第6話 ぬし その2

 その日は夕方になっても、鵜観うーかんの状況は好転しなかった。既に日も落ち始めている。周りのフライマンも、ぼちぼちと帰り支度を始めていた。

 そんな薄暗闇の中、水面に目を凝らすと大きな波紋が広がっているのが見えた。息を飲んだ。一瞬にして心拍数が上がるのか分かる。周りにはもう誰も居ない。

 比較的近い場所。この距離なら、水面の反射からティペットの動きを見て当たりを取れる。急いでリールからフライラインを引き出す。ここで慌ててはいけない。魚が動いているのか定位しているのかを見極めなければ、上手くフライを流し込めない。

 先ほどまで凍えていたはずの体が、今はそれを感じなくなっている。全神経を集中してライズの動向を観察する。

「……ん?」

 波紋は依然として確認できるが、なんだかおかしい。シラメのライズによる波紋は、「ポツーン、ポツーン」なのに対して、これは「プク、プク」である。

「プクプクって、なんだよ」

 経験したことがない状況。思わず声に出してしまった。これはシラメではない。が、そこになにか居る。

 次の瞬間、水面にそのなにかが浮かび上がった。

「……うわっ!」

 その大きさ、優に1メートルは超えている。得体の知れない物体にぶざまに慄いた俺だが、すぐに冷静さを取り戻した。

「びっくりした……なんだ、流木かぁ」

 正体が分かればなんてことはない。どこから流れてきたのか、それは浅瀬を漂っているようだ。泡を食った自分に失笑しながら、近付いてみる。やはり流木のようだ。

 お返しとばかりにロッドの先で突いてみた。腐っているのか、表面は柔らかい感じだった。

「まったく、ビビったじゃないか」

 俺は腹いせとばかり、流木をロッドの先でペシペシと更に叩いた。

 と、今度はゆっくり沈んでしまった。木が水分を多く含み、殆ど浮力が無い状態になっているので、浮いたり沈んだりしているのだと考えた。

 だが、その後「プクプク」と波紋が水面に広がった。

「また、プクプクって……えっ? 流木じゃ……ない……のか?」

 得体の知れないものを見誤っていたと感じた俺は、慌ててベストから小型のLEDライトを取り出した。

 そっと、流木が沈んだ辺りを照らす。水深は50センチほど。透き通った水の川底に沈んでいたもの。俺はその正体に目をしばたたかせた。そして、思わず呟いていた。

「なんと……そうか……こんな所に……どうも……」


 慌てて車に戻った俺は、今起きた事の顛末を興奮しながら梛乃に話した。

 最後まで聞いた彼女は安気に笑って見せたが、俺は内心穏やかでなかった。特定の宗教に傾倒しているわけではないが、俺は結構信心深かったりするのだ。

 おじいちゃんやおばあちゃんの語る戒めの昔話を真面目に聞く方だし、川や魚を相手に遊んでいるので、自然界への畏敬の念も常に忘れない。

「それで、治人はロッドの先でペシペシと叩いたのね」

「はい、かなり強く」

「ふーん」

「なんだか、非常にまずい感じがする」

「どんな風に?」

「だって。あれ、きっと、ここの主だよ」

「まあ、それだけの大きさのオオサンショウウオだもの。八百万の神に例えたら、それなりに偉い神さまってことになるわね。特別天然記念物だし……」

 梛乃は俺の顔をまじまじと見つめてから、腑に落ちた表情で瞬きをした。

「……ああ、そういうこと。罰でも当たらないか心配なのね」

「そう、それ」

 俺は小刻みに頷く。

「どんなよ? そんなことぐらいで、災いなんて起きないわよ」

「いやいや、例えばさ……釣りに行こうとすると必ず天気が崩れるとか、大物が掛かるといつもバラしてしまうとか、周りの人は釣れているのに俺だけ釣れないとか……」

「――って、おいおい。釣りのことばっかじゃん」

 低い声を発した梛乃は、半眼の呆れ顔。だが、俺は真剣なのだ。

「なにか対策ない?」

「どうして、私に訊くのかな?」

「だって。鷹宮家って、神社の神職を代々継いでいる家系なんだよね。そういうの、詳しくないの?」

「まあ。そういう家系を社家しゃけって言うんだけど。それは本家の方で、うちは単なる分家なの。私は巫女すらやったことないのよ。そんな厄除けみないなこと知らないわよ」

「えー」

 梛乃に軽く突き放された俺は、次に後部座席で舌を出している二匹に助けを求めた。

「どうしよう、すのり~かおれ~。なにかあったら、俺に力を貸してくれよ~」

 両方の頭を撫でるも、嬉しそうにシッポをブンブンと振ってみせるだけだった。

「もう。なに言ってんの。ちゃんと、その主さまに謝ってきたんでしょ?」

「はい。しっかり頭を垂れて」

「なら大丈夫だって。さあ、帰りましょう」

 梛乃にちょっと無理やりな笑顔を見せ付けられ、俺はしょんぼりしながらハンドルを握り帰路に就いたのであった。

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