続いて十字を切るかのごとく、再びカッターの刃を鏡に突き立てると、そのまま横方向へとなぎ払った。普通、鏡にカッターの刃を突き立ても、せいぜい傷が付くだけであろうに、千早がカッターの刃を走らせたところには、くっきりと筋が残っていた。普通の鏡ならば、筋がくっきり残るなんてことはあり得ないはずだ。


「どうやら、私の思った通りだったようですね――。犯行をスムーズに行うには、これくらい簡素なものであるほうが都合良いでしょうし」


 千早は誰に言うでもなく口を動かしながら、縦と横に入れた筋がちょうど交差する部分に爪を立てた。しばらくすると、べりべりべりと音を立て、筋に沿って鏡が剥がれた。その下からアクリル板らしきものが顔を出す。そのさらに下には、また鏡らしきものが見えた。


「ご覧の通り、奥側の鏡と同じサイズに切り出したアクリル板にミラーシートを貼り、犯人はそれを両面テープで奥側の鏡に貼り付けておいたんです。まさか本物の鏡の上に、偽物の鏡が貼り付けてあるなんて誰も思いませんから」


 ミラーシートが剥がされてしまったことにより丸見えとなってしまったアクリル板。その角には、アクリル板越しに両面テープらしきものが貼り付けられているのが見える。


「犯人があらかじめ用意した偽物の鏡。おそらく、剥がしやすいように、鏡の上部だけに両面テープを貼って固定していたのでしょう。そして事件当日、タイミングを見計らってエレベーターに乗り込んだ犯人は、アクリル板で作った偽物の鏡を剥がし、本物の鏡と偽物の鏡の間に身を隠したのです。だからこそ、犯人の体格分、鏡の位置が前に出る形になってしまい、映る範囲が変わってしまったせいで観葉植物が合わせ鏡の中に映り込まなくなってしまったのです」


 犯人が身を隠していたのは、エレベーターの天井ではなかった。実は堂々とエレベーターに乗り込んでいたのだ。ただし、奥側の鏡に偽装した鏡の裏に隠れていたわけであるが。


「でも、それって奥側の鏡が前にせり出す形になっていたわけでしょ? それだけの変化があれば、誰かが気づきそうなものだけど」


 当たり前だが、千早の中では筋道ができてしまっているのだろう。愛の疑問も想定内とばかりに切り返す。


「それはきっと、合わせ鏡になっているというエレベーターの構造が功を奏したのだと思います。合わせ鏡の先には無数の空間が広がり、人間の空間認識能力を狂わせます。つまり、多少の違和感を抱いても、それを合わせ鏡による錯覚であると処理するわけです。犯人にとって現場が合わせ鏡のエレベーター内であるということは最高のお膳立てだったのかもしれません。いえ、このエレベーターの構造が合わせ鏡だったからこそ、犯人は今回の犯行を思いついたのかも」


 合わせ鏡というものは、実際にやってみれば分かるのだが、延々と鏡の世界が広がっているように見えるものだ。遊園地などで鏡の迷路に迷い込んでしまった時のような感覚とでも例えようか。とにもかくにも、どちらを見ても鏡の世界が広がっているため、空間認識能力が錯覚を引き起こす。よって、少しくらい奥の鏡が前に出ていても気づかないのである。事実、動画越しで見ていた班目もまるで気づかなかったし、ラクレスのメンバーも全く気づいていなかったのだ。合わせ鏡という特殊な空間があってこそ、このトリックは成立したということか。


「ここまでお話しすれば、後は考えるまでもありません。エレベーターの中に身を隠した犯人は、最上階でマソンヌさんがカネモトさんを見送った後、動き出したエレベーターの中でカネモトさんを殺害しました。凶器は犯人が偽物の鏡の裏に隠れる際に、一緒に持ち込んだのでしょう。そして、カネモトさんを殺害した犯人は、そのまま再び偽物の鏡の裏に身を隠したのです」


