第4話 ふらい

「やっぱり、川はいいなぁ」

 河原に立つと、自分の原点に戻って来たなという感覚に陥る。これは、すべての渓流釣り師に共通する観念だと思う……多分、そのはずだ。

 大小連なる岩の間をうねって流れる水の音。ウエーダーを履いていても伝わる清流の冷たさ。揺らぐ木々の隙間から差し込む日差し。上流から谷を抜けて来る風は、湿気を帯びた森の匂いがする。それらすべてが五感に響く。

 俺はロッドをしならせ、いろいろなポイントへとフライを送り込む。

 川の水の流れは複雑で、それを読めるかどうかですべてが決まる。渓流魚は繊細かつ大胆な生き物。水面を流れるフライを下から眺めつつ、捕食対象かどうかを見極めてから一気に食らい付く。

 最大のポイントはフライがラインの抵抗を受けず、いかに川の流れに沿って自然に流れるか。そのナチュラルドリフトが釣果の差となる。味も匂いも無い疑似餌ぎじえであるフライを魚に食わせる。

 まさに、フライフィッシングは魚を騙す釣りなのだ。

 高校生の時から始めて、やっとさまになってきた今日この頃。しかし、飽くなき探求心と渓魚へ挑戦する気持ちは未だに衰えない。

 そして、今日一番の優良ポイントを目の前にしている。抑えようとしても気持ちが自然と昂る。奥にちょっとした落ち込みのプールがあり、その下にある開きの流れが集まる部分。

 モワモワと水面がうねるのが見える。良い流れだ。水量は増水から平水へいすいに戻ろうとしているところ。水温も悪くない。条件は揃っている。しかも、頭上にはカゲロウのハッチ。フックサイズにして12番くらい。

 選択したフライは同サイズのCDCダン。フロータントは少なめに付けある。ライズは無いが、この流れに居なくてどこに居るのかというポイント。狙うは流心。ヤマメが好んで居付く場所だ。

 後方を確認してから、長めにしたティペットを指からそっと放つ。最初のフォワードキャストは強めで。でも、魚に気付かれないようにポイントの上は通さない。次にバックキャスト。フライラインが伸びきるまで焦らない。そして余計なフォルスキャストはしない。一気に狙いを定めロッドをしならせる。

 左手に絡んでいたフライラインが解け、ガイドを通ってロッドの先端からU字を描きながら放たれる。リーダーとティペットに引かれたフライが、狙ったポイントの少し上流に静かに着水した。

 すかさずロッドを倒し、手前のフライラインを落ち込み際にある岩に置く。この距離だから、メンディングはしない。

「よし」

 小さく呟く。リーダーとティペットよりもフライ先行で流れ始める。ティペットに上手くスラッグも入っている。スラッグが解けるまでは、流れるフライに影響を与えない。

 フライは狙い通りのコースを辿った。本来の川の流れとは微かに遅い速度。経験からいっても上出来のドリフト。

 ほんの数秒間の待ち。この時間はいつも長く感じられる。予想したコンタクトポイントをフライが通過する。ここで出る、必ず出る。

「ん?」

 変化が無い……いや違う、少しタイミングが遅いだけだ。

 大きな影が反転していた。水面下でギラリと光る。こいつはデカイ! 水面が割れ、フライが吸い込まれるように消える。

 次の瞬間、大きな尾ビレが水面を叩いた。

「よし!」

 ロッドを立てる。合わせはデリケートに。焦るなと自分に言い聞かせた。

 僅かな沈黙のあと、ロッドティップを震わせながらロッドが大きく曲がる。ギュンとした手ごたえが、ロッドを通して伝わってきた。

「のった!」

 確実にフッキングした。よし、このままランディングだ。

 そう思った途端、甲高いクリック音とともにフライラインがリールから引き出された。

「――なっ!」

 フライをくわえたそいつは普通ではなかった。「なめるな」と言わんばかりに、その巨体をフルに使って上流に向かって突進する。

 凄いパワー。しなるロッドを高く持ちあげ、その引きに耐える。

「こいつは、もしかして……」

 我が物顔でプールを疾走する様は、まるで銀色の弾丸。その正体に確信した。このまま岩の下に潜られたら簡単にティペットを切られてしまう。ここは、一気に寄せるしかない。

 ここまでのヤツに出会うとは思ってなかったが、大丈夫。ツキはこちらにある。根拠は今日のロッドセレクトだ。バットにトルクがあって、大物にも耐えられる質実剛健のメイドインUSA。

 老舗メーカーの性能は伊達ではない。モンタナ州イエローストーンのレインボートラウトも引きずり出す、お前の実力を見せてやれ!


 そこから気合の入った格闘が続くこと約5分。鼻息荒く、ランディングネットに収めたのは45センチの銀毛ぎんけした魚体。

 やはりだった。

「サクラだな。これ」。

 サクラとは桜鱒さくらますのこと。基本的には海に下ったヤマメが大きくなって遡上そじょうしてくる個体のことだが、この下流にはダムがあるので本来のサクラではない。

 ただ、ヤマメがダムを海のように回遊し、大きくなって遡上してくることがある。「ダムし」などと呼ばれたりする個体。これがそうだろう。「銀毛ヤマメ」と呼んだりもする。

 ともかく、めったに出会うことのない大物に。ランディング後も手が震えていた。

 それにしても、眺めれば眺めるほどに綺麗な魚体。ヒレの欠損も無い、いわゆるヒレピン。釣り雑誌の表紙を飾れるくらいだ。

 早速、ベストから携帯を取り出し、いつもの撮影会を慣行。魚を相手に「いいね。最高。綺麗だね」と発しながら写真を撮る。端から見たら、単に危ない人でしかない光景だが、フライマンは気にしないのだ。

 ヤマメは「山女魚」と書く。オスかメスかは別として、渓流の女王の妖美に満足したところで、ふと腕時計に目を落とす。

「まずい……」

 約束の時間を一時間もオーバーしていた。梛乃、そしてすのりとかおれを近くのキャンプ場に置いたままだった。慌てながらも、渓流の女王を流れに戻し別れを告げたあと、超特急で撤収作業に移った。


「もう。やっぱり時間を忘れて、熱中しちゃったんでしょ。携帯も圏外だったから、ちょっと心配したよ」

 キャンプ場のサイトに戻ると、梛乃は膨れっ面。当然である。

「……ごめんなさい」

「すのりとかおれも、心配してたんだよ」

 テントの前に寝ころんで、ご機嫌にシッポを振って見せる二匹。それはないな、と心で呟きながら両方の頭を撫でた。

「ごめんな。すのり、かおれ。あとで渓流の女王に会った話をしてやるからな、楽しみにしてろよ」

「なによ、それ。ちょっと、興味あるわね」

 横で梛乃が苦笑する。

「よし。梛乃にも話してやろう」

「こら、調子に乗らない……さあ、夕食の準備するわよ。ここからは、私の助手になってちょうだい」

「了解です。シェフ」

 俺は返事とともに、同じく苦笑いで返した。

 つくづく梛乃はいい女だと思う。気が合うのはもちろんだが、寛容なところがいい。それは、単になんでも許すということではなく、受け入れた分に相当する緊張感を俺に与えてくれる。多分、ベタ惚れな俺が、彼女に依存し過ぎないでいられるのはそのためだ。

 母親の愛情を知らない俺は、どうしても異性に母性を求めてしまうところがある。だが、梛乃はそれをきっぱりと否定する。言葉にされたわけではないが、ちゃんと私自身を見なさいと訴えてくる。そんな彼女のおかげで、最近は俺も人間的にかなり成長したと自覚できるくらいだ。

 高校の時までは大人しくて守ってあげたくなる存在だったのに。今は先を歩いているように感じる。


 その夜は最高だった。キャンプ場の外れ。ひんやりした空気に伝わって聞こえてくるのは虫の声だけ。焚火のほのかな揺らぎが地面を照らし、仰ぎ見た彼方には無限に広がる星たち。

 折り畳みのベンチで梛乃と肩を寄せ合い、蜂蜜を入れた少し甘めのホットワインを酌み交わす。リラックスした表情のすのりとかおれが足元に寄り添う。まさに、アウトドア理想のシチュエーション。

 梛乃も感動したみたいで、とても喜んでいた。無邪気にはしゃぐ彼女を見ることができて俺も幸せだった。二匹の柴犬の感想は……良く分からない。


 このキャンプがきっかけとなり、それ以降、度々俺の釣りに梛乃と二匹の柴犬も同行することが多くなった。たまにキャンプも。

 もちろん、梛乃は釣りをせず見ているだけだ。何度か一緒に釣りしょうと誘ったが、「私の方が上手に釣っちゃうからダメよ」と根拠のない上から目線の理由で断られた。

 すのりとかおれは水遊びが大好きになった。でも、川を見たらすぐに飛び込もうとするのはすのりの方で、かおれはその様子を見つつ慎重に水に入る。そこでも性格が表れているのは面白かった。

 まあ、釣りに集中できる時間は短くなってしまったが、行き帰りの単独ドライブは寂しいと思っていたし、それはそれでありになった。なにより梛乃が楽しんでくれているのが嬉しかった。

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