第5話 ぬし その1

 昨年は梛乃とキャンプや釣りによく行った。

 まあ、釣りをするのは俺だけだが。車のラゲッジ一杯に荷物を詰め込んで、近場から遠方まで車を飛ばし、アウトドアを楽しんだわけである。

 高校時代の梛乃はどこでも本ばかり読んでいて、積極的とはいえないおとなしいイメージがあった。キャンプに行けば川遊びくらいはしていたが、完全にインドア派だった。それが今や、である。同じキャンプや釣りに連れ出しても、臆することなくアクティブに行動している。

 しかし、それは問題ではない。それどころか大いに喜ばしい限りで、今度は梛乃をどこに連れて行こうかと悩むくらいだ。もちろん、すのりとかおれも一緒だ。

 だが、年明けはこれっぽっちも考える必要はない。そう、今年もやって来ましたこの時期が。それは、渓流釣りの解禁だ。

 解禁? そう、渓流釣りには禁漁期間なるものが存在する。すべては渓魚の乱獲を抑制し、繁殖を促して個体数を維持するため。要は「釣ってはダメですよ」という保護期間を設けているのだ。

 東海圏でいうと、大まかに十月から翌年の一月までの間がそれにあたる。

 だから、多くの渓流釣り師は毎年解禁を心待ちにしている。そうして、どこよりも早い二月に解禁される岐阜県の長良ながら川へ、我先にと出向くことになる。水温は5℃にも満たないし、朝の気温は氷点下だったりして雪が降ったりもするのにである。

 マジかと思うかもしれないが本当だ。そんなに寒くて魚が釣れるのか、とも思うだろうが釣れるのだ。そして、その時期の釣りはフライマンにとって、シーズン中で最も繊細な釣りを楽しむことができる時期でもある。


 解禁当初の超有名ポイントの一つ。岐阜県関市の長良川にある鵜飼うかい観光ホテル前。通称「鵜観うーかん」には、今日も多くのフライマンが集まっている。

 岸辺には日が昇る前から多くの人が並び、キャスティングを繰り返している。

 大半はフライマンだ。中には河原に鍋料理を準備し、仲間で囲んでいたりする常連もいる。毎年の風物詩だ。

 もちろん俺も。鍋はしないが、その一人として加わっている。

 長良川の中流域であるが、川幅は100メートルを超える。鵜飼観光ホテルの前は、流れが緩やかな広いプールが300メートル以上続いており、早春の釣りが楽しめる条件が揃っている。川に接する堤防道路に駐車スペースがあり、アクセス面での手軽さも、この釣り場の人気の理由となっている。


 狙う魚はシラメと呼ばれる銀毛したアマゴ。体長は20センチほどで大きくはないが、V字になった尾ひれを持つ格好良くも綺麗な魚。

 これを釣ってシーズンの始まりを祝う、みたいなところもあったりする。釣り仲間内で「祝解禁メール」が飛び交うのは恒例行事だ。

 繊細な釣りと言われる由縁は、シラメのサイズが比較的小型であり、なによりこの時期は捕食対象としている水生昆虫がとてつもなく小さいということ。

 セレクトするフライはミッジと呼ばれる種類で、5ミリにも満たないサイズ。それをこれでもかという細いティペットに結んで使う。しかも、警戒心の強いシラメは岸から遠い場所でライズしながら回遊する。

 つまり、極小のフライを遠投して狙う必要があるのだ。しかも、解禁当初のシラメは川の流れの穏やかなところを好むので、流れてきた捕食対象物をゆっくり吟味する。そんなにフライをジロジロ見られたら、偽物だとバレてしまう確率は高くなる。

 加えて、そんな小さなフライを20メートルも遠投したら、良く見えなくなるのは当然。そんな状況で、シラメがフライを口にしたことを確認して合わせを入れる。まさに至難の業。

 しかしながら、この釣りの歴史を重ねてきたフライマンたちは、絶え間ない努力と工夫で様々なテクニックを編み出し、シラメに挑戦し続けているのだ。

 そして、俺が手にしているのは、今日のために巻いたスペシャルミッジフライ。これを的確に打ち込めば勝算はある。そう、釣れない魚なんていない。決して諦めない。それがフライフィッシャーだ!


 河原から堤防に上がり、運転席のドアを開ける。

「あ、お帰り……どうだった? 釣れた?」

 暖かな空気に包まれた助手席で、チョコ菓子を食べながら梛乃が訊いてきた。後部座席では、すのりとかおれがシッポを振って出迎えてくれている。

「いいや。全然ダメだわ。鼻先でフライを突かれて終わった……風も出てきて、ライズも無くなったし」

「そっか、残念だったね。しっかし、この寒いのに頑張るわね……きっと、皆さんドMなのね」

 岸辺には、まだまだキャスティングを続けているフライマンの姿があった。

「ああ、間違いなくそうだね……でも、今日は、ほんと冷えるな」

 俺は運転席で苦笑しながら、外との温度差に改めて身震いする。自然を相手にしていると辛いこともあるが、その分得られる感動も大きいのだ。そのハードルの高さが、この手の遊びの醍醐味でもあるわけで――

