③高峯アキラの暴走
本編『エレガント・セレナード』の大幅なネタバレを含みます。
*
「アキラくん。君にとって、音楽って何なのかな?」
その問いかけに、高峯アキラは詰まってしまった。
1
ポキッと音を立てて、シャープペンシルの芯が折れた。
(今日だけで3回目…)
集中力が落ちている証拠だ。アキラは溜息を吐いて、座ったままグッと背伸びをした。
来年度から、彼がいる高校に転校することが決まった。つい昨日の事だ。
アキラの集中を阻害する要因は、それに違いなかった。
3月中旬の転入試験に合格する必要があるので、正式にはまだ決定じゃない。しかし、合格以外の可能性は、アキラの中から完全に排除されていた。
2ヶ月もしないうちに、彼に会える。しかも、一年間は同じ学校で過ごせる。運が良ければクラスメイトになれるかもしれない。
そのあまりに突然で魅力的すぎる決定に、アキラの脳は若干混乱していた。
だが、混乱している場合ではないのだ。明日には全日本クラシックコンクールの全国大会が控えている。
一日に集中できる時間は限られているので、当日はほとんどピアノを弾くことなく本番に臨むのがベストだ。だから、しっかりとした練習ができるのは今日まで。
(もう寝ようか…)
練習を終え、いつも通りの生活をするため勉強を始めたものの、集中しきれていないのを自覚していた。
さっきまでの練習でも、いつものようにピアノと自分だけの空間ができる感覚が無かった。
(突然決まった転校、それに気を取られているのか?)
アキラは現代文の参考書を
2
集中力を高めるため、本番前はオレンジジュースを飲む。これは神成ピアノ教室にいた頃に伝授されたルーティンだ。
(そういえばサキちゃん…ショウくんは、オレンジジュースと間違えてココアを買ってしまって、泣きそうになってたんだっけ)
その時は結局、アキラが 『本当はココアを飲みたい気分だった』と言って、飲み物を交換したのだった。
アキラはくすりと笑って、オレンジジュースを飲み干した。
楽譜を持って、舞台袖へ移動する。
薄暗く感覚が研ぎ澄まされる場所。
舞台で歌うピアノの音。
楽譜を指で叩く音。
自分の革靴の音。
鼓動の音。
ショパン、プロコフィエフと演奏は順調に進んでいるはずだった。
最後へ持ってきた曲、ラヴェルの〈水の戯れ〉の前に息を整えている時のことだ。
(次の曲は……ピアニッシモ……繊細、しかも芯のある音で、鍵盤をくすぐるように……)
アキラは、自分の指が膝の上で小刻みに震えていることに気がついた。
コンクールで演奏する時はいつも、集中してあっという間に出番が終わる感覚があったが、ここまでの演奏ではそれが無かった。そして今も、震える指に意識が向いてしまっている。
『コンクールで弾くラヴェルの曲って、指震えませんか? 僕はもう弾きたくないなぁ』という、同じ教室に通う男の子の言葉までもが頭をよぎった。
(まずいな…)
そう思った瞬間、アキラは反射的に鍵盤へ手を置いていた。
指先を制御して噴水の流れ、きらめきを表現する。入りは上手くいった。
しかし、指が鍵盤を上滑りしているような感触が拭えず戸惑う。
集中してあっという間に曲が過ぎていく感覚、それもますます無くなっていく。
いつもなら気がつくと曲が終わっていて、インタビューなどで『演奏中に何を考えていたか?』と聞かれても、集中していたのであまり覚えていない、と答えるだけだったのに。
アキラは焦り始めた。
(なにか変だ…)
時間が流れるのが遅い。
余計なことが頭をぐるぐると駆け巡る。
(曲に入り込め…)
それこそ水に呑まれ、溺れているかのような感覚だった。
(集中しろ…)
持ちうる限りの気力を振り絞って、指先と鍵盤に全神経を集中させる。
(集中…!)
アキラはたった1人、ステージで必死にもがいた。
3
結果は3位。
入選すら無理だろうと予想していたアキラにとって、意外な結果だった。
コンクールの一週間後。宮園ピアノ教室ではアキラが引っ越す前の、最後のレッスンが行われた。
そして冒頭の問いかけへ戻る。
「アキラくん。君にとって、音楽って何なのかな?」
アキラは答えられなかった。
「爆発的なエモーションを表現しながらもそれを制御しきって、気品を残したまま隅々まで丁寧に聴かせるコントロール力。それがアキラくんの持ち味」
宮園は立ち上がり、アキラの目の前に立った。
「その持ち味を生み出しているのは、君の類まれな集中力」
宮園の真剣な目に、アキラの気持ちも引き締まる。宮園の問いには、誠実に答えなければならない。
「ピアノが好き?」
「…わかりません。ピアノを弾いている時間が自然だということ。自分はピアノを弾いていなければならないということ。そんな感覚があるだけなんです」
「うん」
宮園は、17歳のアキラの頭を乱暴に撫でた。
「もう私は君の先生じゃなくなる。でも、きっといつか答えが出ることを、願っています」
なんのためにピアノを弾くのか。
目的が無くなってもピアノを弾くのか。
彼に会うことで、何が変わるのか。
アキラは「はい」と小さく、しかし決して弱々しくはない、芯のある発声で答えた。
(前日譚『高峯アキラの憂鬱』終)
ラヴェル / 水の戯れ
https://youtu.be/nSNGK6dJ0qs
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます