第3話

 何だ、この茶番は?

 蓮は、つい間に入ってしまった、このおかしな修羅場の様子を、自分なりに解釈しようとしていた。

 その日、蓮はランに、罠にかけた言い訳を聞いていた。

 言い訳されても、出来てしまったものは、どうしようもないが、聞かずにその事実を聞き入れるのも、得心が行かなかったのだ。

「実はな、親父が、逃げた」

 短く言いながら、ランが言い、徳利を振る。

「で、オレは今、頭領の補佐をやっているんだ」

 不思議な肩書だ。

 あの集団の、頭領の後を継ぐなら、血が最も濃いランが継ぐのは自然な事で、頭領の補佐、と言う肩書はいらないはずだ。

 そう言えば、と思い当たる。

 こちらに来た時、ランが言っていた。

 代替わりして、頭領は今、出かけていると。

 その頭領に補佐がいる、と言う事は……。

「まさか、誰かまだ年端も行かねえ奴を、次代に名指しして、逃げちまったのか? あの人は?」

「ご名答」

 ランは、溜息を吐いて頷いた。

「いやな、その前からちょくちょく、親父が漏らしてはいたんだ。そろそろ飽きてきたから、誰か別な奴を、後継として育てようって」

 折よく、ラン以外の子供が見つかり、実力もそれなりについていると、分かる位にはなっていた。

「そいつなら、多少手間取ることは、あるだろうけど、助けの手は、オレを含めて結構あるから、いいんじゃないか、って思ってたんだけどな……」

 突如、その年端も行かぬ者へ譲って、逃げてしまった。

「年端も行かねえって、そいつ、幾つだ?」

「十四」

 自分の見た目年齢と、同じくらいだ。

 相槌を打って、何気なく続ける。

「あの人が逃げたのは、いつだ?」

「六年前」

 ランの答えに、蓮はようやく話の転び方に、眉を寄せた。

「六年前? ってことは、当時はまだ八つのガキに、押し付けたってのか?」

「ああ。しかも、拾った翌日、起きたら置手紙一つで、だぞ」

 耳を疑った若者が、思わず声を張り上げる。

「拾った翌日? 生まれた時から、育ててた訳でも、ねえってのかっ?」

「そうなんだよ。あの子本人からすると、眠ったまま、知らない場所に連れてこられた挙句、起きたら、全く知らない奴らをまとめろって、手紙一つで、押し付けられたんだよ」

 頭が、くらくらして来た。

 まだ一滴も、酒を入れていないのに。

「そりゃあ、ひでえな」

 ランが湯飲みに酒を注いで、蓮に差し出しながら、苦い溜息を吐いた。

 自分は、白湯を物足りなそうに、一気に煽る。

 そんな女を見ながら、若者は尋ねた。

「どこで、拾ったガキなんだ?」

 答える前に、ランは何故か、再び苦い溜息を吐いた。

「名指しされた腹違いの弟が、急に足を洗うと言いだしたのが、そもそもの始まりだったんだ」

 その腹違いの弟エンは、カスミとの親子関係を聞かされていなかった。

 カスミの事は、頭領としてしか見ていなかったのだが、その日、父親と名乗られ、流石に仰天した。

 それを楽しみに、永い間、友やエンの師匠に当たるジャックに、口止めしていたカスミは、とても嬉しそうに、後継者の話を持ち出したのだが、血は争えないと言うのか、衝撃から立ち直ったエンは、きっぱりと断った上に、申し出たのだった。

「エンが、足を洗うと言い出した時、今度は親父が仰天してた。あんなに慌てた顔見るの、久し振りだったよ」

「へえ、そりゃあ、見たかったな」

 だが、驚きを引きずる男でもなかった。

 すぐに、その申し出のおかしさに気付き、ロンが腰を据えて調べ始めたのだ。

 そして、その時腰を落ち付けていた隠れ家より、少し離れた丘の一軒家に、誰かを隠し住まわせているのを、見つけたのだった。

「それが、その子供だ」

「……おい、それって、まさか、嫌がらせ、か?」

「いや、どうなんだろうな」

 首を傾げる女に、蓮は勢いよく言う。

「それ以外、考えられるか? 要は、エンって奴を縛りつける為に、そのガキを上に押し上げた、ってことだろっ?」

 子供は、いずれは大きくなって巣立つか、年を重ねて寿命を迎える。

 その後、エンが引き継げば、カスミの望み通りになる。

「……そう見えたんだけどさ、実は、少し複雑でな……」

 どこまで話そうか、そんな顔で、それでも話し出したランの話は、どこまでを信じろと言うのかと、困惑させるに十分な内容だったが、今、葵の前に立って見据えた人物は、なるほど、十四と言う年齢の割に、落ち着いている。

 騒ぎに気付いたのは、たまたま部屋から、出て来たところだったからだ。

 これから向かう奥の間から、喧騒と言ってもいい騒ぎが、漏れ聞こえる。

 何事かと、ランと向かった奥の間の襖を開けると、数か月前に別れた大男が、蹲る姿が見えた。

 同時に、この部屋だけ、妙にピリピリとした空気がある。

 その空気が、術にかけられる時の感覚に似ていると、蓮はその術をかけているはずの人物を目で探した。

 印を結んでいる者はいないが、若者の鋭い勘は、立ち尽くす一人の小柄な人物を捕え、すかさずその人物に飛び掛かる。

 先手を打ち、術を乱す積もりで刀を手に斬りかかる蓮と同時に、正気を失った葵が同じ人物に飛び掛かった。

 舌打ちした若者が、大男を拳で殴って遠ざけ、後ろに飛びのいた人物との間に立った。

 我に返って、自分の名を呼ぶ大男を肩越しに見てから、蓮は相手を見据えたのだった。

「……その曲者の、仲間か?」

 無感情な、幼い声だ。

 話は見えないが、葵がここにいる訳は、分かった。

 未だに凍った空気が覆う中、蓮は小さく笑う。

「……曲者、と言われることをした、こいつが悪いのは分かるが、嬲り殺されるほどの事は、してねえはずだ」

 さっきの感覚は、奇妙なものだった。

 何かを惑わすような、まじないじみた感覚と同時に、大男が抑え込んでいた、鬼としての欲を無理やり引き出して、鬼の姿を、さらけ出させようとしていた。

 葵自身は、分からなかっただろうが、額に角が生え始めていたくらいだ。

 今は、それも引っ込んだが、鬼としての本性を、無理やり引きずり出した上で、手にかけようとしていたのだ。

 いくらなんでも、手が込み過ぎだ。

 そんな言い分に、自分位の小柄な人物は、首を傾げた。

「そう思ったから、一人で嬲って見たんだけど」

「この辺りで、勘弁してやってくれねえか? こいつ、意外に正直者で、いい奴なんだぜ」

 やんわりと切り出すと、相手の若者もやんわりと返した。

「あんたは、どうなんだ? 床下に忍び込んで、床を突き破って出て来た見知らぬ者を、簡単に信じることが、できるのか?」

「……確かに。だがな、オレが知っているんだ。こいつは、迷い癖があって、どこにでも迷い込んじまうんだ。床下は初めてだが」

 何でこんな所に、迷い込んでんだっ?

 完全に呆れ返りながらも、蓮は大男を無事に帰そうと、言いつのっている。

 そんな蓮に、相手の後ろで慌てて手を振って何かを訴える、年若い赤毛の女が見えるが、見えないふりで誤魔化し、若者の出方を伺っていると、襖の前で呆気に取られていたランが、ようやく我に返って呼びかけた。

「蓮、やめろっ、そいつが、セイだっ」

 そうだろうと思っていた蓮の方は、動じなかったが、若者セイの方は目を見張って、新たな相手を見直す。

「……あんたが、蓮、か」

 じっと見つめた後、その背後を一瞥し、セイは言った。

「カスミの、兄の子供と聞いてたんだけど、その鬼の子供の、間違いじゃないのか?」

 その見つめ方が、先程掠めた考えを裏付けていたのだが、それを考える前に、言葉でかちんときた。

「……ほう、人の事が、良く言えるじゃねえか?」

 間を開けた言葉は、我ながら籠ったものだ。

「本物の女より、よっぽど女らしい奴が、人をどうこう言ってくれるたあ、驚きだな」

 完全に、煽られた形で、蓮は持っていた刀を、床に刺した。

「何とか、事を収めようと間に入ったが、そう言われちゃあ、喧嘩買うしかねえなあ」

「げ、蓮っっ」

 引き攣った、葵の呼びかけは無視し、若者を見据えると、セイも目を細めて、身振りで背後の仲間を下がらせた。

「ほう、女みてえなガキが、オレ相手にやるってか? 勝てると思ってんのか?」

 煽りの言葉に、若者は微笑んで答えた。

「あんたほど、追いつめられてない。私はいずれ、背が伸びる。そうなったら、どっちが、女みたいに見えるだろうな」

 こんな場でも、その滅多に見られない笑顔に見惚れる仲間に、セイは改めて言う。

「下がれ。巻き添えには、なりたくないだろ?」

「いや、しかし、これは……」

 突如、喧嘩の方向が変わった空気に戸惑い、優男が声をかけるが、セイに聞く気はない。

 一方蓮も、若者の笑顔に、見惚れた葵をどつき、言った。

「今のうちに、ここを出ろ。ランに送ってもらえ」

「ち、ちょっと待てっ。お前、本当に、あの子と?」

「ああまで言われて、黙って下がれるかっ」

 吐き捨てる勢いでの答えに、葵は慌てて追いすがる。

「お、落ち着けっっ。相手はまだガキだぞっ。せめて、刀持てっ。万が一、立てねえ怪我を、させちまったら……」

 そんな大男を、仲間をはねのけていたセイが、遮った。

「そこの大木たいぼく、邪魔だから、早く下がれ」

 声を詰まらせて、固まった葵を見上げ、蓮は若者を睨んだ。

「おい、いい加減にしろ」

 低い声で、反論した。

「その言い方は、大木に失礼だろうが。木ってのはな、大きければ大きいほど、生きる知恵ってのを、身に付けてるもんなんだよっ。こいつとは、比べもんにならねえんだよ。せめて、石か岩に、例えやがれっ」

