武蔵の地に巣くう、いにしへの化け物

草笛あつお

武蔵の地にて、忌むことなかれ


 民俗学の第一人者であった萩坂琢庄はぎさかたくしょうは生前、伝承の起こりに関してこう説いた。

 言うまでもなく日本の古来から存在する伝承は我々の先祖が乱れなく続く風俗や語り継ぐ土着信仰などの古くから囁き伝えられた地のに名を与えたものにあり、その地に証を残すも、忌むべきものと廃忘はいもうの彼方へ葬り去るも、いずれも日の丸の地に住む者の行動の軌跡であり、彼らの尊い判断のもとに辿った道であるとするならば、そこには必ず意図が存在するということを。


    ***


 慶応の時、武蔵野の台地の吉祥寺村の東方に明日香村あすかむらという村があったそうだ。その村の外れにはというところがあり、その塚は玉川上水を水源とする浅灰川あさばいがわの上流、一日中不気味な白い霧に覆われた落葉広葉樹の集う雑木林の中で、埋もれるように佇んでいた。

 浅灰川は川岸まで一間余りといえば二間とまではいかぬほどにせせこましくもあり、玉川の澄み切った流水は磨き上げられ、水は魚が住まうほど流麗と聞くが,なぜか浅灰川の川床は粘性質の高い有機物を含んだ泥が敷きつめられ,川床からぽこぽこと泡を噴いていた。

 古くから武蔵野台地に流れ走る目黒川では春弥生に移ると、 菜の花,蒲 公英たんぽぽなどが咲き競い,芽吹いた草花は花の虜に誘うような色香を出して流れを窺い,村人は春の息吹に触れると囁かれてきたが、浅灰川の周辺では生き物の呼吸さえ感じられないと聞く。

 それに拍車をかけるように、以前からその塚を中心としてその地から人が、とりわけ大人より子供が多くいなくなる事件が相次いでいた。


 そんな折、何も知らず明日香村に大工をやるためにやってきた助六すけろくという男がいた。

 助六には嫁のおきょうと息子の平助へいすけがおり、助六は村の外れに家を建て、兼業農家をしつつ家の外に山芋の畑を耕した。

 ある日、助六は悪さばかりする平助を叱り、ずっと正座をしているように罰を与えた日のこと。

 日も暮れ始め、畑作業から帰ろうとしたおりおり、見慣れぬ装束を纏った一人の若い女が助六のもとを夕刻遅くに訪ねてきた。

 紅くもえる夕日を浴びるその女の顔は、蟀谷こめかみから両頬にかけて見事に神々しく整った輪郭を美しく湛えていた。

 あでやかに潤った長い黒髪を頭の後ろで一つに結わい、助六の顔を見て微笑む。

 氷漬こおりづけにされたように女に見とれた助六は脂汗に染まった手中におさめていたくわを地に落とし、助六は自由を奪われた傀儡くぐつのように固まってしまう。

 だが、そこで女はおぞましいほどに地の上の砂をも振るわしかねぬ、で助六に尋ねた。


 “もし? このあたりわらわぼうを見なかったかえ?”


