【2】


【平成11年7月15日 朝】


 前日は早々と不貞寝ふてねしてしまった割に、目を覚ましたのは朝の6時を過ぎた頃のことだった。眠りこけてしまったらしい。7月15日の朝。いつも通りに支度をして会社へと向かうはずだったのに、その日で全てが一変してしまった。


 私の下宿先の朝食は、当番制で作ることになっている。仕事の都合などがあるため、昼食や夕食はおのおので用意することになるのだが、どういうわけだか朝食だけは当番制で作るという決まりになっていたのだ。ちなみに、そのローテーションは下宿人である私、竹藤、田戸の3人で回しており、大家である広田は入っていない。広田は食べて文句を言うほう専門だ。


 その日は私が当番だった。早めに会社に向かう支度をしてしまうと、そのまま共同の台所へと向かう。冷蔵庫にある食材は、下宿の賃料とは別に徴収され、これまた交代制で食材を買い出しすることになっている。このローテーションにも広田は含まれていないし、食材の費用だって出していない。ここの大家という立場を大いに利用して、タダ飯を喰らっていた。


 冷蔵庫から食材を取り出すと、まずはトースターに食パンを放り込む。パンを焼いている間にフライパンを温め、生卵を割った。目玉焼きを作りつつトースターのほうへと気を配る。タイマー式で勝手に止まってくれるのだが、しかし焦がしたことがあるためか妙に気になる。目玉焼きができあがると、それを皿へと移し、今度はウインナーを炒める。それもまたそれぞれの皿へと盛り付けると冷蔵庫に向かい、レタスを取り出す。適当なサイズにちぎり、ドレッシングを添えて出せばサラダの完成だ。レタスを盛り付け、トースターのほうへと目をやると、ちょうどタイマーがゼロになったところだった。


 パンをトースターから取り出し、バターを一緒に出せば朝食の完成。ソーセージにつけるのはケチャップかタバスコか、それとも粒マスタードか。任意で選べるように小皿に出す。ついでにイチゴのジャムも出してやった。コーヒーメーカーでコーヒーを淹れ始めると、頃合いを見計らったかのように、寝間着姿で寝癖までつけた竹藤と、出社する準備は完璧といった具合の田戸が顔を出した。


 竹藤とは腐れ縁であるが、田戸とはこの下宿先で出会った。通訳の仕事をしており、土日を除けば朝から晩まで忙しそうに飛び回っている。それでも、朝食だけは私達と食べる。この場が下宿人達が全員揃う、実に短いコミニケーションの時間だった。大家の広田は余計ではあるが。


「おはよう」


 竹藤と田戸の両者と挨拶を交わすと、カップを棚から取り出してコーヒーを注ぐ。ついでにシュガーポットを棚から出すと、テーブルの上に置いた。私、竹藤、田戸はブラックコーヒーを好むが、しかし砂糖がないと文句を言うやつが若干名いる。もはや、それが誰であるかと話題に出すこと自体が馬鹿馬鹿しい。


「目玉焼きがいい具合の焼き加減だね。やはり、目玉焼きは半熟じゃないと」


 まるで子どものような笑顔を浮かべながら田戸は着席する。するといまだに寝ぼけているように見える竹藤が「俺は完熟がいいね。半熟は生食してるみたいで嫌い」と、寝癖のついた頭をかいた。


「文句があるなら食べなくても結構」


 コーヒーを配膳したついでに、竹藤の目の前にある皿を下げる仕草をする。竹藤は「冗談、冗談」と苦笑いを浮かべた。このやり取りは朝のルーティーンのようになっていた。


「そういえば……大家さんは?」


 朝のコーヒーを一口飲むと、田戸は辺りを見回す。大家は朝食の時間に妙に厳しく、下手をすれば朝食の準備をしている最中に台所にやってくることさえあった。これまで早めに来たことはあっても、遅れてやってくることなんてない。早めに食べてしまって部屋に戻ってくれれば、私達も楽しく食事ができるのだが。


「さぁ? 珍しく寝坊でもしたんじゃないか?」


 竹藤が首を傾げる。すると田戸が「彼に限ってそれはないな。昨日の夜は静かだったし、早めに寝たみたいだから」と肩をすくめた。こんなこと、今まで一度たりともなかったことだし、大家の性格を考えると呼びに行ったほうがいいだろう。自分が起きれなかったことを棚に上げて「起こしにこなかったお前が悪い」と、人のせいにするに違いない。ただでさえ新人賞のせいで気分が落ち込んでいるのに、そこに大家の身勝手な説教が加わったら堪ったものではない。どうせ、なにを言っているか良く分からない説教なのだから。


「ちょっと呼びに行ってくる」


 私の判断に、田戸が席から立ち上がった。


「僕も一緒に行こう」


 このような時に積極的に動いてくれるのは田戸のほうだ。新人賞の発表の際に同席してくれるのも彼である。竹藤は腐れ縁であるがゆえの馴れ合いか、このような時に気を遣ってなどくれない。


「私1人では、彼に話が通じるか不安だから、そうしてもらえると助かるよ」


 大きく溜め息を漏らす私に、田戸は苦虫を潰したかのような表情を浮かべながら「心配しなくとも、僕が相手でも話が通じない時は通じないさ。特に怒ってる時なんて、全く話が通じない」と皮肉を込めた。大家は私達全員から嫌われていた。少なくとも、私は彼のことが大嫌いだった。ただ、殺したいほど嫌いだったわけではない。


 竹藤をおいて、私と田戸は台所から出る。大家の部屋は、洗濯場を挟んだ向こう側にあった。玄関にもっとも近い部屋だ。


 大家はとにかく横柄で自分勝手な性格だった。まず、自分の好きなようにルールを作りたがる。例えば、特別な理由がない限り夜間の外出は禁止である。一度、夜中に煙草をきらしてしまい、近くのコンビニまで行こうとしたことがあった。すり足で廊下を歩けば大家にもばれないと思ったのであるが、玄関にたどり着く前に大家が部屋から顔を出し、物凄い剣幕で怒り出した。私は慌てて頭を下げると、部屋へと逃げ帰ったものだ。


 竹藤と田戸も同じような目に遭っていたようで、その後の下宿人同士の会議のすえに、夜の外出は玄関を経由せず、窓から外に出てしまうという大胆な結論にいたった。だから、この下宿先に住んでいる人間は、自分の部屋に外出用の靴を置いていた。


 大家はとにかく音に敏感のようだ。テレビの音がうるさいという理由で、いきなり部屋に入ってきて頭を叩かれたことがあった。足音がうるさいという理由で部屋に殴り込んでくることもあった。同じ屋根の下で生活している以上、価値観の違いをはじめとして、どうにもならない点というのが必ず出てくる。それを互いに譲歩してこその共同生活だと思うのだが、大家は私達のことを安い金で住まわせてやっている奉公人だとでも思っているのだろうか。


 下宿人には食事の世話から離れの掃除までやらせるくせに、自分は何もせずに私達を見下し、働きもせずに3食昼寝つきの優雅な生活。ここで下宿している以上、緩やかに大家に搾取され続けるような気がしてはいるのだが、しかし他にアパートを探して出て行くような余裕はない。それは竹藤と田戸も同じようだった。


 大家の部屋の前で、なぜだかアイコンタクトを交わす私と田戸。自然と田戸がドアの前へと立ち、拳を作って大家の部屋のドアを叩いた。私のほうを見て首を横に振る田戸。もう一度、大家の部屋のドアを叩いてみるが、反応がないようだった。


 田戸がドアノブに手をかけ、やや躊躇ためらった様子でそれを回す。半開きにしたドアに首を突っ込んだ田戸は、慌てた様子でドアを開け放った。廊下で様子を見ているだけだった私にはなにがなんだか分からず、情報を求めるかのように開け放たれたドアから部屋の中へと視線を投げ込んだ。部屋は乱雑にものが散らばっており、土足で歩き回ったような足跡が無数につけられていた。部屋の中心では大家が仰向けに倒れており、田戸が肩を揺さぶっているが、まるで反応がない。私のほうへと振り返ると「救急車を呼んでくる! ここは任せた!」と、田戸は私の脇を駆け抜けた。

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