 更に固まった葵を振り払い、売られた喧嘩を買うために向き直ったが……凍った空気が、霧散していた。

 前方で、喧嘩腰だった若者が、呆気に取られている。

 その目の先を追うと、そこには両目から涙を流す、葵の姿があった。

「れ、蓮、お前、そんなにオレが、馬鹿だと思ってたのかよ……」

「……そう、思われたくねえなら、少しは考えろっ」

 意外に涙もろい大男の言い分を、あっさり振り払う蓮は全く気にしていなかったが、セイには、珍しい光景だったらしい。

 驚いて固まっている若者に、すかさず優男が近づいて、両肩に手を置く。

「もういいだろう、な?」

 静かな申し出に、セイは無言のままでいたが、やがて溜息を吐いて、肩を落とした。

「……大の男が、そんなに泣くの、初めて見た」

 素直な呟きだった。

 それを聞いた周りの人間が、一斉に力を抜く。

「何だよ、お前の知り合いだったのか」

 ほっとした女メルが、ようやく蓮に近づいた。

「本当に、お前は元気だな。まさか、あんな場で、立ち塞がるとはな」

 ジュラが、気楽に近づきながら言うと、ランが蓮の足元に突き刺さった刀を抜き、若者に手渡す。

「元気過ぎだ、ったく、寿命が縮んだ」

 そんな女の文句に、腰の鞘に刀を戻す蓮を見ながら、ジュラがニヤリとする。

「そうか? オレは楽しみだったが。ロンを半殺しにして、頭領の座を手に入れたセイと、カスミの旦那の首を狙った事のある蓮の、喧嘩」

「ばっ、何言ってんだっ。これ以上、ここを壊したら、当分この国に、来れねえじゃねえかっ」

 メルが喚くのを聞きつつ、蓮は天井を仰いだ。

 カスミの首を狙った……それを、会う度に言われるのが、一番気まずい。

「念のため、訊くけど」

 いつの間にか、葵の傍に座ったセイが、懐紙で大男の鼻を噛んでやりながら、切り出した。

「本当に、迷っただけなんだな?」

「おう、本当だよっ」

 強く言い切る葵の言葉に、蓮が付け加える。

「こいつ、迷い癖が昔っから、治らねえんだ」

「……その目は、本当に、飾りなのか?」

 呆れたように言う若者に、葵は強く答えた。

「飾りなんかじゃ、ねえよ。使ったからこそ、ここまで来れたんだぜ」

 それから、蓮に懐から出した物を、差し出す。

「お前、これを忘れてたろ? 渡さねえとって、追いかけて来たんだ」

 手にしているのは、小刀だ。

 それを見下ろした蓮は、頭を掻きながら言う。

「すぐに、追いかけたのか?」

「おう。なのに、追いつけなくてよ、仕方なく江戸に向かおうとしたら、分かんなくなっちまって……」

「……」

 会えてよかったと、葵はほっとしているが、蓮は額に手を当て、溜息を吐いた。

「葵、オレが、お前の所に寄ったのは、いつだった?」

「? 一昨日だろ?」

 ランが目を丸くする中、蓮は首を振って怒鳴った。

「二か月前だっ。お前な、追いかけるのはいいが、昼と夜の見分けをつけて、日が変わるの位は考えて動けと、何度言ったら、分かるんだっ?」

 大男は、その迫力に身を縮めた。

 昔から、この大男は、夜に動くことが多い。

 だから、迷うのも大抵が夜で、高い位置に上って、今いる場所を把握するのだが、その方法を思い出す前に、散々迷っている。

 だからこそ、高い位置でも、何処か分からない。

 何日迷っていたのかが、自分でも分かっていれば、そんなことにはならないのではと言う、蓮の親心なのだが、それを守ったためしはない。

 今日は偶々、自分がここにいたからいいが、そんな偶々が、いつも起こるはずがない。

 そんな思いで怒鳴った若者に、葵は身を縮めながらも、言い訳した。

「だってよう、疲れたらその場で寝ちまって、いつ朝になってるのかも、夜が更けてるのかも、分からねえんだ」

「だから、その、どこでも寝ちまうのを、まずは治せって、言ってんだろうがっ」

 日にちが変わっても分からないなど、蓮からすると、信じられない堕落した生活だ。

「相変わらず、すごい迷い癖と、いい加減さだな」

 呆れるランと、頭痛がして額から手が離れない蓮と、身を縮めて若者たちの様子を伺う、葵を見比べていたセイが、不意に言った。

「その辺りのことは、あんたらの話だから、他でやってもらえばいいけど……」

 言いながら、床を指さした。

「あれの繕い費は、出してくれるよな?」

「ん……?」

 振り返った蓮が、穴の開いた床を見て目を剝いた。

「おい、まさか、あの穴はっ」

「そう、その人が、出て来た時の穴」

 蓮は、再び葵を睨み、怒鳴った。

「お前は、建物の入り口まで、分からねえようになったのかっっ」

「そ、そうじゃねえっっ。昔の癖で、つい……でもなあっ」

 更に、怒鳴られそうになり、葵は血相を変えて続けた。

「オレは、上から刺されかかったんだぜっ。避けた拍子に……」

「柱に頭をぶつけて、思わず立ち上がった、か」

 セイの言葉に詰まり、大男が黙り込む中、優男のエンが穏やかに頷いた。

「柱が折れなかっただけ、ましだな。なあ、思い違いで、命からがらな目に合わせてしまったんだから、この辺りで許してやってはどうだ? 繕う金くらい、けちる事ないだろう?」