 おぞけなる情に支配されていく助六は声を出す事も叶わず、助六は麻で編まれた衣と肌の擦れる音がとどろく程に、首を激しく左右に動かすことが精一杯だった。

 言いようのない蟲の醜く運動性に富んだ不快な無数の脚が助六の体の表面を這うようにすこぶるる悪寒が走る。

 それは時には肌の上をたどたどしく、時には素早く痒みを伴うものへと変貌し、意思を持つ、視界に捉えることのできぬ生き物へと姿を変えるのである。

 “ご存じありませんか”と悲しそうな顔をした女は助六に頭を下げてその場から去った。

 一陣の生暖かい風が助六の肌を嬲ると、助六は小刻みに体を震わし、その狂態に彩られる振る舞いは寸刻の間続いただろう。

 女は去った。されど、助六は何か超然とした違和感を感じ取ったのである。

 それが何かを必死に頭の中の抽斗ひきだしを何度も開け閉めしたが、畢竟ひっきょう、結論には至らなかったが、助六は一つだけ理解した。

 形容し難い、研ぎ澄まされた凍てつく恐怖だけを残したことを。

 不審に思った助六は女の後を追ったが、女の姿はなく、負の感情に満たされていく助六は天に向かって祈りのを捧げるのであった。


 翌日、助六は二里にりほど僻遠へきえんにある諒衛りょうえの家を訪れた。

 諒衛は助六の兄にあたり、籍を入れた時から諒衛は明日香村に住み替えて、ひっそりと貧窮ひんきゅうを凌いでいた。

 早速、助六は諒衛の家に転がり上がると、昨日に邂逅かいこうした身の毛のよだつ女の話をした。

 間髪入れず昨日の出来事を語る助六の語り口は荒々しい恐怖を顔に刻み、捲し立てて語る助六のげんにたいそう泡を食った諒衛は凛然と青ざめ、助六に村に以前から囁かれる、塚に住むあやかしの話をしたのである。

 それは人喰いと呼ばれ、数百年前に海を渡って来たと言われる怪物のことで、それは人の肉を欲し、てて加えてわらしの肉をもっともも好むとい、またぞろが現れると村の生き物の呼吸はしずもり、血が流れると木々は枯れはて、川は淀み、よもや武蔵野台地の地はけがされるとな。

 武蔵野台地の厳粛な冬を超え、春弥生になると芽吹く春の命は見事な芽をつけ、人々を色香と相乗を持たす郭公かっこうの囀りにて楽しませ、玉川の磨き上げられた流水は清みを極め、いにしえより住まう臭亀くさがめスッポン浮鮴ウキゴリなどを喜ばせたと聞く。

 落ち着きを無くした助六はなぜそれがおのれの前に現れたのか、諒衛に問い質す。

 は人の嫌気の情緒に惹かれるのだと、諒衛に諭されるが、助六はげんの意味を理解できず、なればと、諒衛はあるものを助六に手渡した。

 それは柘榴ざくろ。もし、が再び現れようならそれをに投げつけろと。

 高まる助六の疑念は胸中で渦巻いていき、使わない選択肢も視野に入れるが、諒衛に慎重と臆病は似て非なるもの、諒衛はそれしか方法はないと言った。


 それから、あの女は助六の前に現れず、助六は家族共に安寧の中に身を委ねていたが、さりとて、風の中を謡うような春の季節が過ぎ去ってから、足踏みする暑さを毎晩体に刻まれていたある夏の晩に女はまたしても助六の前に現れ、真の安寧とは言えぬものとなった。

 冷たく冴えた夜気に沈む九ツ半の晩、平助が用を足すために起き上がった。

 不気味に寝静まった、どこまでも続くような皓皓こうこうと広がる暗闇は平助から視界を奪い、足をもつれさせた。

 ふらふらと危うい足さばきで、かわやを目指す平助に足を踏まれ、助六は飛び起きた。

 一度、癇癪かんしゃくを起すと目の色を朱墨と似た色に変え、怒鳴り散らす程に癇性かんしょうの荒い声を上げる助六は、平助の首根っこを抑え、まだ幼児のように薄毛の残る脳天に向けて、一直線に拳骨を振り下ろす。

 平助は痛みに耐えきれず、泣き叫ぶのである。

 怒号の雨粒の矢を射抜くように降らす天の神が泣く慟哭と同じ程に、嫁のお京が泣き声をあげると、助六はたいそう落ち着きを失い狼狽するが、相手は生意気かつ悪戯好きの子倅こせがれである平助。

 昔から助六は平助には容赦はしない。

 薄気味の悪い夜半に耳障りな騒ぎによって深い眠りから覚めたお京は、何事かと、寝ぼけ眼を擦りながら寝床から顔を出す。

 正座をさせて平助を叱りつける助六を見て、心底情に厚いお京は助六の肩を軽く叩いて宥めるのである。

 厠に向かうため、お京は泣き喚く平助の腕を引き、怒りが収まらぬ、助六は寝床に戻ろうとした時だ。戸口から戸を優しく叩く音が響いたのは。

 三者は誘われるように心張り棒で戸の内側をあてがっている戸口に視線を投げるや否や、再び外の戸を優しく叩く音が響く。


 “もし? 妾の坊がこちらにお邪魔していると聞き及んだのじゃが? 知らぬかえ?”


