②リバース・セレナード 前編
※『①ピアノの王子さま』のつづき
本編『エレガント・セレナード』の大幅なネタバレを含みます。
1
(どうしよう…。信じられない)
指の隙間から、これから三年間の中学校生活を共にする机が見える。
(隣の小学校だったのは知ってたけど…。まさか、同じ中学校になるなんて)
登校初日にも関わらず、教室は喧騒に包まれている。明里の席の周りも例外ではない。
「ショウは頭もいいし、ピアノも超上手いんだぜ」
「俺にも今度聴かせてよ、
「そんな大したものじゃないよ」
彼の声変わりは一段落したようだ。あの時のように掠れた声ではない。
(まあ、同じ中学になることも、同じクラスになることも、事前に知っていたけど。でも…)
「あのさ、さっきから気になってたんだけど、外山さん…だよね? 僕のこと覚えてる? 昨年のコンクールで話した」
昨年のコンクールで、彼はスーツを着ていた。ここには、学ラン姿の彼がいる。
(隣の席になるだなんて!そんな、そんなことって…そんなの……)
心臓がドクン、ドクンと早鐘を打つ。明里は、それを隠して応じる。
「もちろん、覚えてるよ。唐木田ショウくん」
「よかった。隣の席になったね、よろしく」
(そんなの…嬉しすぎる!)
2
明里とショウの友人としての距離は急速に縮まった。
進級してクラスが離れても、廊下で近況を報告し合うような仲は継続していた。
勉強のこと、ピアノのこと、学校生活のことなど、話題は様々だ。
ショウは、ほとんどの校内テストで一位だった。明里も成績は良かったが、あと一歩及ばない。
ピアノもそうだ。まだショウの演奏には肩を並べられていなかった。
しかし学校生活に関しては、ショウは不器用だった。明るくコミュニケーションを取れる明里とは違い、ショウは控え目で、一人でいることが多い。
彼自身は好かれているし、教師にも同級生にも信頼されている。ただ、同級生のそれが『気兼ねない友情』ではなく『リスペクト』になっているのだ。
ショウ自身もあまり多くの人間付き合いを望んでいないらしく、彼が能動的に関わるのは明里だけ。明里にもまた、校内で一番ショウのことを知っているのは自分だという自負があった。
控え目で謙虚なのはショウの美点だが、言いたいことを我慢したり、一人で抱え込むのが普通になっているようで、明里にはそれが気がかりだった。
持て余した自己を表現するとき。臨界点を超える感情を放出するとき。彼はいつだって鍵盤と向き合っている。
そんなことを考えていた時。
ピアノ教室でコンクールの課題曲を見ていた明里は、コンクールのビラ片手に呟いた。
「ショウはどれかに出るかなあ」
「出ないと思うよ。先月、ピアノやめちゃったみたいだから」
「…まさかあ。人違いですよね?」
明里は持っていたビラで顔を扇いで、心を落ち着かせようと努めた。
「ううん。唐木田ショウくんのことでしょ?」
発せられたその名前に、ぴたりと手の動きを止めて目を見開く。
「うそ……。でも、だって、そんな、やっぱり間違いじゃ? やめただなんて、どうして」
「この前のコンクールでまさかの予選落ちだったのが、プライドに効いたのかしらねえ」
ピアノの先生の言葉に、明里は二の句が継げなかった。
(先生はああ言っていたけど、たった一度コンクールで失敗しただけでピアノをやめるだなんて、そんなはずない)
明里は悔しかった。ショウがつまらないプライドでピアノをやめたと思われるのが、我慢ならなかった。
3
翌日。明里は本人に直接理由を聞こうと決心し、学校へ向かった。
信号待ちをしている時、ショウがやって来た。声をかけようと近づくと、気がついて向こうから声をかけてきた。
「外山、おはよう」
真っ白な開襟シャツからは、健康的な肌色の腕が露出している。
彼はテニス部で、少し日焼けしている。それでも他の部員に較べて色白なのは、焼けにくい体質だからだろう。
信号が青になったので、歩きながら応じる。
「おはよう」
「体調悪そうだけど大丈夫?」
「ちょっと寝不足なだけ。……聞きたいことがあるんだけど」
「ん、何?」
ショウは唇を閉じたまま口角だけ上げて、軽く首を傾けた。
大人びた微笑みを前に、喉まで出かかっていた疑問が引っ込んでしまう。
「その…。……アメリカ独立戦争が始まったのは何年?」
「1775年」
「33の二乗は?」
「1089」
「じゃあ次は」
「ねえ、なにこれ?」
「ショウの頭が朝でもしっかり働いているのか確かめるチェック問題」
「なるほどね。僕からも外山に問題を出していい? それで僕の眠気もすっかり飛ぶと思う」
「ショウっていつも早起きなんでしょう? 全然眠そうに見えないし、遠慮しておく。ショウが出す問題って容赦無さそうだし」
「うん。僕は全然眠くない。だから僕に問題は必要ない。でも、外山は寝不足で眠いんでしょう? その理屈なら、外山には問題がいると思うよ」
「う…私の負け。朝から完全敗北落ち込みまくり」
「ごめん、からかいすぎた。で、本当に聞きたかったことは?」
「その…ええと。もう大丈夫」
ショウは目を瞬かせた。
「え? 本当に年号を聞きたかったの? それとも、33の二乗の方かな」
聞けなかったのは、ショウにとって辛い決断だったかもしれないことを、掘り返したくなかったから。
それと―――
(自分は狡い。本当に狡い)
あの微笑みが自分に向けられなくなるのを想像して、怖くなったから。
(辞める前に私が気がついていたら、
自惚れと喪失感を抱えたまま、明里は中学を卒業した。
(後編へつづく)
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