「……そうだな」

 あっさりと頷いて踵を返し、部屋を後にしようとする若者の背に、蓮が言葉を投げた。

「許しを乞うのは、お前の方じゃ、ねえのか?」

 立ち止まって、首だけ振り向くセイに、蓮は不敵な笑みで言う。

「床に穴をあけた位で、ああまで嬲るのは、やり過ぎだろうが」

「女と間違われた挙句、人質に、取られたんだけど」

 無感情な答えに、蓮は小さく息を吐いてから、先程の違和感を口にした。

「さっきのあれ、上手くいったことが、何回あるんだ?」

 突然、意味の分からない事を言い出した若者に、当惑する一同の前で、セイは少し目を見開いた。

「……何のことだ?」

「言ってもいいのかよ? この場を治める為に、お前がやろうとした事を?」

「……」

 無言で体を振り向かせ、正面からまじまじと蓮を見つめるセイに、葵がおろおろと声をかける。

「あのな、別に、オレは気にしてねえからな。床に潜り込んじまったのは、オレが悪いんだから」

「……いや、やり過ぎたのは、謝る」

「いや、でも、あれは……」

 思わず言いかかった大男の口を、上から拳を落とすことで止め、蓮はセイを見た。

「悪いと思うんなら、形で現わしてもらおうか」

 妙な事を言い出した若者にランが目を見開く中、セイは素直に頷いて、問いかけた。

「どういう形で、現わせばいい?」

「一夜の宿。こいつに、くれてやってくれ」

 言い切った蓮は、意地の悪い笑顔を浮かべた。

「そんで、お前が一晩、こいつの相手を、してやってくれ」

 部屋の空気が、先程とは違う凍り方をした。

「れ、蓮っ?」

「お前、何を馬鹿な事をっ?」

 あんぐりと、口を開いてしまった葵の代わりに、メルとランが口々に喚くが、蓮はどこ吹く風だ。

 一気に、自分に向けられた殺意を受けながら、相手の答えを待つが、セイの方はきょとんとして、首を傾げた。

「それじゃあ、軽すぎないか?」

「そんなこと、ねえよ」

 軽く驚きながらも、蓮は不敵に笑って見せた。

「お前、この国じゃあ、極上品に当たるぜ。高く売れる」

 恐らくは、どの国でもそうだが、控えめに言うと、若者は眉を寄せた。

 自分を指さして、小さく唸る。

「これが? 金で売れたことなんか、ないぞ?」

 本気で、言っている。

 嫌がらせのつもりだった蓮は、流石に唖然としてから咳払いする。

 そして、切り出した。

「お前だけで、軽いってんなら、極上の酒でも、つけてやってくれ。酌してやれば、こいつは喜ぶ」

「分かった」

 セイがあっさりと頷いた時、突然、葵が立ち上がった。

「こらあっっ、お前っっ」

 その勢いのまま、肩に攫みかかったのは、セイの方だ。

「な、何だっ?」

 流石に、身をすくませた若者に、強面の大男は、怒鳴るように言った。

「そんなに簡単に、自分を傷つける事を、引き受けてんじゃ、ねえっ。お前、親が泣くぞっっ」

「泣いてるの、あんたじゃないか」

「当たりめえだっっ。お前、こんなに小さいのに、苦労してんだなあ」

 しがみ付いて、おいおいと泣く大男を見下ろし、セイは呆然と呟いた。

「今が一番、苦労してるんだけど」

 狼狽えるセイと、泣きじゃくる大男を見ている仲間たちは、毒気を抜かれてしまったようだ。

 そんな様子を見やり、エンが葵に声をかけた。

「葵さん、とおっしゃいましたね? よろしければ、酒と一泊で、先程の無礼を、許して下さいますか? こいつの酌と、極上の酒を、用意できますよ」

「……おう、そうしてくれ。こいつに一晩中、親からもらった体の大切さを、しっかりと叩きこんでやるっ」

 その力のこもった言葉は、全く色事を考えていないものだった。

「……勘弁してくれ、私がもたない」

 珍しい弱音が、セイの口から洩れ、仲間内からは笑いと安堵が漏れた。


 ロンは、初めてセイと衝突した時、二つの間違いに気づいた。

 と言っても、衝突前に気付いた間違いは一つだけで、もう一つの間違いに気づいたのは、完全に死の直前にまで追いつめられた、後だった。

 エンが隠していた者を女と勘違いし、カスミと結託してその命を絶とうと、隠れていたセイの元へ訪れた。

 その時驚いたことは、間違いに気づいた時ほどの衝撃はなかったが、数は尋常ではなかった。

 一つは、家の前に、仕掛けられた罠。

 単純な落とし穴だったが、様子を見た限りの姿では、穴を掘れるとは思えなかった。

 いや、それどころか、普通に生きる事すら、出来ないのではと、危ぶめる姿だった。

 両腕を失った、美しい娘。

 それが、初めて見た、ロンの印象だった。

 そんなセイが仕掛けた罠に、見事にはまってしまい、何とか這い出たロンは、まず一つ目の間違いに気づいた。

 そう、娘ではなく、若者だったのだ。

 エンが、そちらの好みに目覚めるのは、あり得る事だから仕方ないとして、ロンは無感情なその若者に、切々と命を狙う理由を話したが、セイは真顔で言ってのけた。

「もう、夢中ではないはずだ」

 何を根拠に、問う男に、若者は言い切った。

「昨夜は、少し食べられた」

 驚きの中の、一つは、この言葉だった。

「何ですって?」

 思わず問い返したロンに、セイは真剣に続けた。

「私が、何も口にできなくなって、何とか食べられるようにと、夢中になっていたのは本当だけど、もう、そこまで根を詰める程では、ないと思う」

「? 好き嫌いの感情は、ないの?」

 思わず言ってしまった男に、若者は、さらに驚く答え方をした。

「……あんたの言う事は、分からない。私は、嫌いで食べられなかったわけでは、ない。勿論、好きすぎて、勿体ないと思って、食べられなかったわけでも、ないけど」

 話が、噛み合わなかった。

 混乱した男は、ついつい、強い言葉で言った。

「ちょっと、食べ物から、離れてくれるかしら?」

「? 食べる物以外で、好き嫌いを決めるものが、あるのか?」

 その時、娘ではないものの、それなりに成長した若者だと思っていたのだが、少しおかしいとは思った。

