帝国憲法第四条/戦争放棄
平和そのもの。それがこの国の街を見て俺が抱いた第一印象だった。文化や歴史は勿論異なるが、サングラス越しに見える景色には国民のリアルな生活が映っている。それはクロノワール王国も紅帝国も変わらない。
「誰もが毎日を必死に生きているんだ」
ただ一つ決定的に違う点があることに俺は気がついた。
「偽物なのかな…」
俺たちの国は一見平和だが、休戦中とはいえ今現在も戦時体制に他ならない。対してこの国は先の大戦で敗戦を喫してからというもの、戦争を完全に放棄した。正式な軍はこの国には存在しない。存在するのは街の治安を守る警察と王室を守る王室警備隊、そしてこの国を守る国家防衛隊のみ。飽く迄専守防衛に徹する。クロノワール王国という国は、諸外国より一足早く争いを卒業し、世界の誰もが認める一流国家の仲間入りを果たしたのである。だとすれば戦時下の俺の祖国に蔓延る平和は鍍金に塗れた偽物だ。
「ちょっとアンタ!」
街角のカフェから出てきた三人の男が口論を始めた。うち四十半ばくらいの二人は連れらしく、もう一人の男が必死の形相で二人に何かを訴えている。年の頃は三十そこそこ。恐らくカフェの店主だろう。
「だからこのコインじゃこの国では買い物できないんだって! これ、この国の通貨じゃねえだろ?」
「だったら何なんだよ?」
「アンタらが払ったのは五百モス。で、アンタらのお茶代の会計は五百モノン。通貨が違うってことは価値が違うんだよ! ってか五百モスの価値って五十モノン相当だろ…」
「金は金だろうが! 俺たちはしっかり代金を支払った。これ以上喚くと警察呼ぶぞ!」
簡単な話だ。国によって通貨は違う。すると当然貨幣価値も異なる。何よりその国々で流通している貨幣を使うのが国際常識だ。二人組の希望通りに警察に突き出してやればいい。今回は疑いの余地無く店主に利がある。
だが、事はそう運ばなかった。
「まあ待て、落ち着けよ。何も警察沙汰にする程のことじゃねえだろ? …ったく分かったよ。今回は五百モスでお支払いね。毎度〜」
なぜそうなる。警察という単語を聞いた途端、心做しか店主の表情が一転したように見えた。
「クソ…負けるってのはこういうことなのかよ。二度と来るな疫病神共」
二人組の姿が完全に見えなくなったのを確認してから、地面に膝を突き店主はボソリと呟いた。目の前で起きた理不尽を放っておくことができず、考えるよりも早く俺は店主に歩み寄った。
「ご主人…ですよね? あんなの野放しにしちゃダメでしょ。貴方は悔しくないんですか?」
“店長・
「悔しいに決まってるだろ…。でもあいつらじゃ相手が悪すぎる」
話の全容が見えてこない。だが、やんごとなき事情が彼に矛を収めさせたことだけは何と無く察した。
「相手が悪い…? 只のオッサン二人にどうして…」
「アンタ、気づかなかったのか? あの二人、あの国の連中だっただろ。而も外交官の類だから始末が悪い」
「どうしてアイツらが外交官だって…?」
「二の腕にタトゥーがあったんだ。十字架を模した忌々しいタトゥーが」
ここまで聞いて漸く俺は理解した。十字架のデザイン…。現代に於いて十字架をモチーフとした国旗を掲げるのはあの国しか無い。
「翡翠共和国…ですね?」
もっと早くに気づくべきだった。連中の払ったモス硬貨は翡翠共和国の通貨だ。
「あの国の外交官は国への忠誠を表すために、派遣先の国で十字架の国旗を体のどこかに彫るんだ。外交官連中のくだらねえ風習らしい」
「だけど警察に仲介してもらえば難なく解決なんじゃ…」
「この国の警察なんてアテにならねーよ。あの国の連中は自分らの主張が通らないと差別だヘイトだって騒ぎ始めるんだ。警察も随分前からアイツら側だし、上層部は金玉握られてんだろうぜ」
「こんなに平和な国なのに…」
「この国の平和は表向きだけのハリボテさ。実体なんて所詮こんなもんだ。負けるってのはこういうことなんだ」
俺はとんでもない誤解をしていたのか? クロノワール王国は大戦で負けて真の平和を得たのだと、俺は学校でそう教えられた。俺に限らず戦後世代は誰しもこう教わったはずだ。先の大戦は連合国の勝利、悪の枢軸に天誅を下したと。でも実際はどうだ? 当時目紛しく変化する世界情勢に巻き込まれる形で、我帝国とクロノワール王国は連合国と枢軸国に分かれ文字通り命懸けの激戦を演じた。二国間の一騎討ちの戦争ではなかったし、今でこそ百年前から続く友好関係を取り戻したが、敗戦という事実は一見平和に見えるこの国に未だ燻っているということだろうか。もう七十年以上も昔のことだというのに。
「勝てば官軍負ければ賊軍。だがなあ、あいつら翡翠共和国は連合国じゃない。俺たちと同じ枢軸国だったんだよ。紅が連合国なら翡翠は枢軸だと言わんばかりに、戦況も世界情勢も読まずに参戦したんだ。そして負けた。知っての通りその後は連合国による三年間の占領が始まる訳だが」
「負けたはずの翡翠共和国が戦勝国ぶってこの国で跋扈しているのが、現代に於けるクロノワール王国の現実か…」
「そういう訳だ。兄ちゃん、外人さんだろ?」
「分かりますか?」
「そりゃあ、その髪を見ればな。紅帝国の出身だろ?」
「ええ。でも母はクロノワール王国の生まれなんですよ」
「へ〜、そうかい。お袋さん、故郷はこの国のどの辺りだい?」
「ネロ市の出身です。八年前に事故で死んじゃったんですけどね」
「さぞや美人さんだったろう。ネロ市は王国きっての美人生産地として有名だからな」
確かに身内の贔屓目無しにしても美人だったと思う。紅帝国では見られないミステリアスな雰囲気が印象的な美人だと評判だった。外国人が紅室に入る前例など無かったにも拘らず、歴史上最も帝国臣民に愛されたプリンセスと見る向きもある。
「そういえば、クロノワール出身で紅帝国の紅室に嫁いだあの人も相当な美人だったなあ。ネロ市でもあのレベルの美人なんてそう見ない。あんなことになっちまったけど、彼女は今でも俺たちクロノワール人の誇りさ。負けて自信を失っても民族としての誇りだけは失っちゃいけないって彼女が教えてくれた。同胞が海外で認められたことが、この国の奴らはどうしようもなく嬉しかったんだ」
彼が話しているのは俺の母、紅祇黒魅のことだろう。きっと目の前で話している外国人の男がその女の息子である事実に気付いていない。
「その女性、紅帝国に嫁いでも変わらず王国のことは愛していましたよ。彼女は自分の愛した人の祖国と同じくらい、自分の祖国のことも想い続けていたんです。」
「そうだといいけどな〜。彼女亡き今では分からんよ。死人に口なしってな」
「いえ、俺には分かります。自分の母さんのことくらい、マザコンプリンスは誰よりも知ってます」
俺の中に流れるクロノワールの血液が、第二の祖国の
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