 蓋を開けてみれば、なんとも単純なトリックだったのだ。偽物の鏡を用意し、それを奥側の鏡であると誤認させることにより、自身が身を隠すスペースを確保した。そして犯人はエレベーターの中でカネモトを殺害したのだ。しかし――そう考えると大きな問題。いいや、根本的な問題にぶち当たる。犯人が千早の言うようなトリックを用いたとして、どのタイミングでエレベーターに乗り込み、そしてエレベーターを降りたのか。そして――それが可能な人物など、果たして現場にいたのか。


「ここで犯人の動きを整理しておきます。動画の冒頭部分――最初にエレベーターを呼び出した時は、しっかりと合わせ鏡に観葉植物が映り込んでいます。つまり、奥側の鏡の位置も正常な位置にあったと考えられます。しかし、カネモトさんが博士さんに見送られてエレベーターに乗る際には、すでに観葉植物が合わせ鏡の中に映り込まない状態になっていました。つまり、この時点で犯人はすでにエレベーター内に乗り込んでいたことになります」


 班目は頭の中で動画を再生する。カネモトが乗るべく呼んだエレベーター。扉が開いた時、すでに奥側に見える鏡は偽物になっており、その偽物の鏡の向こう側に犯人が身を潜めていたことになる。こうして、エレベーターに犯人が乗り込んでいるなどと知らないカネモトは、博士に見送られてエレベーターに乗り、何も知らないまま最上階のマソンヌと言葉を交わし、そして1階へと戻るエレベーターの中で犯人に殺害された。理屈として筋は通っている。でも、最大の問題が残っている。それはラクレス全員にアリバイがあるということだ。


「ここで重要になるのは、一体犯人はどのタイミングでエレベーターに乗り込んでいたのかということです。動画の冒頭では、犯人がエレベーターに乗り込んでいた形跡はありませんでした。しかし、5分ほどの準備時間を置いてから生配信が再開された際には、すでに犯人はエレベーターに乗り込んでいました。つまり、犯人は生配信が止まった5分の間にエレベーターの中へと乗り込んだと思われます」


 もはや千早の独壇場のようなものだったのであるが、そこでも物怖じしない様子で「あのさ――」と切り出す一里之は、きっと度胸のある男なのであろう。空気をまるで無視して口を挟む真似は、誰にでもできることではない。


「その準備時間に、ラクレスが試しにエレベーターに乗ったんだよな――。で、その時にブザーが鳴った。でも、ラクレスの体重を足しても最大積載量にはならない。あぁ、その時もう犯人がエレベーターに乗り込んでいたってことか。だから、積載量をオーバーしてブザーが鳴った……って、あれ? なんかおかしくね? ラクレス全員がこの時点でエレベーターに乗ってるのに、犯人もエレベーターに乗ってたってことになるわけだろ?」


 口を挟んだものの、疑問符に翻弄ほんろうされるかのごとく首をかしげる一里之の姿を見て、千早がくすりと笑ったように見えた。その横顔に見とれてしまいそうになる。元より顔立ちは整っているが、千早はごくごくたまに、とんでもなく魅力的な表情を見せる時がある。まさしく、今のがそれだった。


「犯人の一連の動きを説明した後に、そちらの問題に取り掛かるつもりでしたが、どうやら一里之君が決定的な矛盾に気づいたみたいです。そう、ラクレスの証言通りであれば、5人で試しにエレベーターに乗ってみた時点で、何者かがエレベーターに乗っていたことになります。では、一体誰が乗っていたのか? 私達は動画越しに全てを見ていたせいで、当たり前のように存在しているはずの人を見落としてしまったのです。それは――」


 千早はそこで言葉を区切ると、ハンディービデオカメラを構えるような仕草を見せた。もう、答えを導き出すには、それだけで充分だった。


「冒頭でラクレス5人の挨拶をです。つまり、おばけマンションにいたのは、ラクレス5人だけではなく、そのカメラマンを含む6人だったんです。私はあえてこのカメラマンを【6人目のラクレス】と呼ばせてもらいます」

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