 憂いを断つべく動いた男の言い分を、セイは受け入れたのだが、それを覆したのは、ランの傍にいるはずの、オキだった。

 ラン独自の考えで、セイを助けようと動いていたようで、オキは自分を盾にしてでも、若者の命を守ろうとした。

 その覚悟を見て、何かを感じたのだろう。

 セイは、ロンを迎え撃つ覚悟をした。

 そして見事に、それを果たしたのだ。

 あれが本気だったのなら、自分は完全に死んでいたと思う。

 時が止まり、寿命がなくなっただけで、死なない体になったわけではないからだ。

 後で、エンやその師匠のジャックから、セイの正体を聞いた。

 ジャックの娘と、カスミや自分の、血の繋がらない叔父に当たる男との間にできた子供で、年齢は八歳。

 二つ目のその間違いは、未だに、立ち直れない衝撃を残した。

 幼い子供だと気づかずに、本気で攻撃してしまった事が、何よりも衝撃だったのだ。

 あれから六年の月日が経ち、セイは成長したが、未だにその幼さは消えない。

 だが、いずれはその幼さは消え、すぐに大人となり、老いてゆくだろう。

 世話になった叔父の子供を、恩返しとして、養っているわけではない。

 驚きは、初めて会った時から更に増える一方で、その分大切な存在となっているのだ。

 だから、ランの考えは、同意できる。

 騙し討ちは、気が進まないが。

 ロンは辺りを見回しながら、昔のことを思い出し、唸った。

 走馬灯、ではないとは思うが、似たようなものかもしれない。

 ただぶらぶらと、武家屋敷の壁沿いを、歩いていただけだったのに、突然そこから、抜け出せなくなったのだ。

 歩き回りながら、時が過ぎているのも感じていたが、どの位経っているのかは、あやふやになっている。

 もうすぐセイが戻って来るから、この国の珍しいものでも買って、驚かせようと出島を出たのだが、何かを買うどころか、セイを出迎える事も、難しいかもしれない。

「困ったわねえ」

 こんな時でも、やんわりとした喋り方になってしまうが、ロンは妻子持ちである。

 本当なら妻を愛し、娘を大事に育てながら、時の移り変わりを見つめていられる立場なのだ。

 自分やカスミの家柄は、そんな小さな幸せすら、叶えられぬほどに、荒んでいた。

 それこそ、カスミの落ち込みを言い訳に、こんな盗賊紛いの群れを作り、鬱憤晴らしに、大暴れしようと思い立つほどに。

 大暴れする言い訳を探し出して、質の悪い一族や城を襲うのだが、ロンはその面倒臭さにすぐに根を上げ、カスミに押し付けてしまった。

 初代がロンで二代目がカスミと、知っている者はもう殆どいないのだが、カスミの従兄弟で、友人と言うのは、広く知られていて、それなりに、敬われてはいるようだ。

 敬われてはいるが、気にされるほどではないのだ。

 今頃、仲間一同は、何か理由を見つけて、騒いでいるのだろう。

 騒ぐのが好きな奴が多いし、何よりこの国では、派手に動かぬと、決めているのだ。

 セイが戻るまで、ランの守猫のオキがいないから、下手に誰かに助けを求めて、ランが出てくるようでも、困る。

 鬼門だと、言われたこの国に、ランが来てしまっているだけでも気がかりなのに、こんな訳の分からない所に、来てほしくはない。

 この場から、助けを呼べるのかも、危ういのだが。

 どこか、綻びがないかと探しながら、ロンは再び歩き出した。

 中々、上手く結んである、結界だ。

 これでは、外からは全く見えないのでは、なかろうか。

 しかも……。

「まずいわよねえ」

 この中にいて、分かった事がある。

 この結界は、閉じ込めるだけのものではなく、中の者の体力を徐々に奪う、何かの呪いがかかっていた。

 歩いていても、立ち止まっていてもそれは同じで、もう疲れ気味だった。

 これ以上捕まっていては、本当に、命が危うい。

 焦るロンの耳に、微かな音が聞こえた。

 ほんの、小さな音だったが、その音には、聞き覚えがあった。

 猫が、壁や木に爪を立て、研ぐときの音に、似ていた。

 まさか、と近づいて、その音が聞こえる場所を、見下ろす。

「……あった。本当に、見えにくいな。この後どうする?」

 小声で、誰かと誰かが、言葉を交わしていた。

「……だから、お前は、オレが、出来なかった時に動け。もしかしたら、これで、ロンとも……」

「オキちゃん? セーちゃん、戻ったのっ?」

 声が、ぴたりと止まった。

 だが、そこにいるのは何となく分かるロンは、まず気になった事を、矢継ぎ早に問いかける。

「怪我無く、無事に戻れた? きちんと、事を収められた? ちゃんと、良く寝た?」

「……帰ってから、まとめて答えるから、あんたの方が、大丈夫かだけ、教えてくれ」

 オキの声が聞こえた辺りから、無感情な、懐かしい声が答えた。

「セーちゃん。声が聞けて、嬉しいわ」

 ほっとしているロンに、僅かに呆れた声が返す。

「それは、こちらが言う事だ。何の知らせもなく、二日も、あんたが戻らないと聞いた。どれだけ心配されてると、思っているんだ?」

「御免なさい。あなたも心配した?」

「聞いたのは、ついさっきだから、心配する間は、なかったよ」

 オキと、ジュリの飼う小鬼を使った、簡単な伝達の術。

 それは、こうして離れた場所の者同士の、言葉のやり取りにも使える。

 まさか、結界の中の者とも、それが出来るとは、思っていなかったが。

「オキに、私の髪の毛を、持たせているんだけど、それで、解けるかどうか」

「……解くから、少し黙ってろ」

 オキが低く答え、何かをやっている気配があるが、すぐ舌打ちした。

「これは、少しずつ、綻びを作るしか、ないな」

「そう。やってくれる? こちら側まで綻びが繋がったら、あたしの方から、破れるかも」

「……明日の朝、私も、そちらに行くから」

 呟くオキに頼むロンに、セイは、こともなげに言った。

「……それは、その島を出て、ってこと?」

「出るしか、ないだろう?」

「駄目よ」

 ロンが、強くきっぱりと言い切った。

「少しずつでもなんとかできると、分かったじゃない。あなたが出てくることは、ないわ」

「言ってやれ、オレらじゃあ、説得できなかったんだっ」

 オキの悔しそうな言葉を受け、男はゆっくりと、若者に言葉を投げる。

「そこで、待ってて頂戴」

「……そこを出て、逃げ帰れるのか? あんた、疲れてるだろ?」

 声しか聞こえていないはずなのに、なんで分かる? とは言えず、ロンは何とか、笑いを声に乗せて答えた。

「疲れてないわよ、失礼ね。それに、忘れてない? あたし結構、足は速いのよ」

「そうだったな。やせ我慢は気になるけど、少しは待つよ。明日の、夕方まで」

 少しだけ、セイは待つ約束をしてくれ、ロンはほっとして返した。

「それで十分よ。もしかしたら、騒ぎになっちゃうかもしれないから、船を出せるようには、しておいて」

「分かった。待ってる」

 素直な返事の後、伝達は途絶えた。

 ジュリの鬼が、帰ったらしい。

「……オキちゃん、急いで」

「分かってる」

 緊迫した声に、それ以上に、緊迫した声が答える。

 二人の思いは、一つの事に関しては、同じだった。


 葵と蓮は、夜までには間があると、ラン達に誘われ、料理と酒をふるまわれることになった。

 まだ若い頭領は、その騒がしい部屋から退散し、あてがわれた部屋で休んでいる。

「夜になったら、一泊できる部屋と共に、あの子をお貸ししますので」

 エンと名乗った優男が、穏やかに葵に言い、料理皿を前に置く。

「お口に合うかは、分かりませんが、どうぞ」

 大喜びの大男の横で、蓮はランの酌を受けて、酒を煽った。

「……なあ、あの頭領のあの手、紛いもんか?」

 会った時から、気にはなっていたが、それを指摘する暇はなかった。

 黙って頷くランに、葵がでかい塊を口に含んだまま目を剝き、そのまま飲み込んでから、聞き返す。

「紛いもんって、両腕か? 指まで動いてたじゃねえか」

 それには、そのまま座ったエンが、笑顔で答えた。

「そういう、紛い物なんです。あれは、セイの祖父が、あの子の為だけに作った、最高の品です」

 指の関節まで、精巧に作られた、完全な義手。

 それを作った、祖父とやらも、すごいが……。

「あんなに、自然に動かすのか、あいつ」

「生まれつき、なのか?」

 感心している蓮の横で、葵はそちらの方が気になって、ついつい訊いてしまう。

 躊躇いが分かったのか、エンは少し柔らかい笑みで答えた。

「子供の頃、切り落とされたそうです」

「……」

「魔女狩りって、知ってるか?」

 その悪習に、巻き込まれたのだ、と言うランに、葵は目を剝いて、つい言ってしまった。

「魔女って、あいつ、男なんだろ?」

「何でまだ、確かめの言い方なんだ? 顔はあれだけど、体は男だろ?」

「なら、何で……」

 事情を知らない大男に、蓮は静かに説明した。

「聞いた話だが、悪魔の疑いのかかった者は、一括りで魔女、と呼ばれているらしいな。それこそ、男でも女でも、そう呼ばれているらしいぜ」

 若者は、ランを見た。

「大叔父とやらの、子供なんだよな? 何で、そんなもんに、巻き込まれる? そのおっさん、子供も守れねえほど、弱いのか?」

 冷ややかに問う蓮に、ランは首を振った。

「話が長くなるから、手短に言うぞ」

 女はそう言い置いてから、短く説明した。

「大叔父は、ジャックの娘との間に子供が出来たが、迎えに行くより先に、女に駆け落ちされたんだ」

「……誰と、駆け落ちなんかしたんだ?」

「そこの、ゼツの親父と」

 指をさされた方を見ると、湯飲みを傾けようとした手を止め、こちらを向いた大柄な男がいた。

 銀色がかった髪と瞳の、妙に表情のない男だ。

「だからな、セイが捕まった時は、大叔父はまだ、女と子供を探している最中だった」

「今は、探しているかすら、分からないんです。ここに顔を出したことも、ありません」

 穏やかに笑いながらも、エンは心底、その男を嫌っているようだ。

「探していたのなら、あんな城に連れていかれる前に、救いだしたでしょうから」

 笑いながら言う男を見て、思わず慄く大男に、ランはまた、短く説明した。

「人を食らう者が、住むと言われた城にいたんだとさ。オレたちは、知りもしなかったが、エンとジャックは、元々あの子の救出を考えて、前準備していたらしい」

 弾劾しようにもその証はなく、爵位持ちであったために、疑いだけで処罰が出来なかった男と、その城の使用人たち。

 そこに、自分たちが、目を付けたのは偶々だったが、エンとジャックには、好都合だった。

 考えてみれば、自分が高値で売れるなどと思えないのも、そう言う場で、接待を強要されていたから、だろう。

 たった十四年の間に、そういう体験をしてしまっては、流石に残りの人生は楽しめまい。

「……寿命持ちで、それは気の毒だな」

 しかも、今はこんな、平穏とは縁のない場所に、縛られている。

「だからな、考えて欲しいんだ。ガキの事はこの際、置いといてくれても、いいからさ」

「そんな訳には、いかねえだろうが」

 何の話だと、目を丸くする葵の目を避け、蓮が言い切るが、女は首を振った。

「オレは、あいつを、縛りたくない」

「……」

「お前も縛りたくはないが、エンがもう少し、落ち着くまでの間なら、お前にとっては短いだろう?」

 小さく唸る若者の前で、ランの隣に座るエンが、穏やかな笑顔を苦笑に変えた。

「オレが、やるしかなくなるんですか?」

「お前しか、後は残らないだろ? ロンは、嫌だって言うし」

「オレも、嫌なんですけど」

 そんな、真面目な話をしていたのは初めだけで、すぐに仲間たちと馴染んできた葵は、意気投合した連中の中に、入っていった。

 そんな様子を見守りながら、蓮は考える。

 もし、この集団に入るとしたら、葵は残していかねばならない。

 いずれは戻るにしても、その間、一人にしていても、大丈夫だろうか。

