第5話 遊びのはずが
5-1 何かが違う
◆
俺はいつも通りに武道場で訓練を続けている。
いつか、赤羽火花が言っていたことを、俺は少しずつ意識し始めていた。武道場に向かう前、部屋から出て窓越しに中庭を見れば、花が必ずどこかで咲いている。
手入れが行き届いている上に、季節ごとに何かしらの花が咲くように、様々な種類の草木が配されているようだ。
桜は既に散って久しく、緑の葉がいっぱいに広がっていた。
武道場の周りにも花壇があり、俺にとっては名前も知らない花が咲いていた。あるいは赤羽火花にはわかるのかもしれない。
その日、武道場を出た時には夕方で、ざっと風呂に入って出てくると、廊下で赤羽火花と遭遇した。彼女は帰ってきたばかりで、まだ制服姿で、式神を伴っている。式神が彼女のカバンを持っているあたり、なんとも、高貴なことである。
にっこり笑って「ただいま」などというので、「お疲れ様」と応じる。「お帰りなさい」とは、どうしても言えない。まぁ、お疲れ様でも変わらない気がするが。
俺が部屋へ戻ろうとすると、赤羽火花が横に並んでくる。
「明日が日曜日だって知っている?」
何を言い出すのやら。
「これでもカレンダーは見ている。どうせ、軟禁されていてどこへも行けないが」
俺の言葉に、ちょっと羽を伸ばしましょうよ、と赤羽火花が軽い調子で言い出したので、さりげなくちらっと彼女を見ると、嬉しそうに笑っている。
「後で荷物をエマに届けさせるから、見ておいてね」
そんな言葉を残して、彼女は自分の部屋に入っていってしまった。ドアの前で式神からカバンを受け取っていて、なんでカバンをここまで持たせたのか、ちょっと理解に苦しむ。いや、それは余計な思考か。
ドアが閉まるのを見届けている式神を見やると、「すぐお届けします」と言ってこちらに頭を下げ、去っていく。
何をよこすんだ?
立ち尽くしてても仕方ないので、自分の部屋に入り、まだ濡れている髪の毛をドライヤーで乾かして、夕食の時間になったところで食堂へ行った。
少し遅れてやってきた赤羽火花が、本を何冊か抱えているのに気づいた。本というより、雑誌だろうか。それが全部、俺の目の前に置かれる。
「それでちょっと勉強しておいてね」
見てみると、スポーツ関係の雑誌で、なぜか水泳の雑誌だった。
なぜ、水泳?
式神がやってきて、料理が机に並ぶ。俺はパラパラと本を眺めて、最新の競泳水着の情報や、泳ぎ方のコツやフォームの解説、水泳選手のインタビューに、まったく興味を惹かれないまま、そっと机に戻した。
いただきます、と無意識に口にして、食事を始める。今日も赤羽火花の前には、大量の料理が並んでいる。俺の前にあるのが一人前とすれば、赤羽火花は三人前くらいある。
「シナークは泳げる?」
焼き鮭から上品な仕草で骨を取り除きつつ、そんなことを訊かれた。
「それほど経験はないが、泳げるはずだ」
「経験って、何回?」
実は二度だけだったが、数回だ、とボカしておく。
ふむふむと言いつつ、いい焼き加減の鮭の切り身が、彼女の口に消えていく。
「まぁ、実力のほどを、見せてもらいましょうか」
なんか、嫌な予感がしてきた。
ただ、下手に藪をつつきたくなかったので、黙っていた。
俺が先に食事を終えて、いつも通りのチャイティーを飲んでいる前で、赤羽火花は、のんびりと食事をしている。俺も変に馴染んでしまったものだ。
マグカップが空になったので、俺は席を立った。
「また明日ね、シナーク」
ああ、と赤羽火花に手を振って、食堂を出る。って、何が、ああ、だ。手まで振ってしまって。
本当に、馴染みすぎだ。
部屋に戻って、仲間からの通信が録音されている、そっけないアクセサリーにしか見えない水晶の玉を手に取ろうとすると、ドアがノックされる。水晶をさっと隠す。
「何だ?」
声をかけると、お荷物をお届けに来ました、と式神の声がする。そんな話もあったな。
ドアを開けると、小さなトランクを持った式神の姿があった。
「サイズは問題ないと思います。お嬢様から、出発は八時半だとお伝えしてください、とのことです」
「出発?」
「小旅行だと伺っています」
まったくわからない。
しかし式神を問い詰めても仕方ないし、食堂へ戻って当の赤羽火花に話をするのも面倒だ。
それに小旅行というのなら、脱出して、逃げ出す好機かもしれない。
トランクを受け取ると「失礼いたします」と丁寧に頭を下げて、式神は去って行った。
部屋に戻り、トランクを開けてみる。なんだ? タオルと、ゴーグル、それと、水着?
なるほど、だから水泳の雑誌やら、泳げるかどうかの質問があったわけか。
トランクに全部を戻して、俺は水晶を取り出し、仲間の通信を聞いた。進捗を訊ねる、いつも通りの通信と、依頼主がせっついている旨が短い通信で届いている。こちらからは、今まで通りの通信内容を返すしかない。
現状に変化なし。機を待つ。そんなところだ。
ベッドに横になり、しかし徐々に仕事の達成は近づいているのではないか、と考えた。
赤羽火花はいよいよ俺に気を許しつつある。守護霊体の存在が一番の障害で、赤羽火花一人なら、もしかしたら、不意を打てば殺せるかもしれない。
例えば、背後から首を掻き切る、とか。
血が飛び散り、彼女が倒れる。
倒れて……、動かなくなる……。
二度と、だ……。
想像すると、心がざわつく。
何か、間違っている。でも、何が?
答えが出ないまま、明かりを消した部屋の天井を見ているうちに、眠ってしまった。
翌朝、いつも通りに早朝に起きて、朝食の前にも武道場へ行く。軽い運動をしても、汗を掻くような暖かい気候の日も増えた。
朝食に間に合うように、一度、風呂へ行って汗を流す。
髪の毛が生乾きのままで食堂に入ると、式神と赤羽火花が何かを話している。こちらを見て、彼女が微笑む。
「おはよう、今日はいい日和よ」
思わず窓の向こうを見ると、確かに晴れているようだ。本当にどこかへ行くらしいが、水着が用意されているのなら、海かプールのどちらかだろう。
「俺をこの屋敷から出してもいいのか?」
挑戦するつもりで言いながら、自分の席に着く。式神が料理を運んでくる。この式神が作る厚焼き卵はいくらでも食べられる逸品で、今日の献立にそれがあって、ちょっと嬉しい。
いや、嬉しがっている場合か?
なぜか俺に合わせて「いただきます」と手を合わせ、赤羽火花も食事を始める。
「あまりここに長くいるのも、退屈でしょ? それでもすでに二ヶ月近く、ここにいるわけだけど」
「結界を抜けたら、さっさと消えるよ」
「できるもんならやってみなさいな」
なんだ、やけに余裕たっぷりだな。俺を馬鹿にしているのか?
いつも通りに俺の方が早く食べ終わると、そこへ赤羽火花が声をかけてくる。
「荷物を持って準備をして、私の部屋の前に八時半ね。着替える場所がないから、水着を着ておくように」
やれやれ、本当に俺をどこかへ連れ出すつもりなんだ。
命令に従うのも癪だが、今は従順なふりをしておこう。
言われた通りに部屋で水着に着替え、これもトランクの中にあったパーカーを羽織る。ゴーグルをそのポケットに突っ込む。タオルは丸めて抱えた。
時間に赤羽火花の部屋へ行くと、彼女はまさに海水浴に行く服装で現れた。鮮やかな色合いのパーカーを羽織っているが、その下は真っ赤なビキニだった。ちょっと目のやり場に困るな。
「じゃ、行くわよ」
そう言って、彼女が自分の部屋のドアを開ける。
彼女の部屋の内部が見える、はずが、違う光景が広がっている。
そこにあるのは、砂浜だった。
彼女がドアの向こうへ行くので、俺も続いた。
途端に、落雷のような轟音が響いた。慌てた様子で赤羽火花が俺の手を引っ張るのは、反射的な行動に見えた。
華奢な手に引き寄せられて、二人で砂浜に倒れ込んだ時、俺たちの視線の先で、砂浜に場違いが過ぎるほど場違いにぽつんとあったドアが、バラバラに崩壊し、虚空に引きずりこまれていく。そして一つの点になり、それさえも消えた。
「嘘ぉ……」
赤羽火花が呟く声が、波が打ち寄せる静かな音に紛れて、消える。
(続く)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます