第5話

 丁度、異国からの船が去った後に、自分たちはこの国に入った。

 人目の付かぬ所に船をつけ、小舟で島入りして、代々世話になっていると言う家が営む、旅籠に入った。

 旅籠と言っても、異国の者を迎えるような場所ではなく、この国で生まれたカスミ寄りの割り振りで、それでもセイにとっては落ち着く場所だ。

 今は、殆んどこの島にすら異人はいないと分かっていて、本土に無闇に入って来る心配をしないのか、出入りに立ちふさがる役人の目は、こっそりと出て行くセイを見逃した。

 髪を隠した傘を深くかぶり直し、そのまま歩き始める。

 どの国でもそうだが、おどおどすると目立って、逆に気づかれる。

 だから、セイはいつも通り、会う通行人にはお辞儀しながら、目指す場所へと歩く。

 心配なのは、気絶してしまったロンが、誰かに見とがめられるような場所に転がっていないかだ。

 親切な人が介抱してくれていても、その係わりが、厄介な事になりそうだ。

 出来るだけ、人に知られぬように、連れ帰りたいものだ。

 早朝に近い刻限で、まだどこも朝餉の支度に追われているのか、心配したほど人とすれ違わない。

 今は大丈夫だが、ロンを見つけて戻る頃には、また人の数は増えるだろうと、少しでも早く男を見つけるべく、自然に足早になる。

 オキの目を通して見た、その場所に来た時、セイは立ち止まった。

「……やっぱりか」

 ついつい、そう呟いてしまう。

 オキを通してここを見た時に、気づいていたものが、大っぴらに広がっていた。

 これが、どうこちらに悪く出るか分からなかったから、手っ取り早く破るのではなく、綻びを探すようにオキを動かしたのだ。

 これがなければ、多少ロンに負荷をかけようとも、破って早く戻ってもらう方を選んでいた。

 溜息を吐き、辺りを見回して誰もいない事を確かめると、セイは武家屋敷の石壁に沿った道へ向けて、声をかけた。

「少し、我慢しろ」

 短い言葉の後、若者は右手を伸ばし、親指と人差し指と中指で輪を作った。

 何かを目掛けて、その指で思いっきり弾く。

 弾いた途端、風が緩く流れた。

 前を見ると、長々と道端に倒れた男と、その傍に座る黒猫の姿が現れていた。

「……大丈夫か?」

「こっちはな。ジュラとゼツが、どうなっているのか分からん。ジュラと繋ぎが……」

 言いかけたオキが、セイの背後を見上げて目を剝いた。

 振り向きざまに、背後に現れたジュラの振り下ろした刃を、若者は腕で受ける。

 そのまま競り合う二人に、ゼツが襲い掛かった。

 それを横目に、セイはジュラの刃を腕で流し、体勢を崩した男の手首を攫む。

 その手首を軸に、男の体を振りかぶると、そのままゼツに投げつけた。

「……自分より年下の人間に、全力では来れないんじゃ、なかったのか? あんたらは」

 狙ったように、仲良く頭突きした二人は、すぐには立ち上がれない。

 が、正気には戻り、ゼツの上から転がり落ちたジュラが、盛大に文句を言った。

「お前な、止めるにしても、もう少し優しい方法が、あるだろうがっ」

「あるはずないだろ。この手のものは、強い衝撃を与えないと、目覚めないんだから」

