第8話

 夜中に差し掛かった頃、セイは蓮に送られて戻って来た。

「ただいま」

 出迎えた面々に、短く挨拶し、そのまま奥へと入っていく。

 ロンが後を追おうとするのを止め、エンが蓮と葵を見た。

「わざわざ、有難うございます」

「……別れの挨拶も、まだだったからな」

 若者は、顔を伏せたメルを見た。

「話には聞いたんだろ? オレは、一緒に行くことは、出来ねえ」

「……そいつも、一緒に来ればいいじゃねえかっ。毛色が違う孫が、出来たって思えば、平気だよっ」

 顔を伏せたままの女の言い分に、蓮は無言でロンを見た。

 これ以上、騙しの手に乗るのも癪だが、女が本当のことを知った時の事を考え、蓮も話に乗った。

「すまねえな。こいつ、この国から離れたくねえんだと」

「……お袋の仇を、探し出して返して貰いてえもんが、あるんです」

 初耳だ。

 話を合わせただけにしては、自然な言葉だった。

 葵を見上げ、若者はすぐにメルの方へ笑顔を向けた。

「今度来るときは、もう少し孝行させてくれよな」

「お、おう」

 鼻をすすりながら頷く女の後ろで、見慣れぬ男が溜息を吐いた。

 薄暗い中で、気にもしていなかったが、改めて見やり、葵が目を剝いた。

「お、おい、お前……」

 エンの後ろで隠れるように立つ男が、疲れた顔のまま葵に声をかけた。

「まあ、達者でなと、この姿のよしみで言っておく。お前の方にも、な」

 隣で、気づかぬふりでやり過ごそうとしていた蓮にも、男はけだるげに言った。

「お前の方も、達者でな。この国に残る気は、ねえんだろ?」

 セイはそんなことを言っていたが、その気のなさそうな男は、草色の目を細めた。

「あいつが、無事に巣立つまでは、ここを離れる気はない」

「そうか」

 蓮は小さく笑ってから、男に呼び掛けた。

「オキ、あいつのついでにでも、頼まれてくれ。この祖母さんのことも」

「ああ、ついででいいのなら、少しくらいは気にかけてやる」

 人の姿を得たオキは、そう笑い返して頷いた。

 秘かに島に入り、秘かに出て来た二人を、姉妹の二人が迎えた。

 シロの方は、苦い顔だ。

「お前、あいつを、あのまま行かせるのか? もし、成長して、そのまま時を止めたら、災厄の元となる」

 小声での責めに、蓮も葵を気遣って小声で返す。

「仕方ねえだろ。あいつ、オレの、あの無意識下でも、生き延びたんだぞ? どうしろってんだ?」

 巣立つと言うのだから、この後時を止めても、この国に来ることはない。

 葵の様な、素直で真っすぐ話す者が、苦手なようだから、自分からここに足を向ける事は、ないだろう。

 あの考え方には、妙に苛立つが、それは、蓮自身が、同じような考えで生きているせいでもある。

 正直、二度と会わずに済むのなら、それに越したことはない。

 そんな気持ちで、蓮は葵と共に長崎を後にしたのだった、が。


 日が昇り切る前に、船は島を離れた。

 数人の男に引き留められたが、それを全て振りほどいてきた、ランの姿のオキが、セイのあてがわれた小さな部屋で、猫の姿に戻り、寝台に腰かけた、若者の膝の上に飛び乗った。

