Challenge day―期待(後)
3
「唐木田くん!」
そう言ったのは、誰も予想だにしていなかったであろう人物だった。
綺麗に磨かれた黒縁眼鏡。知的で優しい物腰。
最後に会ってから半年も経っていないというのに、ひどく懐かしく感じる。
「
高校3年生の時のクラス担任だ。3年間、物理の教科担任でもあった。
「よかった。間に合ったみたいだね」
どうしてここに中溝先生が?
混乱している僕に、藤友道歌は「本番前に失礼しました。では」と微笑んで去っていった。中溝への会釈も忘れない。全く落ち着いた子だ。
「話の途中だった?」
「いえ。中溝先生はどうしてここに……」
「これを渡したくてね」
中溝が差し出したのは、手のひらにすっぽりと収まるサイズのミニチュア楽譜だった。
「家を整理していたら出てきたんだ。今までは気が付かずに放置していたけど、よくよく見ると、どうやら僕達のものではないらしい。これ、唐木田くんのでしょう? 君が教室に通っていた時に置き忘れていったんじゃないかって、妻が。お守り替わりにもよさそうだ」
思い出した。
このミニチュア楽譜は、小学生の時に叔父にもらったものだ。アキラに見せたくて、神成ピアノ教室に持って行った。僕とアキラはレッスンの順番が連続していたので、神成先生も交えて三人で“おしゃべり”する時間があったのだ。
アキラにミニチュア楽譜を見せて、僕のレッスンも終わったあと──帰り際に教室の玄関に飾ってみるといい具合に溶け込んでいたので、意図的にそのまま置いてきてしまったのだ。だから、忘れものではないんだけれど……。
え?
妻?
頭の中で無数のクエスチョンマークが踊る。
中溝は少し照れくさそうに、軽く咳払いをした。
「申し遅れました。中溝凪紗──旧姓、神成凪紗の夫の中溝
「中溝先生と神成先生が夫婦……?」
「君が気が付いていなかったのも仕方がない。ピアノ教室は旧姓の名義でやっているし、僕が“神成先生”の夫として登場したのは、君たちが小学校2年生の時だけだったからね」
つまり中溝先生は、僕が“サキチャン”で転校生のアキラが“レイチャン”だということを最初から知っていたのだ。去年の四月、
偶然ではなく、必然だったのだ。
「……そういうことですか。学校案内の日に僕が『どうして僕なんですか』と聞いた時、『なんとなくだよ』と言いましたよね。『高峯くんは君の幼馴染だからだ』と言ってくれなかったのはなぜですか?」
「邪魔しちゃいけないと思ってね。あの時の君に本当のことを言ったとして、君は後々アキラくんと今の関係になれただろうか」
たしかにその通りだ。アキラがレイチャンであると事前にしっていたら、僕はもっと意固地になっていただろう。
「事情は理解しました。今日は、神成先生は?」
「妻は病院。彼女がどうしても君の演奏を見たいと言うので、代わりに僕が来たんだ」
中溝はにっこりと笑った。
「病院って。神成先生は大丈夫なんですか」
「メニエール病ってわかるかい?今日は少し症状が酷かったので、病院で点滴を打って休んでいる。大丈夫だよ」
「そんな。僕なんかのことはいいですから、神成先生のところにいてあげてください」
「僕は妻の意思でここに来ている。彼女は今日を本当に楽しみにしていたんだ。勿論、僕もね。『僕なんか』と卑下する必要はない。言葉の綾じゃなくて、君の場合は本心からいっているんだろう?」
「さあ……」
「3年間、わずかではあるが君の姿を見てきた者として言わせてもらおう。君は立派な青年だ」
「……ありがとうございます。中溝先生は先生たちの中で一番若かったけれど、一番尊敬していました」
「ありがとう。じゃあ、いってらっしゃい」
《演奏番号10番、11番の方は、舞台裏に──》
いざ勝負。
相手は勿論、僕だ。
※1 本編第2話参照
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