 そんな言い争いを、オキは座ったまま見守る。

 見た目よりかなり乱暴な若者は、起き上がった二人を見下ろした。

「で、何であんたらが、ここにいるんだ?」

 冷ややかに問う若者に、ジュラが咳払いして言う。

「分かってるんだろ?」

「ああ、分かってる。でも、ぜひ、あんたらの口から、訊いておきたいんだ」

 無感情に、ひんやりとした空気を纏わせるセイに、ゼツが首をすくめて答えた。

「ランが、あなたを、動かしたくなかったようで……」

「動く気は、なかったんだけど」

「だよ、な」

 ジュラが、引き攣り笑いしながら頷く。

 周りの心配を和らげるため、セイは敢て、翌朝動くと声を上げた。

 そして、ロンと話した時にそれを話すことで、ロン本人に自力で戻って来れるよう、画策したのだ。

 付き合いが永くなってきたジュラは、エンほどではないが、セイの考えを読み取れる。

 ランもそうであるはずだが、やはり心配が上回ったのだ。

「もしも、があったら、困るだろう?」

「そのもしも、で動いて、ここまで厄介になったのにか?」

「悪かったよ、まさか、もう一つ結界が張られる仕掛けがあったとは、思わなかったんだ」

 謝るジュラと、黙ったまま神妙に頭をうなだれるゼツを見下ろし、若者は溜息を吐いた。

「まあ、私が、どうして綻びを広げる方法を使うことにしたのか、言わなかったのが悪いけど。それにしても……」

 言いながら、まだ倒れているロンを見やった。

「四人目は、蓮だったのか?」

「いや」

 答えたのはオキだ。

「あいつは、ここにいた」

「それなんだが……」

 ジュラが首を傾げながら、言った。

「オレたちは、まだその結界の四方の鍵の前に、行きついてなかったんだ」

「そこに向かっている時に、破れる気配がありました」

 ゼツも頷いて、ジュラの言葉の後を続ける。

「そんなことがあるのか? オレら以外に、そんなものも触ろうと思う奴が出たってことは、そこまで目立つものだったのか?」

 困惑したジュラの問いに目を細めたセイは、無言で黒猫と目を交わし、オキの方が口を開いた。

「……お前ら以外に、偶々誰かが触ったと考えるより、あり得ることがある」

 若者が無言のままロンに近づき、体を起こすのを見ながら、黒猫は苦い口調で続けた。

「結界を張った本人なら、そんなまだろっこしい方法を使わずとも、破れる」

「帰るぞ。万が一、と言う事も、あり得る」

 これがもし、自分やこの手の力のある者を、おびき寄せる罠だったとしたら……。

 セイのつい固くなる声にゼツが頷き、歪んでいた傘を被り直し、若者を手伝ってロンに肩を貸す。

 ジュラも思い出して傘を被り直し、辺りを見回した。

 夜は完全に明け、日差しは強くなっている。

 三人と一匹は、ロンを抱えて帰路についた。


 その時、旅籠内は想像もしなかった騒ぎに、遭遇していた。

 夜中に出かけた、三人が戻って来た。

 玄関先で、ロンはどうしたと問うランの前に、もう一人、気軽に挨拶して戻った者が、女と一緒に迎えに出たメルの目を剝かせたのだ。

「? どうしたんだ?」

 蓮が問い、先に戻った三人を見て、ぎょっとする。

「お前、誰だ?」

 三人の中の、自分とうり二つの若者を見据え、蓮が低い声を上げる。

 同時に、無言のジュリとゼツが、それぞれ武器を抜いた。

 ゆっくりとした動作だったが、目の前のランは動くことが出来なかった。

「ランっっ」

 動けたのは、エンの切羽詰まった、叫び声のおかげだ。

 寸での所でジュラの刃を逃れ、同じように逃れたメルと蓮と共に、三人から間合いを取る。

「お前ら、血迷ったのかっ」

 メルが言わずもがなの事を叫び、三人を睨むが蓮は舌打ちした。

「さっき、こいつらは、起こしたと思ったんだが。オレの紛い物まで一緒とは、恐れ入ったぜ」

「お、お前が本物で、間違いないんだよな?」

「殴るぞ。分からねえのかよ」

 睨む若者に、ランは慌てて首を振り、後ろに集まった仲間を振り返った。

「……起こしたってことは、結界は無事に破ったのね」

 ジュリが、やんわりと言いながら、兄を見据えた。

「なら、血迷っての動きでは、ないわ」

「それにしては、戻ってくるの、遅くない?」

 マリアも、二人を見ながら、指を折って数えてみる。

「だって、夜中から今まで、何やってるの?」

「オレは、こいつらが巻き込んだ、知らねえ誰かを探して、遅くなってたんだが」

 見つけられなかったから、仕方なく帰って来たと、蓮は流れで答えて、紛い物の自分を見据える。

「こんなもんに入り込まれるまで、あいつらが戻らねえのも、おかしくねえか?」

「そういう話は、後の方が良いようですね。中々、厄介な紛い物を、揃えられたようです」

 エンが気を改めて、前に出る。

「葵は?」

 ランの問いに、ジュリが短く答えた。

「部屋に、留まらせてるわ」

「セイは?」

 次いで出た問いには、エンが少し眉を寄せて答えた。

「いません」

「は? 何でっ? どこに行ったっ?」

 つい今の緊迫感を忘れ、思わず叫ぶ女に、弟は困ったように言った。

「分かりません。さっき、部屋を覗いたら、いませんでした。書置きもなかったんで、すぐ戻るとは思うんですが……」

「お前、そんなことでどうするっ? あの子が、もし、この島を出たら……」

 言いかけたランに、無言の若者が、刀を手に襲い掛かった。

 意外な鋭さに舌を巻きながら、ランも剣を抜く。

 女たちや力のない者を廊下から下がらせ、エンも仲間の姿をした二人の男を見据え、穏やかに笑う。

「細部まで、似せていますね。恨みはないんですが、あいつらの代わりに、一度お手合わせ願おうか」

「二人共、どこで油を売っているのかしら。旅籠が散らかっちゃうわ。御免なさいね」

 ジュリは、傍で青ざめているこの店の亭主に、やんわりと詫びを入れている。

「構いませぬが……大丈夫なのでしょうか? まさか、奉行所の目に、止まってしまったのでは……」

「大丈夫よ。そちらは、あなた方のおかげで、すんなりと話は通っているから。代々、あなた方には、苦労を掛けるわね」

 やんわりと笑うジュリに、亭主は思わず顔をほころばせた。

「話には聞いておりましたが、まさかあなた方の頭の、代替わりを見ることが叶うとは。これこそ滅多にない事だと、聞いておりました。こちらこそ、至らぬせいでこのような事に巻き込んでしまいました。お許しください」