「これなら、文句はないだろう。あいつら、オレを何だと思ってるんだ?」

 ぼやきながら、セイの体中に鼻を近づけ、一心に嗅ぐ。

 鼻はそこまで利かないのだが、まっとうな怪我の匂いや、肌が焼けた匂いくらいは嗅ぎ取れる。

「随分、手ひどくやられたんだな、相手は、誰だ?」

「……蓮だよ」

「そうか」

 あり得ると小さく笑い、着物の上から、傷口を前足で叩く。

「連れ立って戻って来たと言う事は、仲直りはしたんだな?」

「喧嘩した訳じゃないけど、まあ、向こうの言い分も分かった」

 それ以上話すことなく、オキは傷を治し、セイはその様子を見守っていたが、黒猫が不意に言った。

「ランは、察していたようだ」

「何を?」

「血と、怪我の件を、だ」

 死後間もない体を、オキは無心で喰らった。

 こんなに沢山の肉など、喰らった覚えもないが、骨すらも残せないと本能が強く囁き、必死で腹に収めた。

 強い眠気が襲い、その場に伏せて眠り込んだ時、ランの過去が流れ込んできた。

 これも、話で聞いていたから、慌てずにそのまま受け入れたのだが、やはりある女への想いが、痛いほどに流れて来た。

 だが、その想いが、思い出となり、代わりに別な者への想いが、強くなった。

 兄弟の様な心配ではなく、仄かに別な思いも混じる、そんな想いだ。

 本人も、気づくか否かの仄かさのそれは、話してもセイには分からないだろう。

 分かったとしても、後味が悪くなる。

 だから、敢てそのこと以外の話を伝えた。

「カスミが、話したのかも知れん。お前の気持ちも、分かっていたんだろう」

「……そうか。私も、何となく、分かった事が、あるんだけどな」

 ランは、カスミの子供だ。

 それなのに、なぜ、あんなに簡単に、逝ってしまったのか。

 これまで、ランが怪我をしても、すぐに塞がっていくところを、何度も見ていた。

 なのに、あの国のあの時だけは、塞がるどころか開いたまま、命が削がれていた。

 術のせいではない、その術はセイが確かに、霧散させたのだから。

 この国は鬼門、そんな話を笑いながら、ランは話していた。

 それは、ランにとっては今に始まった事では、無かったのではないか?

「あいつ、あの国でだけ、永い間、女として過ごしてたよな?」

 いつもは、強い女手がいる時だけ、ほんのひと時、過ごすだけだった。

 それでも嫌そうにしていたのに、この国では何故か、二月以上も女として過ごしていた。

 その言い分に、黒猫は頷いた。

「あの国はランの母国だ。母親が、女らしい女になって欲しいと、ラン姉妹に願っていたから、あの国でだけは、我慢していた」

「いつも、か?」

「ああ。いつも、だ。ついでに言うと、いつもあの国では、ランは大人しい」

 木刀で蓮と打ち合う時も、かなり控えめにしていた。

「怪我を、しないように、な」

 女の姿で怪我をしてしまうと、何日も寝込んでしまうことになるせいだ。

「……」

 天井を仰いだセイに、膝の上のオキが言った。

「無理に、体を変えてしまったせいだろう。お前が感じていた通り、あいつは、あの国以外での体の方が、本来の姿だ」

 例え命が尽きかけようが、あの国では抗わぬと決めていたようだった。

 深い溜息を吐き、若者は小さく言った。

「引き返せば、良かったんだ、あの時」

 海の上で知らされた、祖父の死。

 我慢などせず、自分が戻るとそう決めていれば、あんな騒ぎに巻き込まれることもなかった。

「お前な、あの時大陸の方でも、戦の後の後始末で、面倒なことになっていたのは、知っているだろう?」

 あの時、セイが戻ると言っても、止められたはずだ。

 面倒な事を避けるために、大陸を離れることになったのだから。

「それにお前、あの村を助けた事も、悔いるのか?」

 ランの死は、色々な事が重なり、起こった不幸だ。

 それを悔いる為に、これまで選んだことまで悔いるのは、馬鹿げていた。

「済まない。分かっているけど、少しだけ、落ち込ませてくれ。あそこは、私にとっても、あまり合わない国かもしれない。まさかこちらの考えを、ことごとく裏返していく奴がいるなんて」

