スピンオフ 外山明里の恋
①ピアノの王子さま
本編『エレガント・セレナード』の大幅なネタバレを含みます。
1
十二歳の
そろそろ本格的に緊張してくるはずだ、と深呼吸をする。
小学校に上がった時から参加し始めたコンクール。最初の頃は、ステージは単に練習した通りのことを発揮すればいいだけの場所だった。
それが、出場を重ねるうちに慣れるどころかどんどん『こわい場所』へと変化していった。
緊張していることを認識してさらに緊張する。胃が痛くなるばかりだった。
(来年から中学生なのに…)
寒くもないのに、自分の両手を擦り合わせた。
2
明里は観客席へ移動した。
明里がエントリーした級よりも、ひとつ上の級の審査が行われている。
他の人の演奏を聴くことでより緊張するかもしれないが、一人で余計なことを考え続けて自滅するよりはマシだと考えたのだ。
演奏しているのは、明里よりも年上の出場者たちだった。中には正直上手いとは思えない奏者たちもいる。明里には、同じ曲を彼らより上手く弾く自信もあった。
しかし、それでも全く安心材料にはならないのだ。
ここは地区予選。次の地区本選へ進むためには、まずここを通過しなければならない。通過できるのは上位2〜3割程度。下ばかり見ていては、最初の関門すら突破できない。
次の演奏者から、明里がエントリーしている級の前半グループが始まるのだということに気づく。
明里は慌てて立ち上がろうとしたが、もう遅い。舞台袖から男の子が出てきてしまった。
参加人数が多い級では、集合時間が前後グループに分けられるので、後半グループの明里に急ぐ必要は無い。あるのはメンタルの問題だけだ。
(まあ一人くらいの演奏なら、聴いても大丈夫かな…)
明里はそう思い直し、この少年の演奏を聴いたら観客席を立とうと決めた。
ステージの方へ意識を戻す。
お辞儀のために立ち止まった少年のスーツ姿を見て、驚いた。
(かっこいい…いや、きれい?)
年齢(同学年!)の割に背が高く、脚の長いすらっとした体型。サラサラの髪がかかった小さな顔には、筋が通った鼻と薄い唇がバランスよく配置されている。
その均整のとれた様には、『かっこいい』よりも『きれい』という言葉が似合う気がした。
明里は、自分のことをメンクイではないと認識している。客観的に見て、彼は目を引く容姿をしていたのだ。
「きた。王子だ」
「うわ〜。相変わらずかっこいい」
「ピアノも上手で、頭も良くて…ファンが出来るのもわかるわ」
隣に座っている人達(おそらく保護者)が、拍手に紛れて小声で会話するのを聞く。
有名人なのか。道理で名前を見たことがあるはずだ、と明里は納得した。
呆けるているうちに、彼の手が鍵盤に置かれた。ふいに第一音が放たれる。
(うわ……)
スカルラッティのソナタ。
華々しく、品のある軽やかな響き。
華やかではあるが、派手ではない。
一つ一つの音がふわりと、会場の奥まで突き抜ける。
軽く綺麗に整えられた装飾音が、メロディに余韻を残す。
明里は、スカルラッティの装飾音符を弾くのが苦手だった。速く均一に弾こうとすると、装飾音に重さを出さないのが難しくなる。
そして何よりも明里が驚いたのは、少年の姿勢だった。
特に低年齢の級になるほど、体を大きく揺らしながら弾く子や、前かがみになって弾く子が増える。
もちろんそれら全てが悪いというわけではないが、体を揺らすことで音にまで揺らぎが出てしまったり、前傾姿勢になることで余分な力が入ってしまったりする場合があるのだ。
一方で、少年の演奏フォームは非常に洗練されているように感じられた。
体の動きに頼らず音を綺麗に響かせ、音のニュアンスを変化させている。
もちろんフレーズに呼応した動きはあるのだが、無駄な動きは無い。ほとんど脱力して弾いているようだ。
この安定したフォームでの弾き方は…そう、昔見た名ピアニストに似ている。
この姿勢の良さは、もちろん演奏の良さにも繋がる。
続くバッハのシンフォニアも見事なものだった。
負けた、という感覚はなかった。
同じ級にエントリーするライバルではあるが、不思議とプレッシャーも湧いてこない。
ある種の清々しさを覚える。
ただ、他人を賞賛するだけの人間になるのは嫌だ。努力する前に他人を羨むなど言語道断。
(近づきたい)
明里は、確かな足取りでステージへ踏み出した。
3
ついに、審査結果が掲示される時刻となった。明里は背伸びして自分の合否を確認しようとする。
先生は他の子の演奏を見ているし、両親には「来ないで」 と言ってある。結果には一人で向き合いたい、という明里の気持ちからだった。
なんとか自分の番号を見つけようとするが、前の人の頭でちょうど見えなくなってしまった。
背伸びの体勢にも限界がきて、よろめきながら
(31番…!あるの? ないの?)
「31番あったよ。通過おめでとう」
全く聴いたことが無い声だった。数秒置いてその声の主を見上げると、客席で「王子」 と呼ばれていたあの少年がいた。
近くで見ると、やはりイケメンとかハンサムとかよりは美形という言葉がしっくりくる。
「あなたは…」
「君の演奏を見ていたから、番号を覚えていたんだ。掲示が見えなくて困っているみたいだったから…。びっくりさせてごめん」
変声期の男子特有の、少し
「どうもありがとう。あなたも、もちろん通過したんだよね。すごく上手だったもの」
観客席から見たあの少年が、今は目の前にいる。明里は彼の顔をじっと見つめた。
客席で聞こえた会話の通り、なるほど聡明そうな顔立ちだ。
「うん。通過できてほっとした。地区本選でも会えるね」
(『ほっとした』?)
あの演奏で通過が心配なら、自分の演奏なんて絶望的ではないか。過ぎる謙遜は時に人を傷つける。
そう思ったのは一瞬で、それよりも「地区本選でも会える」という言葉に明里の胸は刺激された。
彼とまた同じ会場で演奏できるチャンスができたのだ。
今はまだ全く敵わないのかもしれない。でも、一ヶ月後は、二ヶ月後は…わからないじゃないか。
「私は外山明里。名前、なんていうの?」
本当は、彼の名前はプログラムで確認済みだ。それでも尋ねたのは、この素敵な少年との会話をもう少し続けたかったから。
目の前の少年は、少し涼しげな印象の目元を細めた。
「僕は
(次回『リバース・セレナード』)
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