「……そういうのは、後でもできるだろうがっ」

 おろおろと蓮の袖を攫みながら、メルが呑気に話す二人に怒鳴り散らす。

 その目線の先で、ランがされていた。

 剣さばきに自信があるこの女を、ここまで苦戦させる紛い物を、蓮は腰の刀に手を置きながら、見据えている。

 場所も狭すぎる。

 疲れが見え始めた女に、無言の蓮が容赦なく斬りかかり、何とか避けたランの顔に、傷をつける。

「……こいつ、女の顔を……っ」

 睨みつけて、攻撃に転じようとしたランが、何故か体をよろめかせた。

 そこに、横合いからの刃が、体を真っ二つにする勢いで、襲い掛かる。

 何とか体を翻したが、避け切れなかった。

 振り返ったエンの目に、斬り払われて血を流し、膝を折るランの姿が見えた。

 その前に仁王立ちした若者が、無言で刀を振り上げる。

 その刃が、狙う先を見て、男は自分の相手の事を忘れて叫んだ。

「ランっっ」

 立ち塞がろうにも、間に合わない速さで、刀が振り下ろされた。

 信じられない光景に、立ち尽くすエンの背後から、大男が無言で襲い掛かる。

 我に返って、振り返った男と大男の間に、誰かが音もなく割り込み、容赦の欠片もなく、大男が斬り捨てられた。

 途端に大男の姿が消え、代わりに木片が真っ二つになって、転がった。

「質が悪い術師も、いたもんだな」

 腰をかがめて斬りつけた男が、エンの前で姿勢を伸ばした。

 振り返って、友人に笑いかける。

「お前でも、知り合いに情をかけるんだな。安心した」

「情がないのは、あなたの方でしょう。オレの姿をしたそれを、あっさりと斬り捨ててくれましたね」

 若干呆れた声が、投げられる。

「本物と一緒に戻ったのに、遠慮することは、ないだろう?」

 ジュラの笑顔を見、声の方を振り返ったエンは、ランに斬りかかった若者が、無言で飛びのいて間合いを取るのを見た。

 膝をついた姿勢で、顔を上げるランを見止め、その前に庇うように立つ、小さな若者を見つけた。

 紛い物の腕で蓮の刃を受け、ついでに蹴りも繰り出した若者が、被ったままの傘を少し上げる。

「……ゼツ、ロンを叩き起こせ。ランの傷が深い」

 短くセイが言い、無言で刀を構える若者を見据える。

「セイ……」

 エンが呼びかけた。

「お前な、出かけるなら出かけるで、書置き位していけ。心配するだろ」

 言いながら、ジュラの方に腕を伸ばす。

 背後から襲い掛かった、ジュラ自身の紛い物の首が、その手に捕らえられた。

「そうだよな、ここに本物がいるんなら、遠慮して痛い目見る事も、ないか」

 穏やかに笑い、その首を一気にへし折る。

「お前っ、オレの紛い物を、そんなやり方で……」

「ただの、木片じゃないか、なあ?」

「その木片に、さっきまで手こずってたくせに、よく言うな」

 他愛ない言い合いをしながら、エンは木片に戻った敵を床に落とし、一人残った敵を見据えた。

 その敵の前で、膝をついた女を肩越しに見た若者が、顔を上げる。

 無言で構える蓮を眺め、小さく笑った。

「礼を言っておくよ。あの勢いでは、間に合わないと思った。早さを鈍らせてくれたおかげで、ランの体はくっついている」