 もう二度と、あの国に足を踏み入れようとは、思わない。

 足を洗った後、何年生きようが、そうすると心に誓った、はずなのだが。


 異変に気付いたのは、昇った日が再び落ち、夜が更けた頃だった。

 波が緩やかに靡き、船も順調に動いていたのだが、唐突に止まった。

 座礁した訳ではないと、交代で櫂を漕いでいた男たちは、力を込めて再び漕ぎ始めた。

 が、舵を取る者が、ロンに叫んだ。

「舵が、利かないっ」

 それどころか、全く別方向へと、船が動き始める。

 それは、海の様子を見に外へ出た、ロンの目にも分かった。

「ど、どういう事だ?」

 ジュラが、前代未聞のこの異変に戸惑う中、ロンとエンが顔を合わせて、溜息を吐いた。

「もしかして、こういうことも、出来るんですか、あの人?」

「どうして、今迄出てこなかったのに、しゃしゃり出て来るのかしら? 本当に、読めない子だわ」

 呆れた二人の会話で、ジュラが目を細めた。

「ま、まさか、今頃、旦那が、こんな事やってくれてんのかっ?」

 ランが死んでも、助けの手一つも、差し伸べなかったくせに。

 ついつい毒づく男に、ロンは宥めるように言う。

「注意を促したのに、あの国に入ったのは、ランちゃん本人の意志。それで、死んだとしても、カスミちゃんは寿命と考えるだけよ」

「そんな割り切り、親の考え方かっ?」

「兄さん、今更、親に何を期待しているの? そんなものなのよ、血筋に関する思いは、どの人間も」

 やんわりと、ジュリが笑う。

 それも違うと、言い切れる者は、ここにはいない。

 だから、辺りを見回して、別な不安を口にする。

「不味いわね、この辺り、まだ岸が近いわ」

 朝、海を眺めたら、見知らぬ船が立ち往生している、そんな図だ。

 役人に来られて、調べられるのは、困る。

 姿かたちは、隠すことでどうとでもなるが、いかんせん、物々しい品を積み過ぎていた。

「……朝までに、小舟を下ろして、船や荷物を片付けることは、出来るのか?」

 無感情な声が、後ろからかけられた。

 その主に振り返りながら、ロンが答える。

「人海戦術でやれば、何とかなるけど、舟が少ないわ」

 だから、動く人数が限られてしまう。

 外に出て、眠そうな目で辺りを見回すセイは、船の縁に座る男を見つけた。

「じゃあ、そいつが何でこんな嫌がらせをするのか訊いて、頼むしか無いんじゃないのか?」

「聞き訳が良くなったな。随分大きくなったようで、何よりだ」

 真面目な男の声に、外にいた男たちが、ぎょっとして振り返った。

「親父さん……」

「カスミちゃん、一体、何がしたいの?」

 思わず、顔を引き攣らせるエンに代わり、ロンが眉を寄せて男カスミに声をかけた。

「実はな、折り入って頼みがあるのだ」

「頼みがあるなら、こんな悪戯をする前に、会いにくればいいでしょうがっ」

 手を握りしめる息子に笑いかけ、カスミは無言で見返すセイを見た。

「お前たちに、ではない。だから、まずは脅しておこうと思ったのだ」

「誰に、頼みがあるんだ?」

 無感情な問いかけに、カスミは全く違う言葉を返した。

「ランは、死んだのだな?」

「……」

「なら、望みも叶えられたのだろう。お前への未練も、捨てざるを得なくなって、満足だったはずだ」

 目を細めたエンが、男の目を向けられたセイを、後ろに庇って立つ。

「今更、ランの事を語りますか、あなたが?」

「今だからだ。だが、お前とその事で言い争う気は、ない」

 カスミは真顔で返し、静かに言った。

「この辺りは、よく南蛮以外の異人の船が、沈む場所だ。この辺りは異人にとって厄介な国柄でな、少しでもそういう疑いがある者を、容赦なく捕らえては罰する。その後、船を漁るのだが……」

