6-3 尊厳

     ◆


 エマがシナークを彼の部屋に運んでくれて、私は軽食をパクパクと食べるラミアス先生に、シナークにどういう治療をすればいいか、詳細に聞いたけど、先生が繰り返すのは、自然治癒に任せればいい、ということだった。

 先生は私に、口の隅にスコーンのかけらをつけたまま真面目な顔で言った。

「とにかく、シナークくんはいずれは自然と回復する。だけど彼はもう魔術を持たない人間に戻っているようなものだということを、忘れないように。きっと、火花ちゃんの魔術焼却の性質を考えれば、シナークくんが全く同じ魔術が刻まれても、それは機能しない。もう元には戻れないんだ」

 器から目一杯ジャムをすくい取って口に放り込み、先生がもぐもぐしながら続ける。

「彼の立場は、まぁ、僕もよく知っているつもりだよ。その彼が、魔術を失って、通常人と大差ないというのは、あまりに危険すぎる。誰かが守護する必要もあるだろう。火花ちゃんが面倒を見続けろ、とはさすがに僕は言わないし、あまり変なことを言うと、きみのご両親に僕が殺されてしまうけど、とにかく、シナークくんが何かを決めるまでは、そばにいなさい」

「そのつもりです」

「今の発言は、教師としての助言の範疇ということで、あまり深く取らないように。本当に、特にきみのお母さんは、怖い人だから」

 それには私も賛成だった。

 器に残っているジャムを舐め取りたそうな顔をしながら、それでも先生が立ち上がったので、私はワインを入れた袋を手渡した。ウキウキした様子で、先生は中身を確認し、危うく瓶を取り落としかけた。

「ちょっと先生、貴重品ですから、気をつけてください」

 思わずそう言う私だけど、先生は慎重すぎる手つきでワインを袋に戻している。

「これ、本当に貰っちゃっていいの?」

「ええ、お礼です」

「でも、これって、えぇっと……、きみ、これがどれくらいの価値か知っているわけ?」

 実はあまり知らない。

 お父さんが管理しているワインセラーには三百本ほどの古今のワインがそれぞれに最適な環境で保存されている。その三百本は、全部で十のランクに分類されていて、今、先生に渡したワインは上から三番目のランクの三十本のうちの一本だ。

 でも、人一人の命の代わりだし、安いものだろう。

「気にせずに、ガブガブ飲んで、酔っ払ってください」

 きみねぇ、と先生の顔が強張り、汗がこめかみを伝う。

「このワイン一本で、蔵が建つ、と言っても過言じゃないよ」

「それは言い過ぎですよ。もしそうなら、この屋敷の地下は金脈になっちゃいますよ」

 これだから金持ちは、と漏らして、先生がため息をついた。

「ありがたくもらっておくけど、いや、僕の手元で保存しておくから、お父さんにはそう言っておいてくれ」

「言いませんよ。そのワインは先生にあげました、と話します」

「いや、それをされると僕の命が危ないんだって。困ったなぁ。まあ、良いだろう、さすがにあの人もコレクションに欠けがあれば、すぐ気づくか」

 ワイン一本で命なんて、大げさだなぁ。

 そっと袋を抱きしめて、先生が私を見る。

「じゃあ、僕は帰るよ。シナークくんのことは、ゆっくり考えなさい」

「はい、今日は、その、本当にありがとうございました」

「このワインでチャラだよ。じゃあね。また学校で」

 先生はドアに向かい、そこを開けた先は、物で埋め尽くされた狭い部屋だった。先生の生活している部屋かしら、と思っている目の前で、ドアが閉じる。

 とりあえず、シナークの様子を見に行こう。

 エマに先生が食べ散らかしたテーブルと食器の片付けを頼んで、私は廊下に出て、いつの間にか深夜になっていることに気づいた。

 シナークの部屋に行くと、彼はまだ眠っていた。

 椅子をベッドの横に引っ張ってきて、座って、目を閉じる。

 周囲の魔力の流れを感知する基礎的な魔術師の技能で、シナークの中にある魔力を確認。

 シナークの中には、まだ魔力はほんの少ししかない。しかしそれが消えていく様子はなく、確かに魔術構造式が機能していないのも、理解できる。

 何気なく、シナークの額に手を置いた。

 ひんやりとした感触。不安になって、手を口元へ動かす。指に確かに呼吸している空気の流れが伝わってくる。次に手首を取り、脈を確かめる。ゆっくりとだし、まだ弱い気もするけど、脈はある。

 しばらく、手首を握ったまま、私はそこにいた。

 助かってよかった。心底から、そう思った。

 私はその夜を、シナークの横で、じっとして過ごした。

 明け方になり、窓の向こうで鳥が鳴き始める。朝日が昇る予兆の光が、漆黒だった夜空を濃紺に変え、さらに色が薄まっていく。

 私が見ている前で、シナークの瞼がゆっくりと開く。

 体はまだ動かないようで、瞳だけが緩慢にこちらに向いた。

「大丈夫? シナーク」

 彼はまた瞼を閉じ、零すように言った。

「喉が渇いた」

 待っててね、と私は席を立ち、いつの間にか体がガチガチになっているのにこの時に気づいた。

 水差しとグラスを持って部屋に戻ると、シナークが起き上がろうとしたが、まだ体に力が入らないようで、上体を起こすこともできない。

 私が手助けして、どうにか座る姿勢になった。

「飲める? グラス、持てそう?」

 馬鹿にするな、とほとんど声にならない声で言うシナークが、激しく震える手をグラスへ伸ばす。

 馬鹿にするな、か。

 私が彼の口元にグラスを運ぶこともできた。でもそれこそ、馬鹿にしている、ということだろう。

 シナークは確かに衰弱している。

 でも、尊厳が失われたわけじゃないのだ。

 私はシナークが苦労してグラスを掴み、水面を激しく揺らしながら、少し水をこぼしながらでも、口元へグラスを運び、舐めるように水を飲むのを、そっと見守った。

 シナークがグラスを私にゆっくりと突き返し、眉間にしわを寄せながら、

「俺に何が起こった?」

 と、訊いてくる。

 答えづらい質問だけど、真実を伝えるのが、私の役目でもある。

 落ち着いて聞いてね、と私は前置きした。

 シナークが、かすかに顎を引くように、頷いた。


(続く)

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