 煽っているのかと、仲間たちが見守る中、ジュラが刀を構えながら、前へと進む。

「足止めは任せろ」

「少しの切り傷でも、動きが鈍る刀らしい。気をつけろ」

 短く言った男に、セイが静かに呼びかけると、ジュラは鼻で笑った。

「性根の腐った奴が、作ったんだな。それを、しっかり使いこなせるのも、不思議だが」

「見た限りだと、それも出来そうな人だった。そうだ、難しかったらいいけど……」

「馬鹿にしてるのか」

 無感情に、何かを切り出そうとした若者を、ジュラは遮ってきっぱりと言った。

「この場から離れろ、だろっ」

 蓮が無言で、ジュラに飛び掛かった。

 重い一撃を受け、奥へと続く廊下に押し戻しざまに跳ね飛ばし、己も動く。

「……こちらは、頼む」

 短く言い置いて、セイも後に続いて行き、メルに捕まったままだった蓮が、無言で追いかけていく。

「おいっ」

 メルが追いかけようとするのを、ジュリが止めた。

「行ってはダメよ。あなたには、見せたくないのよ」

「何をっ?」

 振り返って問う女に答えたのは、叩き起こされて、ようやくランを看ていたロンだ。

 その顔には、陰りがある。

「……紛い物とは言え、蓮ちゃんの姿をした者を手にかけるのに、あなたがいたらやりづらいわ」

「と言う事は、あれは、こんな木片じゃないんですか?」

「木片どころか、れっきとした生き物ですよ。意志もあるから、ランは無事だったんです。でなければ」

 エンはへし折った木片を見下ろしながら言うと、ゼツが静かに答え、ランを見下ろした。

 仰向けに横になった女の傷からは、まだ血が流れていた。

「あの一撃で、ランは体が二つに斬られていても、不思議じゃない」

「そのようね。でも……」

 傷の具合を見ていたロンは、いつもの笑顔を収めたまま、暗い声で告げた。

「それを、不幸中の幸いとは、喜べないわね」

「そういうことは、怪我人の前で言うなよ。気休めを言えとも、言わないけどさ」

 苦笑するランは、立ち尽くすエンを見た。

「難儀だよな、あんな親父を持つと。自分も不死なんじゃあって、思ってしまう。思い違いなのに。ユウは、生き返らなかったのに……」

「ランちゃん、そう言う事は、まだ言わないで頂戴。今、塞げる傷は、塞いでるから」

 やんわりと、ロンは言ってはいるが、流石にいつもよりは声が固い。

 女は、青白い顔で目を閉じた。

「そうしてくれ。せめて、あいつらが、ここに戻って来るまでは、もってもらわないと」

「随分、気弱な事を、言うじゃないですか。あなたらしくないですよ」

 いつもの笑いで、軽口を吐いたつもりだったが、エンの顔は強張っていた。

 今迄、何十人もの生き死を、見て来たから分かる。

 斬りかかった刃に、ランの内腑は、持って行かれていた。


 外に出るわけにもいかず、ジュラは蓮を、広い部屋へと追いやって行った。

 自己流だが、剣の腕には自信がある。

 その上、体の中で養っている者たちが、未熟なところを補ってくれているから、それこそ傑物と言われる者以外とは、渡り合えると思っているのだが、今相手にしている若者は、そんな自信すら一笑に付されている気分になる、凄腕だった。

 足止めを買って出たが、セイが隙を見つけられるかも、分からない。

 いや、信じてはいるが、隙を見つけても、そこをついて動くことが、出来るのか。

 イチかバチかの、賭けに出るしかないのが、この集団のひどいところだった。

 いつも騒いでいる、広い座敷につくと、ジュラは立ち止まった。

 ここでも狭いが、外に出て、騒ぎを漏らす訳にも、いかない。

 修繕費が、馬鹿にならないな、と男は思いつつ、若者を見据えた。

 蓮の方も、無言でジュラを見据える。

 張り詰めた気配を破ったのは、同時だった。

 同時に斬りかかり、鍔競り合う。

 何度か打ち合ってみて、相手の方も自分流の剣筋で、しかも人を斬り慣れていると分かる。

 その上、今持つ刀は、ジュラにも分が悪かった。

「っ、本当に、質が悪いぞっ」

 これは、妖刀の類だ。

 刃を合わせるだけで、相手の力を奪うもののようだ。

 ジュラ自身は平気だが、刀の方が弱まっていた。

 そろそろ不味い、を思った時、案の定ジュラの刀の刃が、霧散する。

 舌打ちした男に、若者は無言で斬りかかった。

 衝撃に備えて、覚悟したジュラの前で、蓮が唐突に動きを止める。

 目を上げた男の前で、蓮と同じくらいの若者が、その刀を持つ手首を攫んでいた。

「……やっと、捕まえた。そろそろ、ちゃんと目を覚ませ、蓮」

 蓮の体が強張り、刀が手から滑り落ちる。

 立ち尽くす若者の前で、ジュラが大きな息と共に座り込んだ。

「そうだった、オレは、足止めだった」

 ついつい、剣戟に夢中になってしまい、それを忘れていた。

 そう言う男の前で、セイは立ち尽くした若者の腰の刀に、手を伸ばした。

 刀の柄を取る前に、固まっていたはずの蓮の手が、先に刀を抜く。

 ぎょっとしたセイの手首をそのまま攫んで、体を乱暴に床へ転がすと、振り返りざまに刀を突きだした。

 何事かと顔を上げるジュラの前で、いつの間にか現れた葵が、誰かの腕を斬り捨てるのを見た。

 二人同時の刃を食らったのは、セイの背後から、刀で襲い掛かった、若者だった。

 無くなった手を見下ろし、驚いた顔のまま絶命したその若者を睨み、無言だった蓮がようやく低い声を出す。

「……本当に、質が悪いんだよ。ぬけぬけと、人を、紛いもん扱いしやがって」

「だからって、あんたらが二人でやること、ないんじゃないのか?」

 派手に転がったセイが、ようやく起き上がりながら、文句を言う。

「それに、一言、言ってから、転がしてくれても、いいじゃないか」

「んな暇、ねえよ」

 短く答えてから、倒れた若者を見下ろす葵を見る。

「お前、今まで、どこにいたんだ?」

「部屋にいた。何があったんだ? その人と真剣に斬り合ってっから、敵対しちまったのかと、思ったぜ」

「そうさせることも、考えてたかもな、そいつ」

 座ったままジュラが頷き、ゆっくりと立ち上がった。

 近づいて見下ろす先では、先程までメルの傍にいた若者が、全く見知らぬ男に変わって、こと切れていた。

 蓮の刺し傷もだが、葵の切り口も見事だ。

 今後とも、敵に回すことがないように願いながら、男が切り出した。

「ランに、会ってやってくれ」

「……」

 改まった声に、目を見張る葵の傍で、蓮が無言でジュラを見た。

「心配しなくても、お前がランを斬ったなんて、斬られた本人も、分かってない」

 知られることがないよう、ここまで誘ったのだから。

 そう言う男に、葵が目を見開いたまま、聞き返した。

「斬った? 蓮が、ランを?」

「ああ。あれは、骨の奥まで、斬っちまった感覚だった」

「おい、何があったんだ、一体?」

 顔を歪める若者に、追いすがる大男を抑え、セイが静かに言った。

「そういう話は、後でしろ。……早く、行ってやってくれ」

「蓮、ランは、話したいことがあるはずだ。だから、頼む」

 ジュラにもそう促され、二人は座敷を出て行き、男も後に続く。

 一人残ったセイは、亡骸を見下ろしながら、不意に言った。

「どうだった?」

「……ああ。見つけた」

 部屋の片隅で、ポツンと座っていた黒猫が、答えた。

 帰り際に頼まれたことを済ませて、戻って来たのだ。

 その一連の話を、聞くともなしに聞いてから、若者は振り返った。

「あんたも、ランに会ってやってくれ。多分、あんたに、一番言いたいことがあるはずだ」

「オレにはない」