「あら、暴れる所を、見つけてくれたの?」

「いいのか? 領土が広いぞ。しかもここの殿は、方々の国に、恩を売っているから、一つの城を落とすと、戦と同じような騒ぎが起きかねないのだが?」

 罰すると言っても、この国の為に奉仕させる形での罰、だ。

 漁りはするが、その使い方などは、船の持ち主などに教わる。

 つまり、島国の外を見ている、国主なのだ。

「それを悪と見るのは、お前たちの勝手だが」

 ロンは唸った。

 雑に扱われはするが、別に悪い話ではない。

 しかし、こちらとしては、厄介な連中のようだ。

「捕まるまで待って、セイだけ連れて行くと言うのも、面白いと思ったが、脅す方がお前たちの顔が見れて、楽しいからな」

 真面目な顔で、そんな戯言を口走るところは、昔と変わらない。

 エンが舌打ちする中、セイが男の言葉を反芻した。

「私を連れて行く? どこに?」

「それは、行ってのお楽しみだ」

 眉を寄せる若者に、カスミは真面目に切り出した。

「お前が、この頼みを聞いてくれるのなら、教えてもいい技があるのだが」

「そんな物いらないから、船の舵を、返してくれ」

「……」

 船の縁に座っている男に、セイは歩み寄った。

「セイっ」

 エンの呼び留める声に構わず、肝心な事を尋ねる。

「どこに、どの位の間、連れて行く気だ?」

「二晩ほど、ある者のいる場所、だ」

 随分、曖昧な答えだ。

 だが、若者は頷いて振り返った。

「だ、そうだ。二晩明けた、朝には……」

「いや、遠いからな、帰りは夕刻になる」

「二晩明けた、夕刻には、戻る」

 カスミに遮られ、告げる言葉を言い換えたセイに、エンは周りの男たちと顔を見合わせた。

 困った顔の男たちの傍で、ジュリが溜息を吐く。

「ええ、行ってらっしゃい。旦那、その子を、お願いいたします」

「うむ、任せて置け」

 全く信じられないが、胸を叩いて言い切るカスミに連れられ、セイは船から飛び降りた。

 それを立ち尽くしたまま見送り、ロンが舵を任せている男に声をかけた。

「岸から離れて。日が昇ったら、大変だから」

「は、しかし……」

「大丈夫よ。あの子、セイちゃんのこと、気に入ってるみたいだから」

 同じように、立ち尽くして見送ってしまったエンが、鋭く振り返った。

「どの辺りに、気に入っている感じが、出てましたかっ?」

「どの辺りって……分からなかった?」

 ロンは、にっこりと笑って答えた。

「あたしたちは脅したけど、セイちゃんには、頼んでたじゃない。しかも、カスミちゃん自身の、姿のままだったわ」

 いつもなら、誰か弱い者に化けて騙して連れ去るか、強引に連れ去るか、自分たちにしたように脅すか、だ。

「……連れ攫って来る事が、今まで、あったんですか?」

「あったわよ」

 ジュリが、やんわりとした声で言った。

「あなたのお母様も、本当は、口説いて、連れて来るつもりだったみたい」

 その前に、別な奴らに連れ去られたから、叶わなかっただけだと女は言い、暗闇の中二人が消えた海の方を見た。

「何だか、縁を結びに行くような、気の張り方だったのが、気になるけれど」

 気のせいだろうと呟いて、男たちの様子を伺った。

 そんな事を大きな声で言ったら、折角落ち着き始めた船の中が、また慌ただしくなってしまう。

 ジュリは静かに中に戻り、他の女たちと共に夜明けまで休むことにした。


 暗い海の上を横切り、少し離れた岸に足を上げたカスミは、手を引かれたままついて来たセイを岸に上げ、ようやく声を出した。

「これから行くのは、葵と言う鬼の住む、山だ」

