9-4 柔らかい空気

     ◆


 赤羽邸にやってきた男は、俺もよく知っている男だった。

 橙色のサングラスの向こうで、眉尻を下げているのがわかる。

「少しは人間らしくなったね、暗殺者の少年」

 男は火花に魔術師学校で指導をしている教師で、確か、名前はオースン・ラミアス、だったはずだ。

「先生に頼むしかないんですけど、やってくれますか?」

 そう言う火花がまだ魔術師学校の制服を着ているのは、帰宅と同時にラミアス先生を連れてきたからだ。

「やってくれるって、さっき言っていた魔術構造式を刻み直すって奴かい? 本気?」

「この前のワイン、飲みました?」

 何の話かわからないが、その一言で、急にラミアス先生の様子がおかしくなった。顔が赤くなり、青くなり、汗がこめかみを伝い、額でふつふつと雫を作る。

「飲んじゃいないよ、あれは飲み物じゃない、そう、赤い色の液体の姿になった、黄金だ」

「ひと口くらい、飲んだんじゃないですか?」

「まさか! これは神に誓ってもいい! 飲んじゃいない、いつでも返却できる!」

 くすくすと笑いながら、とにかく見るだけでも、と廊下を先導し始める。まだ何かブツブツと言っているラミアス先生を不審に思いつつ、あまり深入りして刺激するのも申し訳ないので、黙っていた。

 俺の部屋に入り、俺は上着を脱いで、ベッドにうつ伏せになった。背中に視線を感じた気がした次には、ひんやりした手が触れている。

「僕に何をしろって? 火花ちゃん。さあ、注文をどうぞ」

「それはシナークに聞いてくださいよ。シナーク、何かリクエストは?」

 注文してどうなるとも思わなかったが、それでも要望を伝えるとしよう。

「身体能力を底上げしたい」

 部屋が静かになる。え? とラミアス先生の間の抜けた声。

「それだけでいいの? 他には?」

「え、いえ、他には、ですか?」

 思わず聞き返すと、何か火花がラミアス先生に耳打ちしたようだった。それはまた遠慮深いことで、などと呟いている。

「じゃあ、シナークくん、少し、というかだいぶ痛いと思うけど、痛いっていうことは、魔術構造式が刻まれている、ってことだから、安心して耐えてくれたまえ」

「は、はい」

 この人は、本当に俺に魔術構造式を刻めるのかな。博士には無理だったけど……。

 行くよ、とまるで犬を散歩に連れ出すような気楽な様子で先生が言ったと思ったら、とんでもない激痛に悲鳴をあげそうになった。

 肉を焼かれる、なんてものじゃない。

 骨の内側をくりぬかれ、そこを削られているようだ。

 体が痙攣し始めるのを、耐えて、耐えて、とあやすようにラミアス先生が声をかけてくる。いやいや、そんな声でどうなるもんでもない!

 奥歯が砕けるんじゃないかというくらい、全力で歯を食いしばって、暴れそうになる四肢を抑え込む。

 時間の進行が意識できなくなり、強く目をつむっても、涙が滲んでくる。

 全身の痛みが痛みと理解できなくなった頃、背中に息が吹きかけられ、唐突に痛みが消えた。痺れだけが残ってるが、それも消えていく。

「さすがに根性だけはあると認めざるをえないな」

 感心した口調でラミアス先生が言っているが、俺は全身の先ほどとは別の痛み、力みすぎた反動の痛みに耐えて、指を動かすのも辛い。

「とりあえず、リクエスト通りの魔術構造式を刻んでおいたよ。前の魔術構造式のテクニックを応用させてもらったから、馴染むはずだし、性能に関しては前以上だ」

「お、応用……?」

「シナークくんに残っている、焼かれた魔術構造式を参照にして、応用したのさ。すごい技術だった」

 そうか、俺は、博士の技を、この人に教えてしまったのか。

 博士が魔術師学校にいた時の話を、俺にしたのはほんの数日前だ。どうして博士はあの時、俺にあの話をしたんだろう? 独立派魔術師の矜持が今になってみれば感じ取れたけど、それを俺に教えてどうするっていうんだ?

 魔術師学校、あるいは魔術学会を信用するな、という意味もあったのだろうか。

 少し休んでいると、体が動くようになった。そんな俺の横で、火花はラミアス先生とワインがどうのこうのと話し合っていて、何やら火花が先生を恫喝しているようにも見えたけど、実際はよくわからない。

「不具合があったら、調整するよ。まったく、タダより怖いものはないね」

 そう言って、ラミアス先生は魔術通路を形成し、去って行った。

「武道場に行って、試してみましょうか」

 そう火花に誘われたので、二人で武道場へ移動した。火花は制服のままだ。

 板張りの床の真ん中で、二人で向かい合う。

「いつでもどうぞ」

 そんなことを言っている火花は、何の構えも取っていない。

 正直、俺自身、自分に刻まれた魔術がどう作用するか、さっぱりわからなかった。

 試しに、動きを加速し、踏み込んでみる。

 少しバランスを崩しながら、火花の目の前に立っている自分がいる。しかし火花は見えていたように、俺の手を取って、何かの武道の動きで、俺を投げ、両足が床を離れた。

 俺の手首を掴んでいる火花の手を振りほどき、空中で姿勢を取り戻す。

 その着地点に火花の容赦ない足払い。体を畳んで、タイミングをずらし、回避。

 それでも着地点を執拗に狙って、足払いの勢いで、軸足を変えて、直蹴りが飛んでくる。

 着地と同時に背後に体を逃し、低空で背面で飛び、両手を床につき、ぐるっと体を回転させる。しゃがみこむように足から床にもう一度、降りる。

 驚いた。以前と遜色ない運動ができるようになっている。

「回復したみたいね。いい動きをするじゃない」

 火花が微笑む。

 いや、いい動きとかそれ以前に、スカートを履いているのに蹴りを何度も繰り出すなよ。

 なんとなく照れながら、「スゴイ腕前だな、あの人は」と誤魔化すと、誤魔化していると気づいていないらしい火花が「なにせ、精密機械、なんて呼ばれているからね」と笑う。

 それから二人で本館に戻り、それぞれに身支度を整え、食堂でまた顔を合わせた。

 そこで俺は赤羽朱花からのメッセージを伝えられた。どうやら火花が避難させてくれた仲間たちは、赤羽朱花の一行とともに、探検行の最中らしい。

「とりあえずは、落ち着きつつあるわね」ガツガツと雑穀米を口に放り込みつつ、器用に火花が話す。「問題はいつ、ここを暴かれるか、ということかしら」

 この山の結界は、はっきり言って強力に輪をかけて強力だが、俺が忍び込めた、という前例がある。

「ここに逃げ込んでいるとは知られないはずだけど、さすがに私の魔力の特性を解析されると、不安かな。緊急時の結界を起動させてあるけど、あの連中がさて、どれくらいの技量の持ち主か」

「迷惑をかけて、本当にすまない」

 大丈夫、大丈夫、と身振りをつけて火花が答える。

「これも私の甲斐性ということで」

「甲斐性?」

 どういう意味の言葉だったか、すぐには思い出せないな。

 結局、火花はこの山、そして屋敷の結界は破れないだろう、と結論を出して、それでも守護霊体と俺を紐付けしておく、と言っていた。

 夜が更け、眠り、朝になり、目覚める。

 誰かが襲撃してくることもなく、二人で食堂で顔を合わせる。

 おはよう、なんて挨拶を交わして、まるで普通の友達同士、いや、家族みたいだった。

 その眩さに目を細めながら、しかし、そんな関係を受け入れたいと思っている自分がいる。

 食事が終わり、火花は身支度をして部屋から出てくる。廊下で式神と並んで待ち構えている俺に、ちょっと目を見開いているのが可笑しい。

「なんでここにいるわけ?」

 俺の横にいる式神のエマが、かすかに笑ったようだった。俺はちょっと恥ずかしく思いつつ、「見送りかな」と言っておいた。

 肩をすくめて、エマから弁当箱を受け取った火花が、隣の部屋のドアの前に立つ。

「じゃ、エマ、シナーク、行ってきます」

 俺とエマが「行ってらっしゃい」と声を揃えると妙な顔をしてから、火花はドアの向こうを部屋ではない空間に変え、魔術師学校へ行ってしまった。

 俺は廊下でエマと顔を見合って、「武道場へ行くよ」とこちらから声をかけた。

「後で飲み物をお持ちします」

 エマが頭を下げる。

 ありがとう、と言って、俺は武道場へ向かって歩き出した。

 赤羽邸から感じる、不思議な安堵感が俺を包み込んでた。

 暖かく、柔らかい空気が、ここにはある。



(第9話 了)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る