田戸に任された私は、狼狽しながらも大家の広田へと駆け寄った。働きもせず、家のこともしていないせいか、貫禄のある太りかたをしている広田は、仰向けになったまま動かない。目は見開かれているが焦点が合っておらず、その眼球は白濁しているように見えた。首にはロープで締めたような跡が残っていた。


 ――死んでいる。しかも自然死ではなく、何者かの手によって殺されている。


 私は念のために広田の首筋に手を当ててみた。冷たくなってしまった首筋から、命の鼓動は感じられなかった。田戸にこの場を任されたわけであるが、私にはなにもできなかった。いや、やろうと思えば心臓マッサージをしたり、人工呼吸したりするくらいはできただろう。しかしながら、それが無駄だと素人でも分かるくらい、広田の体は完全に死体と化していたのだ。もう、魂の抜けきった抜け殻。本能的にそう察することができた。


 窓が開いてることに気づいたのは、趣味の悪い赤色のカーテンが揺れていたからだった。部屋に残されている泥のついた靴の跡。もしかすると、何者かが窓から侵入したのかもしれない。そう考えた私は窓際のほうへと向かった。それは、広田の遺体から離れたいと考える逃避行動だったのかもしれない。


 足をかけたのであろう。窓枠にも泥が付着しており、窓の外には足跡が伸びていた。台風が近づいていることは知っていたが、窓の外がぬかるんでいることから考えるに、一晩でかなりの雨量があったようだ。窓の外へと伸びる足跡には、雨水が溜まっていた。


 窓から身を乗り出し、足跡を目で追いかけてみて、私は我が目を疑った。なんと、足跡は私達の部屋のほうへと伸びていたのだ。もしかすると、広田を殺害した犯人は――私達の中にいるのだろうか。にわかには信じがたいことだったし、信じたくもないことだった。けれども、足跡が敷地の外に出て向かって伸びていることなどはなく、何度確認しても私達の部屋の辺りと、この部屋を往復しているだけだった。


 救急車の赤色灯が見えた私は「ここだ」とばかりに手を振った。救急車を呼んだ後、母屋のほうへと走ったのだろう。田戸と母屋の人間――大家の両親が母屋のほうから駆けてくるのが見えた。人の気配を感じて振り返ると、顔色の悪い竹藤が部屋の前で立ち尽くしていた。


 広田の両親と田戸が部屋に駆けつけた。私は広田の両親に頭を下げると、入れ違いになる形で部屋を出た。どんな奴であろうとも広田の両親にとっては大切な子どもなのであろう。到着した救急隊員に運び出される広田に付き添う母親の涙が、なぜか私の心をえぐった。


 そこからは記憶が実に曖昧だ。さすがに起きたことが起きたことだけに、私の頭の処理能力を超えてしまったのであろう。しばらくすると警察が到着して、私達はそれぞれの部屋で待機するようにと命じられた。


 部屋に帰った私は、何度か深呼吸をして自分を落ち着かせる。そして、部屋の窓の外を覗いてみた。やはり、窓の外には足跡が残っていた。しかも、私、竹藤、田戸――誰の部屋に続いている足跡なのか分からなくするために、私達の部屋の前を踏み荒らしたようになっていた。けれども、私達の部屋から伸びる足跡は広田の部屋の窓際へと続いている。となると、私達3人のいずれかが広田を殺害したことになる。いいや、殺害したと断定することはできないが、少なくとも、部屋の窓から外へ出て、広田の部屋へと向かった人物がいるということになるだろう。


 私は自分が犯人ではないことを知っている。確かに、大家の広田のことは嫌いであるが、殺したいと思うほどではない。ならば、広田の部屋に向かったのは、竹藤か田戸ということになってしまうのだろうか。そして、どちらかが広田を殺害した。もし万が一そうだったとしたら、果たしてどっちが――。