 無言で見上げるその顔は、顰められている。

 それを見下ろして笑うと、男は付け加えた。

「だが、会って欲しいのは、その男ではない」

「会うにしても、まだ戻っていないかもしれない」

「いや、夕刻には戻っていたぞ。また、出かけて戻らなくなったようだが」

 つまり、無謀にもまた一人で山を下りた、と言う事か。

 黙ったまま呆れた溜息を吐くセイに、カスミは言った。

「そこに残った者を、慰めてやって欲しいのだ」

「慰める? 誰を……」

 言いかけて、ついカスミの顔を見つめた。

「……まさか、蓮の事か?」

 訊きたいことは次々と出て来るが、それだけしか、言葉に出てこない。

 そんなセイに、男は笑いかけた。

「私には、二人の孫がいる」

「二人っ?」

 目を剝く若者に、カスミは真面目に頷いた。

「一人は、ランの妹のユウが残した娘だ。もう一人は……」

 大陸で生まれ、まだ若い姿で時を止め、この国に渡って来た、若者だ。

「……慰めるって、あの人を、私が?」

 混乱気味のセイに、男は静かに言った。

「お前は、初見だったから、分からなかったか? あれは、江戸を出た時から、沈んでいた」

 心を許した主が、鬼籍に入ったからだ。

「それに追い打ちをかけるような、ランの死だったからな。立ち直れるかも、分からん」

「そんな様子なら、葵さんが気づかずに、山を下りるか?」

「気づいたからこそ、下りたのだろう。自分が気にしていると、気づかれるのを恐れたのだろうな。無謀の極みだが」

 先に、葵を探した方が良いのではないかと思うが、カスミは首を振った。

「まずは、蓮を元の調子に戻す助けをして欲しい。そうすれば、あれがあの鬼を探しに動くだろう」

「……」

 ここまで来て、嫌とは言えない。

 セイは溜息を吐いて、尋ねた。

「どうすればいいんだ? 私とじゃあ、喧嘩腰にしか、ならないと思うけど」

「今のお前では、な」

 微笑んだカスミは、若者の肘を攫んだ。

 義手でない所を攫まれ、驚くセイに言う。

「まずは、お前にとって、使い勝手のいい技を、教えてやる。静かに集中していろ」

 言った途端、血の流れが止まった。

 すぐに流れ始めたが、いつもより少し、気になる流れ方になった。

「……?」

「これで、まずは、誤魔化せるようになる。血の色を、な」

 確かめる事が出来ないが、セイは疑う様子はなく、ただ目を細めた。

「これだけで、色が変えられるのか?」

「変えるではなく、誤魔化すと言っただろう。ただの騙しの術だ」

 得心がいって頷く若者の肘を攫んだまま、カスミは少し考えながら言った。

「こちらは、お前が覚えたいと言うのなら、覚えておけばいい。何かと使える術だ」

 言った途端、今度は体中の何かが騒めいた。

 むず痒い感覚がすぐに薄れ、体が重くなる。

「……? 何だ?」

 何かが変わった感じではないが、胸元が重苦しい。

 肩が凝りそうな重みに、セイが眉を寄せながら、肩を叩く様を見守り、カスミは真面目に頷いた。

「これなら、間違いなく、慰めになる」

 それを聞く方は、分からぬまま、その後について再び歩き出した。

 山につくころに日は昇り始め、一つずつ握り飯を片手に、登り始める。

「これ、何だ?」

「梅干し、だ。まだ食べた事がないのか? 一度食せば、病みつきになるのだが」

「そう言えば、偶に白飯に乗せて食べてる奴、いるな」

 そんな他愛ない会話を続けながら、二人は山の頂上に登り、小さな家が見える辺りで止まった。

 疲れはないが、胸元は重苦しく、暑い。