 それに、あの、セイと言う若者。

 ランやエンが知らない、何か重大な、秘め事をしているような気がする。

 知られてはならないと、若者本人が、ひた隠しにしているであろう事、だ。

 それを、自分が無理に知らなくてもいい、とは思うが……。

 意外に気安く、気のいい連中が集う部屋を見回してから、蓮は天井を仰いで溜息を吐いた。

 この連中が、衝撃を受ける類の話ではないかと、思えて仕方がなかった。


 夕方、部屋に案内された葵の元に、セイは約束通り訪れたのだが、案内されてから若者が姿を見せるまで、随分間があった。

 男と一夜を共に、と言う事への躊躇いより、説教を延々と聞かされるかもしれない、と言う尻込みだと分かってしまっている葵は、強面の顔を更に厳しくしてセイを迎えた。

 酒とその肴、茶道具一式を乗せた盆を両手に携え、部屋の戸口で立ち尽くした若者は、その顔を見て溜息を吐く。

「ほら、お待ちかねだぞ」

 エンの声に促されて、渋々足を踏み出し、引き戸が閉まるのを見届けてから、胡坐をかいて座る大男の横に、正座した。

 盆を床に下ろし、湯飲みを葵に差し出す。

「……」

 無言で受け取った大男の湯飲みに、ゆっくりと徳利を傾け、酒を注いだ。

 その姿勢の良さに、内心驚きつつも、葵は声を険しくして言った。

「随分、手馴れてるじゃねえか。こういう接待も、やり慣れてんのか?」

「見よう見まねだよ。酒の席では、殆んど雑用だからな」

 自分の湯飲みには、熱い緑茶を注ぎながら、セイは続けた。

「酒は苦手なんだ。匂いだけでも眠くなる」

「それなのに、ここに来るのを、強く拒まねえのかっ。本当に、親が泣くぞ」

「心配ない。もう泣く親は、いないんだ」

 笑いながら答えられ、葵は思わず言葉を詰まらせた。

 先ほど聞いた話が、説教の勢いを鈍らせる。

 そんな大男を、若者は呆れて見やる。

「あんたの二親も、もういないんだろ?」

「ああ。ランに、聞いたのか?」

 思わず目元を潤ませてしまった葵は、それを払いのけながら問うと、セイは小さく頷いた。

「さっき呼び止められた。あんたはいい奴だから、心配するなとか何とか、よく分からないことも、言ってたけど、何だろうな」

「な、何だろうな」

「私が、あんたを嬲る方が、あり得るのに」

 小さく笑いながらの言葉に、葵は首を傾げた。

「やらねえだろ、もう。オレはもう、あの連中に襲われること、ねえし」

「……」

 目を見開いて自分を見る若者に、大男は笑顔を向けた。

「オレを、あの場から逃がすための、方便だったんだろ?」

「……何の、ことだ?」

「お前、オレが、本当のことを言ってるって、分かってたんだろ? だから、あの連中の目を誤魔化して、オレを、殺したように見せかけようと、してくれたんだろ?」

 湯飲みを持ったまま、目を瞬くセイに、葵はゆっくりと言った。

「有難うな。お前、優しいんだな」

「……礼を言われても、困る。今だから言うけど、あのやり方は、上手くいかない方が多いんだ。五人に一人しか、上手くいかない。かと言って、真に迫っていないと、あいつらを騙せないし……蓮が、間に入ってくれて、助かった」

 呟く様に答えるセイに頷いた葵は、大きな手を若者の頭に乗せた。

 笑いながら、くしゃくしゃと頭を撫でる。

「お前、本当に、めんこいな」

「……めんこい?」

「可愛いって意味だ。怒んじゃねえぞ。これは、お前が女みたいだから言ってんじゃ、ねえからな」

 セイの目が、細まった。

「……可愛いは、そのせいじゃないけど、女みたいだとは、思っている訳か?」

「お前な、言葉の揚げ足取るの、やめろ。素直に喜んどけばいいんだよっ」

 褒めるのも命がけの、子供の相手は大変である。

 やれやれと心の中でぼやきながら、セイの酌で酒をちびちびと飲み始めた。

 昼間呑んだ酒より、澄んだ香りの、いい酒だ。

「これ、本当に、極上じゃねえか」

「ここは、カスミが代々、懇意にしてる宿なんだ。あいつの為に、選りすぐりの酒を、いつでも出せるように、集めてるらしい。日が経ちすぎると、その酒は味が落ちるから、あんたにもって、ランが」

 豪快に飲む酒ではないと、葵も味わいながら飲む。

 肴の一品一品にも、顔を綻ばせる大男を眺め、セイは首を傾げた。

「何だ? 何か、顔についてるか?」

「ついてるけど、私にもついてるから、気にならない」

 それに気づいて問う葵に、素直に答えてから、若者は言った。

「不思議だな」

「何がだ?」

 軽く返すと、若者も軽く答えた。

「共食いした事のある人が、こうして大人しく、座っているのが」

「……」

「一度、味を占めたら、大抵そのままだって聞いてたのに、あんたは大人しいし、さっきも長く我慢できてた。武士って、我慢強いのか?」

 無邪気に、首を傾げての問いに、葵は、言葉が出なかった。

「……何か、変なこと、言ったか?」

 様子がおかしいのに気づき、セイが大男の顔を覗きこんだ。

「お前、会った時から、変な事しか、言ってねえじゃねえか」

「そうか?」

 ようやく返した葵に、若者は首を傾げたままだ。

「……二度と、あんなことは、御免だ」

 男は言い、残った酒を一気に煽る。

「……」

 それを見上げてから、若者は空になった湯飲みに、酒を注いだ。

「……何だよ。言いたいことがあるんなら、黙ってねえで訊けよ」

「あんたって、優しいんだな」

 真っすぐな、先程の葵の言葉を真似た言い方だが、威力が凄まじかった。

 ちびちび飲んでいた酒が、のどに詰まり、大男が咳込む。

「だからこそ、不思議なんだ。一度、人食いに落ちたのに、自分を取り戻してるなんて」

 激しく咳込む、大男の背をさすりながら、セイは一人ごちる。

「まあ、そう言う不思議なら、後味悪くないから、大歓迎だけど」

 再び葵を見上げ、首を傾げた。

「大丈夫か? 慌てて飲まなくても、誰も取らないぞ」

「……」

 これは、素、なのか?