 きっぱりと答え、オキは若者を見上げた。

「あいつは、お前にこそ、言いたいことの、十や二十はあるはずだ」

「私の方にも、その位はある。でも、それは、今のような時に、話す事じゃない」

「オレの方も、そう言う話だ。本当に死にゆく者相手では、洒落にならん」

 オキにとってランは、主に当たる。

 オキの一族の、成獣としての証の立て方を、ランは知っている上に、何度も今際の際の話をされたが、本当にその姿をくれる気かは怪しいと、オキは思っている。

「本気だよ、ランは」

 セイが、ようやく部屋を出ながら、言葉を投げた。

「その意志、少しでも多く、汲んでやってくれ」

 足早にランが運ばれた部屋の前につき、廊下で立ち止まったセイを追い越し、オキが部屋へと入って行く。

 被ったままだった傘を取り、そのまま腕を下げて、部屋の中を伺う。

 死を迎える者のいる部屋は、大勢の仲間が集っているはずなのに、静かだった。


 戻って来た蓮とジュラを迎えたランは、息が早かったが、二人を見上げての言葉は、憎まれ口だった。

「遅っ。どんだけ、待たせる気だよ」

 弟の腕にもたれて体を起こし、見上げる顔も土気色だ。

 ジュラは、顔を強張らせつつ、何とか返す。

「悪い、ちと、手こずった」

「みたいだな。オレも手こずって、こんなことになった」

 笑いながら言い、黙ったまま見下ろす蓮を見上げた。

「悪かったな、蓮。自分の姿した敵なんか、やりにくかっただろ?」

「そんなことねえよ」

 短く答える若者に、ランは困ったように頷いた。

「そうだったな。お前、自分が一番憎いって、言ってたもんな」

「分かってるなら、そう言う謝り方、すんじゃねえ」

「お前には、謝らなきゃならないことが、沢山ある」

 この部屋にいた者たちとは既は、自分たちがいない間に、何かしら話をしたのか、口を挟む者はいない。

 ロンも、女の体を支えるエンの後ろで、静かに控えている。

「それも、見当ついてる。その多くは、ここじゃあ、謝れねえこともな」

「……そうか。なら、オレが、身籠ったかもしれないって話も、嘘だと分かっているか?」

「お前、知らねえのか?」

 静かだが、声はいつも通りに、蓮は答えた。

「女は身籠ると、食べ物の好みが変わる。オレが知ってる奴は、肉が好きだったのに、野菜ばかり、好んで食うようになったぜ」

「酒、飲まずに我慢したのにな……」

「ご苦労さん、だな」

 敢て、いつも通りに返す若者に笑いかけ、ランは後ろに立つ大男を見た。

「折角来てくれたのに、全然、一緒に呑めなかったな。今度がないのが、残念だ」

「ラン、お前……その……」

「ああ。今は、何とか生きてるが、夜明けを見れるかどうか、怪しい所らしい」

 その割に、まだ話すことが出来ている。

 信じられないが自身の鋭くない勘も、その言葉通りだと告げている。

 周りの連中も、軽口が出なくなる時が訪れるのを、恐れているように感じた。

「オキ、来いよ」

 そんな周りの空気に構わず、ランは静かに葵の背後に呼び掛けた。

 佇んでいた黒猫が、ゆっくりと女に近づき、静かにその膝の上に乗る。

「セイは?」

 次いで訊かれ、葵は振り返った。

 頭から取った傘を手に下げたまま、襖の外で立ち尽くす若者がいる。

 顔を伏せたままのセイに笑いかけ、ランは手招きした。

「遠慮せず、近くに来いよ。誰が何と言おうと、オレから見れば、お前はエンと同じ、オレの弟だ。こういう時くらい、可愛がらせろ」

 明るく言い、周りの仲間に声をかける。

「水入らずにしてくれると、助かるんだがな」

 室内の気配が揺れ、初めに動いたのは、マリアだった。

 素早く近づいて膝をつき、ランの首に抱き着く。

 無言で離れていく女の後に続いて、ジュリとゼツが静かに部屋を後にする。

 襖の前で立つ若者に一礼し、仲間たちが何も言わずに部屋を後にした後、客分の蓮と葵が無言で出て来る。

 最後にロンが、ジュラと共に近づいた。

「……あいつら、頼むな」

 ジュラが言葉少なに言い、ロンは無言でセイの頭を撫でて、そのまま廊下へと出て行く。

 立ち尽くしたまま、それらをやり過ごしたセイは、ゆっくりと部屋に足を踏み入れた。

 音を立てずに襖を閉め、ようやく顔を上げる。

 エンに支えられて座るランは、そんな若者を泣き笑いで見守っていた。

 傍に近づいて正座したセイを、そっと抱き寄せる。