 セイが袖で風を己に送りながら、その小屋を見つめた時、戸が開き誰かが出て来た。

 小さい割に、動きが早い若者は、近づくまでに外に置いていた薪を抱え、竈の方へと戻って来た。

「朝は早いのだな、お前はどんな時も」

 真面目に声をかけたカスミを振り返り、蓮は目を細めた。

「何で、あんたが、ここに来るんだ? まさか、葵がいねえのも、あんたの仕業じゃねえよな?」

「あの鬼が迷っているのは、私のせいではなく、お前のせいだ。私は、あの鬼には会っていない」

 蓮は溜息を吐いて、中に入って竈の傍に薪を置く。

「探すのか? 後にしろ。お前に、客だ」

 セイを振り返りながらカスミが言うと、それにつられて目を向けた蓮が、目を剝いた。

 何だ、と尋ねる前に、カスミがああ、と声を漏らす。

「お前、少しは、恥じらう事も覚えんとな。襟元を、整えろ」

 言いながら、膝をついてセイの襟元を整え、胸元を隠した。

 それを見下ろして、ようやく気付いた。

「……何だ、これ?」

 胸が重いと感じていたのは、このせいか。

 見下ろす地面は、見えなかった。

 異様に大きい二つの、瘤のように膨らんだ胸のせいで。

「ついでに、下も、今はないのだが、気づいていなかったか?」

「下?」

 見返すセイに真面目に頷き、男は立ち上がった。

 振り返って、セイを見つめたまま、固まった若者を見る。

「二晩程、あの連中から借りて来た。煮るなり焼くなり、お前が気休めになるなら、何でもやれ」

 言われて、蓮はカスミを見た。

 再びセイに目を向け、無言で見つめる。

 その様子に大丈夫かと、声をかける間もなく、若者は不意に歩き出し、近くの木に思いっきり頭を打ち付けた。

「ち、ちょっ、何やってるんだよっ」

 思わず駆け寄ったセイの後ろで、カスミは真面目に呟いた。

「うむ、流石に手強いな」

 だが、もう一押し、か。

 そんな呟く声を背に、セイは蓮が頭から血を流して、気絶しているのを抱き起す。

「明後日の夕刻に、迎えに来る。それまで、蓮を頼む」

 背中に、そんな声を投げかけられ振り返ると、すでにカスミの姿はない。

「頼むって……どうしろって、言うんだよ?」

 途方に暮れたセイの呟きに、答える者はいなかった。


 約束の日の夕刻、船に戻って来たセイは、眠そうに挨拶し、そのままエンに抱えられて中に戻った。

「一体、どこに連れて行ってたの?」

 妙に疲れを滲ませていたように感じ、ロンがカスミについつい詰め寄ったが、男は真面目にはぐらかした。

「秘密だ。誰にでも秘め事の一つや二つあっても、いいだろう? それを、セイにも作ってやったまでだ」

「あの子が、秘め事を一つも持っていないはず、ないでしょ? 増やしてどうするのよ」

 そう嘆きはしたが、周りも含めて無事な姿に安心し、隠していた船を動かす準備を始めた。

 活気が戻った船の中を見回し、セイを休ませたエンが溜息を吐く。

 カスミの姿が、もう見えない。

 どういう事か、詰め寄りたい気分だったのに。

 セイは、眠そうなだけで、元気だった。

 だが、行くときとは、明らかに違っていることが、二つあったのだ。

 一つは、確かにつけて行ったはずの義手が、両手から消えていた。

 それを指摘すると、セイは初めて目を剝いて呟いたのだ。

「持って帰るの、忘れた」

 この集団の中にいるのだから、壊れる事を予測し、ジャックは大抵の大きさのそれを、大量に作っていたから心配はないが、自ら外すことは、取り換える時くらいしかないのに、珍しい事だった。

 ついつい更に尋ねると、気づかぬうちに取れていた、と言う。

 どうしてそんなに簡単に?