「はい。あーんして、ドMくん」

 俺の鼻先に細長いチョコ菓子が突き出された。

 小悪魔的な微笑を向けてくる梛乃。ちくしょう、可愛いじゃないか。釣りへの情熱をうやむやにされかねない誘惑の視線。でも、まだあきらめないぞ。

 俺はその決意を見せるべく、チョコ菓子の先端を鼻息荒く前歯でもぎ取ってやった。

「風が止んだら、再度出撃します!」

「―—ないわね」

「え?」

 

 その後は梛乃の厳しい宣言通りとなった。太陽が昇るにつれて、風はもっと強くなってしまった……

 確かに、もう夕方までチャンスは無いだろう。そう判断した俺は、昼メシを求めて関市街へと車を走らせた。

 遠出をしたら、ご当地グルメを頂くのがルーティンとなっている。梛乃待望の時間である。彼女のリクエストもあり、以前から気になっていたうなぎ屋へ入った。すのりとかおれは駐車場の車でお留守番。いろんな所を連れ回しているので、二匹はもう慣れっこになっている。

 昼時の有名店だから、もっと混んでいるかと思ったらそうでもなかった。きっとタイミングが良かったのだろう。暖簾のれんをくぐり、暫く待つと席に案内された。店は商店街にあって、歴史を感じる佇まい。瓦屋根に板張りの壁。どこか懐かしい雰囲気がした。店内のはりも良い色にくすんでいて味わいがある。

 二人揃ってうな重を注文したところで、梛乃がお品書きの端の方を指さす。そこには『鮎の塩焼』と書いてある。もちろん、今はメニュー対象外。食べられるのは夏から秋にかけてだ。

「子供の頃、よく川に潜って鮎を捕まえたよね」

 梛乃は懐かしさを覚えたのか目を輝かした。

「ああ。河原で火を起こして焼いて食べたね」

「そうそう」

 梛乃は頷きながらも、こめかみに指を当てた。

「……えっと、なんて言うんだっけ? 鮎を捕まえる、あれ」

「あん? 引っ掛けのことか?」

「そう、それ。竹棒の先の釣り針で引っ掛けるやつだよね」

「ああ」

「治人は鮎捕まえるの、上手かったよね」

「おう。梛乃は下手だったね」

「……だったかな……なら、下手で悪かったわね」

 眉間に皺を寄せる梛乃を見て俺は笑った。

「でも、一番上手だったのは珠乃たまのちゃんだったね」

「……そうね」

 梛乃が急に視線を落とした。

「どした?」

「ううん、なんでも……」

 そんな微妙な表情をされたら、気になるではないか。俺は梛乃の視線の先にわざと顔をおいた。彼女はそれを避けるように一瞬俯いてから、背筋を伸ばして顔を上げた。ちょっとマジ顔。

「ねえ。治人はどうして、珠乃にはちゃん付けなの?」

「え? なに、それ?」

 突飛な問いに戸惑う。

「どうして?」

 穏やかな口調だが真剣な感じ。俺はその意図を汲み取れなかったので、素直に答えてみる。

「うん、それはだな……梛乃は彼女だから、だったから、呼び捨てにしている。それだけだよ」

「違うよ。高校で私と付き合う前から、ずっと昔から梛乃と珠乃ちゃんだった」

「えっ!? そうだっけ」

 驚いた。でも、そんな記憶は無いから、なんとも言えない……俺は二人になにかしらの区別を付けていたのだろうか。

 ただ、梛乃のか弱さというかはかない雰囲気は、昔から一歩踏み込んで守りたいと思わせる存在であったことは確かである。それが、区別というのならそうなのだろう。結果的に、高校で付き合うことになったのだし、今もこうしているのだから。

 確かに、あのころに比べると、今の梛乃はたくましくなった。だからといって、俺の気持ちが変わるわけではない。

「なに? 梛乃もちゃん付けで呼んで欲しいの?」

 茶化してみたが、反応はイマイチ。あれ?

「ううん、梛乃でいい……ごめん、気にしないで」

「……あ、そう」

 いやいや、気にしますよ。なんだか気持ちが悪いじゃないか。その真意を探ろうと思っていると、目の前にうな重が運ばれて来た。絶妙なタイミング。詮索はやめておけということか。

「あ、きたね……」

 俺は軽く呟いて話を終える。梛乃もそれ以上、何も言わなかった。

 店員が配膳を済ませるのを待ち、俺はお重の蓋を開けた。ふわりと香ばしさが漂う。甘たれのかかった肉厚の蒲焼が現れる。下のお米が見えないくらいに敷き詰められていた。評判通りの店のようだ。

「わあ、美味しそう! 食べよ、食べよ!」

 目を瞠り、ぱあっと表情を明るくした梛乃。満面の笑みで箸を渡してくる。

「おう、サンキュ」

 切り替えの早さに、俺はあっけに取られた。とりわけて気にすることでもなかったのだろうと納得することにした。

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