方にも、きっと喜んでもらえると思うのだけど」
「え、そんな……」
と、俯く梛乃。これこれ、典型的なサービストークですよ。綺麗なのは分かっていますから、素直に照れるでない。
しかし、まあ、ここは断るのが妥当だろう。単なる営業かもしれないし。
「やっぱり――」
「神使の話をしたいのよ」
女性は声のトーンを落として言った。
「まあ、この子のことも含めてだけどね……あなた方も私に訊きたいこととかあるでしょ? そのお嬢さんたちのことで」
「……」
俺は暫く考えた。
そういうことなら、提案に乗る余地はあるかもしれない。こちらとしても、そういった話を聞きたいのは確かだ。
これは、良い機会なのかもしれない。すべてを信用するつもりはないが、あの猫娘より、この人の方がいろいろと知っていそうな気はする。
梛乃が俺の腕を引いた。一瞥すると彼女は頷いてみせた。同じく、それならありかもと思ったようだ。
女性、いや、どこかの宿の女将は小首を傾げて微笑みながら答えを待っている。
俺はもう一度梛乃を見遣ってから、その女将に向かって頷いた。
「分かりました。そういうことなら、泊まらせてもらうということで……」
「よし! 決まりね。案内するわ。車を取って来るから、少し待っててくれる?」
ぱあっと表情を明るくし、目を輝かせた女将。そう言い残すと、無口な子供のようになってしまった猿の神使を、引きずるようにして踵を返した。
俺は梛乃と顔を合わせる。彼女の表情は少し強張っていた。女将の提案に乗ってしまったが、一抹の不安は残っている。
「まずかった……かな?」
「……そうね……でも、神使の話を聞けるなら……ねぇ」
歯切れの悪い返事。
すると、すのりとかおれが俺の顔を覗き込んできた。状況の変化を理解したのだろう、好奇心の目を向けている。
「あのさ、聞いたと思うけど。今日はこのまま、ここの温泉宿にお泊りします。いいよね?」
僅かに目を瞠ったすのり。
「へ、へえ。そうなの……ふーん、いいんじゃないの」
片眉を上げて一応無関心を装ってはいるが、期待感が透けて見えている。
「おうち以外でお泊りするの、とても楽しみです」
かおれは胸の前で手を合わせると、つぶらな淡い色の瞳をキラキラさせた。安定な二人の反応に、ひと時の安らぎを覚える。
おっと、そういえば大事なことを忘れていた。ちょっとやり過ぎだったけど、良い働きだった。
俺はすのりとかおれの頭に手を置いた。年頃の女の子を褒める方法としては、子供をあやすみたいで微妙かもしれないが、二人も嬉しそうにしているので良しとする。
それに、他を触ると梛乃がやきもちをやくのでこれが一番無難だと判断した。
「梛乃を守ってくれてありがとう。二人とも凄いな。よしよし、いい子たちだ」
神使たちは満面の笑みを浮かべた。この時ばかりは、すのりも素直になるのは面白い。
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