 助六は身の底に沈んでいた、あの恐ろしくもありおぞましい恐怖を思い出し、たちどころに腰を崩してしまう。

 地の上をも振るわせるような低く響く男の声を耳に入れたお京と平助も助六と同様にその場に腰を抜かし、平助はその場に失禁してしまう。

 あまりの恐怖に一同は恐ろしく、声を奪われ、その場に沈黙と身を刻むような悪寒が漂った。

 そして…。奴は本性を表した。

 三度みたび、戸を叩く音はもはや激しく戸を殴りつけるようなもの。

 は扉を強引にこじ開けようとしたのだ。


 “開けろ!”


 やつは何度も扉を揺らし、そして、人外の怪力を用いて、易々とひのきでできた扉を壊していくと、あの美しい女の顔が壊れた隙間から覗いた。

 奴の両眼から血の涙が溢れた顔に笑みを刻んだ。

 このままでは全員食い殺される。

 そう思った助六は隙間から柘榴ざくろを投げると、扉を壊そうとする奴の動きが止んだのだ。

 助六は恐る恐る外を覗き見ると、奴…もといは柘榴に食いついていた。

 助六を見ると、柘榴を守るようにその場から立ち去り、塚の方に走っていったとな。

 

 助六はこの地に詳しかった村の村長に聞くと子供に手を上げると、ある邪神が来ると恐れられていたそうだ。そして助六の投げた柘榴は人の血肉の味がする物だと。

 その昔、大陸中を震撼させた人を食う女神がいた。

 飽くことなく、ただ只管ひたすらに人を食い、もっともも、女神は年端もいかぬわらしを大いに好んだ。

 言わずもがな、訶梨帝母かりていもである。

 印度インドの地にて容貌の端厳なる女神と崇められたが、人の子を食う鬼であったがために、釈迦しゃかは戒めるために女神の子を隠し、罰を与えたとか。

 されど、訶梨帝母は懲りずに人の子を食すことをやめず、とうとう釈迦は訶梨帝母に島流しと、流刑を言い渡し、大陸から永久追放したと村の間で密かに囁かれていたが、今はもう真偽は定かではない。

 ただ村の外れにある塚が帝母ていもと呼ばれていた所以は、その昔この村に人食い鬼が出現したからである。

 鬼は村の子を喰らい、鬼を退治しようと立ち上がった大人までも鬼は喰らい、あらゆる蛮行を繰り広げたとか。

 そのため、この地に数多の血が流れ、血を吸ってしまった自然は崩壊したと伝えられた。

 ある日、どこからか流れ坊主がこの村にやってきて、その鬼を村の外れに塚を築き、そこに封印したとか。

 故にあの塚は帝母ていもと呼ばれるようになったのではなかろうか。

 だが封印の妖力が弱まった時、それは“妾の坊を見かけませんでしたか?”と嘘を吐き、子を求めると言う。

 果たして、助六が見た化物はいにしへより伝わる印度の女神、訶梨帝母だったのだろうか。

 いやそれは助六も、村の民にもわかるまい。

 そう。それを見たものは食い殺されるからである。

 ただ、その日から平助は助六の言いつけを守り、助六も平助を大事に育てるようになったとか。

 以来、その塚に彼らも近づくことはなかったと聞く。

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武蔵の地に巣くう、いにしへの化け物 草笛あつお @kusabueatuo

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