「ああ、やだなあ。まだ、死にたくない」

 泣くに泣けず、笑うしかない、そんな様子の女の背を、若者は躊躇いながら軽く何度もたたく。

「今、あんたが言ったんだろ。私は、あんたの弟だ。可愛げのない、こんな弟の胸元くらい、いくらでも貸してやるから、泣き喚いても、いいんだぞ」

「可愛げがないなら、尚更、お前の胸なんかで、泣き喚きたくないぞ。もっと柔らかくて、可愛い方がいい」

 言いながらも離れないランの肩越しに、セイは天井を仰いだ。

 鼓動が、早い。

 僅かに響いてくる体の震えは、強がっているせいか、怯えているせいか。

 どちらでも、この場では致し方ない事だ。

 若者は両手を背中に回し、ランを強く抱きしめた。

「死ぬなって、言ってくれないのか? 薄情だな」

 肩に顔をうずめて、ランがこもった声で恨み言を言う。

「言って、本当に死なないのなら、何度でも言うよ。あんたに、無茶は言いたくない」

「……うん、すまない。かすり傷なら、すぐに治るんだ。これは、無理だよな」

 心の臓を、傷つけられたわけではないのが、幸いだった。

 まだこうして生きて、言いたいことを口走れる。

 だが、その隣にある、息をするのに大切な場所と、食べる物を消化すると言う場所が、半分ほどずつ刈り取られていた。

 これでは、死の危機が訪れているのが今でなくても、元に戻らないそれらは、周りにも己にも重荷になるだろう。

「オレさ、好きな奴がいるんだ」

 急に何を言いだすのかと、ランの後ろで戸惑うエンが見える。

 セイも同じ気持ちだが、黙って頷く。

「そいつ、体が弱くて、ちっこくて、何度も病で死にかけて、それでも、オレが、手に届かないような、高いところに上ってしまった。元々、望みはなかったんだけどさ、まだ、諦められないんだよ」

 相手には好きな奴がいて、互いに想い合っている。

「死ぬのは、嫌だけどさ、あの二人が、オレを置き去りに、幸せになるのを見るのは、もっと嫌なんだ」

 ようやく身を離し、只話を聞いているだけで、何の話なのか分かっていない若者に、笑いかけた。

「何のことか、分からないだろう? すまないな、こういう事を教えられる、兄貴分でありたかったんだけどなあ」

 取り繕えなくなったランは、雑な動きで振り返ると、腹違いの本当の弟を見た。

「エン、お前は、自分で臨んだ女と、幸せになれよ。甲斐性なさすぎると、親父の奴が、どう動くか、分からないからな。お前が、こうしてここにいるってことは、約束を守れる土台が、できたってことなんだ。その前に、いい女を見つけて、幸せになれ」

「……今でも、そう不幸せじゃないですよ」

「いや、そんなことはないぞ。誰かに惚れれば、分かる。どんなに恵まれてても、惚れた奴と幸せになれない、自分ではそいつを幸せに出来ないと、生きてることが、生れ落ちたままのこの体が、苦痛になる」

 それでも、ずるずると、ここまで生きてしまった。

「それを、終わらせられるんだな。今、やっと」

 死ぬのは、怖い。

 だが、もっと怖くて許しがたい事が、ランにはあった。

「オキ」

 膝から降り、その一部始終を見つめ続けていた黒猫を見据え、女は言い切った。

「約束した通り、残さず、くれてやる」

 無言で、目を細めるオキを睨むようにして、ランは続けた。

「絶対に、食い残すなよ。そして、絶対に、この姿を引き継げ。他の奴の姿で、あいつと馴れ合うのだけは、許さない」

 何も言わない猫を、悔しそうに睨み、荒く息を繰り返し、その息と共に吐き出す。

「くそっ、あんな下手な呪いじゃなく、毒でも仕込んでてくれればよかったんだ。そうすれば、こいつを道連れにできる。こいつが他の奴の姿で、あいつと馴れ合う不安を、地獄まで持っていくことはなくなる」

 そんなランを見つめたまま、オキが溜息を吐いた。

「二人の主を持って、その二人共の姿を貰った奴など、聞いたことがない。お前の取り越し苦労だ」

 気力が一気に削がれたのか、目が虚ろになり体をよろめかせた女を、セイがそっと支えている。

 近づいてランの顔を見上げたオキは、目元を緩めた。

「心配せずとも、お前を土台に、男前になって、あいつと馴れ合ってやる」

「……それも、何か腹立つな……」

 力なく返しながらも、ランの顔は笑っていた。

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