 竹藤は昔からの付き合いであるし、自他共に認める腐れ縁だ。だからこそ、人を殺すなんて真似ができる奴ではないことを私は知っている。田戸との付き合いは短いが、面倒見が非常に良く、同じ下宿人である私と竹藤は大変に助かっている。そんな彼が人を殺すとも思えない。


 ――警察の捜査というのは、どのような手順をもってして行われるのだろうか。もしかすると、現場の責任者の思いつきで行われているのではないかと疑ったのは、田戸が私のことを呼びに来た時のことだった。なんでも、各人の部屋の中を調べたいとのことで、部屋で待っていろと指示したくせに、今度は部屋の外に出ろとのことらしい。一応、プライベートな空間であるし、そこを家探しされるのは嫌だったが、捜査のためとあれば仕方がない。私は素直に従って廊下へと出た。


 廊下には多くの捜査員が待機しており、私達が出てくるのを見計らったかのように、私達の部屋のほうへと押し寄せてきた。私は思わず声を上げて廊下の一部分を指差した。捜査員達が一瞬だけ動きを止め、不思議そうな表情を一斉に私のほうへと向けてくる。私がどう伝えたものかと考えあぐねていると、何事もなかったかのように捜査員達は動き出した。私が声を上げたのには明確な理由があったのにだ。


 私は内心でどうなることかと思った。実は私がこの下宿にやってきてしばらくした頃のこと。この辺り一帯でわりかし大きめの地震があったのだ。その際、建物の構造にズレが生じてしまったのか、廊下が全体的に沈むようになってしまったのである。元々、改装工事の時に手抜きでもあったのではないか――とは竹藤の言葉だ。私達が日常で使用する分には問題ないのだが、大勢の捜査員が一斉に廊下に乗ったら、床が抜けてしまうのではないかと私は危惧したのだ。確か、私達の外出禁止令が出たのもその頃のことである。廊下の床が抜けるかもしれないし危ないから――と、当時は勝手に大家の優しさに変換していた自分が情けない。


 私の心配は杞憂きゆうに終わった。目に見えて床が沈んだように見えたものの、床が抜けてしまうなんて事態にはならず、めでたく……と表現するのはおかしいのかもしれないが、捜査員達はそれぞれの部屋の捜査に取りかかった。このような時は令状のようなものが必要なのではないかと思ったのであるが、もう時すでに遅し。もしかすると、実質上の持ち主である母屋の旦那様――広田の父親に許可を取ったのかもしれない。


 廊下で立ったまま待っているのも落ち着かないからと、田戸の提案で私達は台所までやってきた。テーブルにはもう冷めてしまったコーヒーや、水気を失って表面が乾いてしまったソーセージと、きっと固くなってしまった目玉焼きなどが、朝と変わらぬ様子で並べられている。パンなんて歯ざわりが悪くなってしまって食べられたものではないだろう。この騒ぎで私達は朝食を食べ損ねてしまっていたわけだが、それに手を伸ばす気にはなれなかった。


「――さっき窓の外を見た。足跡が俺達の部屋の前で途絶えてた。誰なんだ? 誰が大家の部屋に行ったんだ? 大家の部屋で何をした?」


 竹藤が私達に向かって不安を吐き出すように疑問を連ねた。誰が殺したんだ――と表現しなかったのは、私達のことを信じたいという彼の想いだったのかもしれない。


「素人がそういうことを考えないほうがいい。今は警察に任せよう」


 私達のあいだで疑心暗鬼になるのが嫌だったのであろう。田戸が話を終わらせようとする。


「でも――」


「きっと警察が解決してくれる。私達にできるのは、それを待つことだけだ」


 納得いかない様子の竹藤だったが、私が田戸に味方したことで、仕方がないとばかりに小さく頷いた。


 こうして警察に任せた結果が、私を追い詰めることになるのだ。この時、竹藤と田戸の両名と追及するべきだったのかもしれない。つまり、犯人は私達の中の誰なのかということを。


 ――私の部屋から泥まみれの靴が発見された。

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