Challenge day―挑戦(前)

        1

 舞台裏へ通じる階段を登ろうとした時、背中に気配を感じた。


 胸が高鳴る。


 がここにいるはずがない。


 コンクールに参加することは神成先生にしか知らせていないからだ。ああそうか、神成先生が教えたのか。


 振り返ると、思った通りの人物がいた。


 久しぶり。


 元気だった?


 言葉は必要ない。並み一通りの挨拶は、頭の中に響くだけで終わった。


 「アキラ、これ覚えてる?」


 胸ポケットからミニチュア楽譜を取り出してみせると、アキラは「ああ。昔、見せてくれたね」と微笑んだ。


 「これ、ずっと神成先生の家に置きっぱなしになっていたんだ。控室でついさっき受け取ったんだけどね……。なんと、渡してくれたのは中溝先生だったんだ」


 驚くだろうと思ってを入れたのだが、アキラは見惚れてしまうようなその微笑を一切崩さなかった。


 「神成先生の代理かな」


 「アキラ、知ってたの?神成先生と中溝先生が結婚していたってこと」


 「うん。小学生の時に一度会ったことがあるからね」


 「ああそう……。すごい記憶力」


 相手はアキラだ。いちいちこちらが驚いていてはキリがないだろう。


 「もうすぐ出番だね?」


 「うん」


 「じゃあ、ボクも席に戻るね」


 励ましや応援は無く、たった数十秒の逢瀬。


 多くは語らない、ということだろう。




 去年、音楽準備室での一幕。夏の熱が宿った、アキラの瞳を思い出す。




 『周りは関係ない。結果もいらない。余計なことは考えなくていい。何かに気を取られてしまうのなら、ボクのことだけ考えて』




 アキラ、今日は来てくれてありがとう。



                         2

 アキラと別れて舞台裏へ辿り着くと、ちょうど誰かの演奏が終わったところだった。


 演奏を終えた男性がステージから戻ってきて、今度は袖に立っていたロングヘアのシルエットがステージへ踏み出した。藤友道歌だ。


 彼女の演奏が終わったら、僕の出番だ。


 『唐木田さん。私、負けないですから』

 

 パイプ椅子に座って出番を待つつもりだったが、気が変わった。


 客席から見えないぎりぎりの位置に立ってステージを眺める。藤友道歌は椅子の高さの調節を終えたところだった。


 おもむろに両腕を持ち上げて鍵盤の上に置くと、そこからはなんの躊躇いもなく第一音が鳴らされた。


 ダーン!


 


 華奢な身体からは想像もつかない、骨太のバルトークだった。



 



 変わっていないな。


 それは観客席の高峯アキラが、藤友道歌の演奏に対してまず一番に思ったことだった。


 〈バルトーク ピアノソナタ〉。


 現在の淑やかな印象に反して、彼女は昔からこういった曲を好んで弾く。


 バルトーク、あとはプロコフィエフやリストなんかも好きだったはずだ。


 あの頃はテクニック的に弾ける曲も限られていたが、演奏を聴く限り、今はこの作曲家たちの多くの曲を弾くことができるだろう。


 これまでのアマチュア部門の演奏の中では、はっきり言ってレベルが違う。優勝候補の一人であることは間違いない。


 一人、というのは勿論、唐木田ショウがいるからだ。


 重々しい二楽章が終了し、締めにふさわしい疾走感を持つ三楽章が始まった。民俗舞曲的なテーマが形を変えながら繰り返し登場し、フィナーレに向かって加速し続ける。


 目まぐるしく変わる拍子で踊り狂う変則的なリズムを完全にモノにしている。細腕が放つ鋭く派手な打鍵が会場をグルーブの渦に引き込む。


 渾身の一撃が放たれ、道歌が椅子から立ち上がるより前に拍手が起こった。


 全国大会とはいえ、アマチュア部門は一般部門に較べて観客席がかなり寂しいものになっている。その理由は言うまでもなく演奏レベルだ。そんな中での一般部門にも匹敵する快演に、会場の興奮具合が伝わってくる。




 ショウくんは平気だろうか。




 ショウや周囲の評価によると、『気品を保った丁寧な演奏』がアキラのスタイルらしい。要するに真面目な演奏ということだ。


 一方でショウは清潔で伸び伸びとした音を持っている。これは簡単に手に入れられるものではない。粗削な演奏だとしてもこの要素は必ず残る。アキラも真似できない、天性の持ち味だ。


 それを本人が否定してしまっているのだから、もどかしい。


 謙虚さは何事にもプラスに働くが、過度な謙遜は成長を阻害する。それどころか、真価を半分も発揮できないまま過ごしてしまう可能性もある。周囲の評価と本人の決めた限界が全く噛み合っていないことほど、外から見ていて惜しいことはない。無論、ピアノに限った話ではない。


 彼に根ざす自己肯定感の低さは、そう簡単に変わるものではないだろう。


 だからこそ優勝を、彼が彼自身を認めるための第一歩にしてほしい。


 実績の積み上げが、小さな自信の重なりが、卑下する心を癒すはずだ。


 彼が謙虚さを忘れることはきっとないから、大丈夫。





 演奏を終えた藤友道歌が、舞台袖へ戻ってくる。手を叩いて迎えたが、道歌はこちらを少しも見なかった。



 「次の方はステージへどうぞ」という声に導かれて、真っ直ぐと歩き出す。



 ──さあ、決着をつけよう。




バルトーク/ピアノソナタ

https://m.youtube.com/watch?v=GWMbN7dL3gQ&feature=youtu.be

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