 と尋ねると、珍しく曖昧に誤魔化した。

 深く訊くのも恐ろしい気がして、そこで詰問をやめたが、もう一つ気になることがあった。

 これは、触れる事すら、恐ろしい。

 セイの首に、見慣れぬ細工の小さな鎖が連なった、何かがかかっていた。

 襟元に隠れてその先は見えないが、誰かからの贈り物に見える、高価そうな物だった。

 どこの誰かは知らないが、セイに想いを寄せ、贈り物をした者が、この国にいる。

 その誰かくらいは、カスミに吐いてもらおうと思ったのだが、逃げ足の早い父親は、すでにいなかった。

 どちらにせよ、下手にロンや他の者の前で、深く詰め寄る事は出来ないと、何とか自分の心を治め、また闇が深くなる海を見据えた。

 セイがいなくなるまで、この国に入ることは、決してしない。

 エンは一人、秘かに心に決めていた。


 五十年の月日が、経っていた。

 形見の品を蓮に返した時、若者はそれを手の中に収めながら、小さく笑った。

「探しに出ようと、思ってたんだが」

「ああ。探しに来ると、思ってたよ。でも、ここまで生きてしまった。こうなったからには、私の手で、返したかった」

 心の準備が、まだまだ出来ていなかったが、それを表に出すのだけは、抑えるつもりで、セイは微笑んだ。

「しかも、鎖が切れたんで、大変だったよ」

 そんな若者を見上げ、蓮は苦笑する。

「随分、でかくなっちまったな」

 苦い顔の若者に、謝るのもおかしいと、セイは頷いた。

「体だけじゃない、私は、あいつらに、血の色を、誤魔化し続けてる」

「何だって?」

 驚く蓮は珍しい。

 だから少し嬉しくて、カスミに教わった技の事を教えた。

「……血の害の方は、どうなんだ?」

「今のところは、誤魔化せてるけど、まだまだ、油断はできない。あいつらとは、永い付き合いになるだろうから」

 蓮が、考える顔になったが、首を竦めた。

「まあ、いいか。それより、これ、やる」

 不意に、若者は懐から取り出したものを、差し出した。

「? 何だ、それ?」

 奇妙な形の、尖った刃物のようだ。

「知らねえのか? 苦無、だ」

「くない?」

「万能の道具なんだぜ。穴掘るのにも使えるし、身を守る武器にもなるし……」

 言いながら蓮は、握り口の先の穴に縄を通し、傍の木に打った。

「こうやって投げて、そのまま戻して使う事も、出来る」

「成程」

 縄を引っ張って、戻って来た苦無を上手く受け取ると、セイの手に乗せた。

 ずっしりとした、重みがある。

 珍しそうに見下ろすセイに、若者は少し考えて言い直した。

「やるって言うより、返す、だな」

「……?」

「それ、お前が置いてった腕、だ」

 目を丸くする若者に、蓮は咳払いして続ける。

「お前は、もうこの国に来ることはねえ、って思ったもんだから、返す当てもねえだろ? だから、形見と思ってだな、中身の鉄を、使わせてもらった」

「これに?」

「それは、余りだ。これと……」

 腰に差した刀の大小を抜いて、蓮が言った。

「葵が差してる刀の大小。しっかり鍛えてもらった。その余りで、それを作ってもらった」

「……そうか、私の腕が、こういう風になったから、もう使い道がないと思ってた。そういう使い方が、出来たんだな」

 知っていたなら、残していたのだが、成長する前に使っていた物は、殆んど失われていた。

「残りも、貰ってもらおうか。その方が、いい使い道がありそうだ」

「使い道はあるが、お前が持っとけ。爺さんの形見の形を、無闇に変えるな」

 軽く拒否したが、危なくてこれ以上、同じものは作れないと言うのが本音だ。

 蓮が、昔葵に用意した守り刀がいらなくなる程、その刀はいろいろな悪意を避けてくれた。

 それが、その鉄のせいなのか、その義手の持ち主のせいなのかは、分からなかったが、今分かった。

 返してもらった、石の首飾り。

 その石に、悪意があれば触りたくない類の力が、しみ込んでいた。

 あらかたの話は済み、二人は古谷の御坊の墓の前から、歩き出した。

 戻る途中の道すがら、この後どうするのか訊いてみる。

「江戸に戻ることに、なりそうだな、オレは」

 また、あの殿の相手をする羽目になるのかと、内心うんざりしつつの答えだ。

 蓮の若干嫌そうな顔を見ながら、セイは切り出した。

「今日の宿は、決まっていないのなら、多恵さんの所にしないか? 頼みたいこともあるし」

「ん?」

 素直な切り出し方に、蓮は顔を上げると短く話を促した。

「さっき、出る前にみやびさんが、耳打ちして来たんだ」

 この村の隣にあった村の山に住む、女の狐だ。

「後で話があるって……嫌な予感しか、しないんだよ」

「ああ、そうだな。連れてるガキを、押し付ける気かも知れねえな」

 それはもう心配ないと、思っているはずだが、あの狐は何か考えているようではあった。

「でも何だか、私に何かを頼む、って感じじゃないんだよ。だからとばっちりで、私にそれが向かないように、捕まえておくのを手伝ってくれないか?」

「誰を、捕まえとくんだ?」

 妙な頼みに眉を寄せる蓮に、セイは素直に答えた。

「エンを、だよ」

「ああ」

 思わず、頷いてしまった。

 先程、雅と顔を合わせたエンの、あの態度を思い出してみれば、何となく想像できた。

「と言うか、あいつ、雅と会った事あったのか?」

「そうみたいだな。逃げようとしてたけど、何でだろ?」

 理由は分からないが引き留めた方がいい、そう思っているらしいセイに、蓮はついつい笑いながらも、頼みを承知した。

 山狩りに来た村人から、山の主を救った者の中に、エンもいたのだろう。

 会ったとしたら、その時だ。

 一目惚れ、その言葉とその意味をセイが知るのは、これより少し後の事で、その一目惚れを実は自分が、その身に感じていたと気づくのは、これよりも更に数百年も後の事になる。

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語り継がれるお話 2 赤川ココ @akagawakoko

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