 何とか息を整えながら、葵は考えた。

 十四歳と言えば、もう立派な大人だ。

 あの連中を束ねる頭領なのだから、ある程度の知を備えているようだが、言葉の所々に、素直な一面が見える。

 盗賊のように見える、あの連中の上に立つ若者が、こんなに未熟でいいのかと、葵は咳払いして切り出した。

「オレは、優しくなんかねえよ。それに、自分で、戻れたわけでも、ねえ」

 目を瞬いているセイを見下ろし、大男は笑った。

「蓮がいなかったら、オレは間違いなく、人食いの鬼として、誰かに退治されていたはずだ」

 自分を失い、人を無闇に襲うようになる鬼の末路は、昔からそう決まっていた。

「この国の鬼は、大陸での夜叉、なんだってな。大陸とこの国が、分かれ始めた頃に海を渡ってきて、人間の姿を取るようになった、と聞いたけど」

「そうなのか。オレはそんなことまでは、知らねえな」

 知っているのは、どこに住んでも、秘かに暮らしても、人間とは相いれない生き物だ、と言う事くらいだ。

「少なくとも、お袋が生きていた頃の、住処の辺りの奴らは、そうだった」

 今は、また別の者達が住み着いているが、好んで人付き合いをしようとは思わない。

 自分が何者かを知れば、手のひらを返して、襲い掛かって来るからだ。

「お袋は、そいつらに襲われても、手を出さなかった。なのに、あいつらは、首まで取っていきやがった」

 その時、葵は外で彷徨っていたのだが、その日は何故かすぐに帰り着いた。

 今思えば、虫の知らせ、と言う奴だったのだろう。

「ムシノシラセ……?」

「何て言えばいいのかね、何か嫌な感じがあって、感覚が尖っちまって、すぐに家が見えたんだ」

「悪い予感、みたいなものか」

 得心が言った若者に頷き、葵はその時の事を思い出す。

 住まいとして建てた、小屋の戸を開けた時の、血の匂い。

 母親の、変わり果てた姿。

 ふらりと外に出た葵を、指さして喚く男衆。

「……その人たち、まだいたのか?」

「いや、親子の鬼だったと知って、オレを退治しに戻ったらしい」

 思い思いの道具を手にした、その姿を見た途端、葵は頭の中が真っ白になった。

 そして、気づいたら、目の前に蓮が立っていたのだ。

「あいつは、妙に静かな目で、オレを見上げてた」

 怯えも怒りもなく、ただ見上げていた。

 動かない若者を前に、葵も動けなかった。

 見上げたまま、蓮は静かに言った。

「こんなこと、オレで最後にしとけ」

 何のことかと問おうとして、気づいた。

 濃い、血の匂いが、辺りを埋め尽くしていた。

「足元を見たら、何だか分からねえ、肉片が落ちてんだ。自分がやった事だと、何故かすぐに分かっちまった。あの時は、あのまま狂ってた方が、良かったんじゃねえかって、思ったもんだ」

「……」

 狂ったように叫んで、泣き喚いた。

 何に対して泣いたのかも、分からない。

 蓮はそんな葵を見守り、落ち着くまで傍にいてくれた。

「誰かも知れねえ奴に、お袋の墓まで、作ってもらっちまった。家の片づけや、山の浄化まで。何から何まで、厄介になりっぱなしで、少しは役立つかと思えば、只迷っただけ。しかも、忘れもんだと思ってたのは、オレにって、置いてったもんらしいし」

 守り刀だ、と改めて差し出された。

「そんな、呪いじみたもんを、持たせてえと思う程に、オレは頼りねえんだろうなあ」

「その刀が、迷い癖を治せるものなら、どんなに良かっただろうな」

 酔いが、回ってきているようだ、と気づきつつも、セイは軽く返した。

「この、言いやがったな。オレだってな、その気になりゃあ、直ぐに、行きたい所に行けんだよっ」

「へえ、すごいな」

 答えつつも、若者は湯飲みに、酒を注いでやる。

「だからな、お前も、しんどくなったら、オレを呼べよな」

「……?」

 思わず顔を見上げたセイを、葵は思いっきり抱きしめた。

 驚いている若者の背を、軽く何度もたたいてやる。

「お前は、いい子だからな。ずっと、周りを気にして、生きてんだろ?」

「いや、そんなことは、ないけど?」

「なら、何で、そんなむすっとしてんだよっ」

 絡み酒か。

「痛てえなら痛てえって、辛いなら辛いって顔、しろよう」

「ああ、分かったよ、そうするから、安心して眠ってくれ」

「本当かあ?」

 投げやりに答えると、顔を覗きこんだ大男が、目を険しくする。

 目の前で酒臭い息を吐かれ、顔を顰めそうになるのを抑え、セイは笑顔を浮かべた。

「本当だよ、あんたには、そうするから、な?」

 すると、葵も笑い返し、頷いた。

「よし、それで、いい……」

 裏表のない笑顔のまま、大男は床に転がった。

 危うく、一緒に倒れそうになるのを、何とか腕を振りほどいて逃れ、セイは葵を見下ろした。

 気持ちよさそうな、寝顔だ。

「……まだ、夜も更け切ってないけどな……」

 呟いたが、無理に起こすことはせず、大男の寝顔を見る。

 茶を、湯飲みに注いで、一口啜ると、大きく息を吐いた。

「……」

 先ほど聞いた話が、引っかかっていた。

 引っかかるところを、葵に訊いたとして、どうなるだろうか。

 山狩りに来た者たちが、待ち伏せしていたのではなく、一度戻ってまたやって来た。

 それは、元々、鬼は一人と思っての事だろう。

 では、どこで、もう一人の鬼に気付いたのだろうか?

 偶々、この大きな男が、家に戻るのを見たからなのか、誰か別な者が、新たに話を吹き込んだのか。

 セイが今思い当たる者が、新たな話を吹き込んだのだとしたら、何の理由があって、葵の前に現れたのだろう。

 今迄、何事もなく付き合っているし、守り刀を置いて行くくらいには、大切な男なのだろうから、取り越し苦労だろうとは思うが……。

 それに……セイは、改めて、蓮を思い出していた。

 メルの孫だ、と聞いていた。

 だが、見た限り、メルとの血の繋がりは、感じられなかった。

 かと言って、ランやエンと血の繋がりがない、とも言いきれない、何だか引っかかる感覚があった。

 こんなことは、初めてだからだろうか?

 顔を合わせてから、まだ間もないのに、どうも不安な気持ちになる。

 誰かに相談しようにも、どう話せばいいのかも分からず、若い頭領は一人、頭を悩ますのであった。

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